EPISODE Ⅲ ALL YOU NEED IS BLIND

I


気怠けだるさを纏った長い黒髪を、整った細長い指先が掻き上げる。


神解駅しんかいえき西口付近にある事務所、南風なんぷうを出た春燕 (チュンイェン)は、赤いスポーツカーに乗り込もうとしていた。


運転席側のウインドウに写る、スタイル抜群のチャイナドレス姿が街灯に照らされ、年齢不詳の美しさを助長していた。


「又是你 《またか》」


嫌そうに春燕が呟く、車体のボンネットに白髪混じりのボサボサ頭の青白い顔をした中年男が、だらりともたれ掛かっているのだ。


毎度うっとうしいと唇を尖らせ、口を半開きにしたその中年男にはかまわず、乱暴にフロントドアを開けて中に乗り込む。


車のキーを回しエンジンをかけ、アクセルペダルを踏み込み思い切り吹かした。


眠りから覚めて呼吸するように、車体が小刻みに振動し、甲高いエキゾーストノートが春燕の内面にある怒りを連想させた。


しかし、ボンネットにもたれ掛かったままの中年男は微動だにせず、フロントガラス越しに春燕の顔を、白眼のない真っ黒い底無しの井戸のような眼で恨めしそうに覗き込んでいる。


チッとかなりデカめの舌打ち一つ、ブランドのロゴが派手に主張したハンドバックからタバコを取り出し、火を点けた。


ぐっと肺に煙を深く流し込み、ゆっくり吐き出すと白煙が車内に漂う。


ドアミラーに視線を合わせ後方を確認すると、ハンドルを強く握って車を発進させた。


チラッチラッと携帯のディスプレイを見ながら走っていると、無機質な着信音がご機嫌なエンジン音に覆い被さる。


「我知道,我现在就在路上。《分かってる、今、向かってる》」


吐き捨てるように春燕が携帯に言うと、通話を切り咥えていたタバコを灰皿にねじ込んで、すぐにまた新しい煙草に火を点けた。


春燕は落ちたテンションを上げるため、

慣れた手つきでカーステレオにCDを差し込みオーディオを操作する。


ドラムの重いビートと、ピアノのメロディが車内を満たしていきサビに到達すると、


「イッツマイ……アアアアアアアイヤ」


気分よく曲のサビを歌っていた春燕の視界が突然、何か得体の知らない巨大な黒い影に遮られたのだ。


咄嗟に左へ急ハンドルをきって、思い切りブレーキを踏んだ。


車は左側の歩道に乗り上げ、その黒い物体とは間一髪、衝突を免れた。


額に冷や汗を滲ませながら、何が起こったか頭の中で整理している時、ボンネットの上の中年男が口を半開きにしながら右側を指差しているのが見えた。


「什么?《え、何?》」


ウインドウを下げながら中年男が指さす方へと顔を向けると、春燕は下を向いたまま重く深いため息を吐かざるを得なかった。


背が高く黒髪をポニーテールに纏めた女性と、背の低いミディアムボブの金髪にギラギラした碧い目をした黒スーツ姿の二人組みが立っている。


唖々噛對ああかむに事務所を構える、憎き商売敵、幽合会ゆうごうかい片田へんでんとユーコ•那加毛なかげだ。


春燕はドアを蹴り開けて車から降りると、

すっと立ち上がり二人に対峙して睨みつけた。


「チョット!危ないじゃない!あんた達はいつもどんな商売してんノヨ!」


春燕の怒声が深夜の道路に響き渡る。


怒声に気づいたユーコが金髪を掻き上げながら、顔をゆっくり春燕の方へ向けた。


「あー、南風の霊幻道士れいげんどうしか」


ユーコの碧い双眸そうぼうが月光に照らされ、口角をくいっと上げながらしたり顔で春燕の方へ近づいて来る。


「テンテンジャなイワ!誰が霊幻道士ヤノ?あんたと同じクリーナーヨ!クリーナー!」


「この前のゾンビキョンシー事件の時、確かあんたに貸しがあったよねぇ?」


「貸し?は?あんたが汚物は消毒だってビルの中で火炎放射器使って火事になって、あんたの部下の機械人サイボーグがビームでビルごとぶっ飛ばしたネ」


二人はヒートアップしながら顔をゼロ距離まで近づけて、さらに罵り合う。


「あんたがゾンビキョンシーたくさんだから助けて〜って言うから手伝ったのに」


「アレは貸しじゃないヨ! 矮个子女 《チビ女》!あの後、あんた達がブッ壊したビルのオーナーカンカンヨ!」


ユーコが両手を前に突き出すと春燕も呼応して両手を突き出し、手四つの体勢になり純粋な腕力による力比べが始まった。


ユーコの碧い瞳から光が消えて、暗いガラスのようになり、冷たい視線で春燕の目を覗き込む。


眉間に深い皺をよせお互い一歩も譲らず、

がっつり握りしめ合った両手に、お互い全身の筋肉を総動員して力み、二人の歪んだ表情がぷるぷると震えだした。


緊張感がピークに到達した時、尖らせたユーコの唇が動いた。


「は?チビ女?殺すぞ、このデカ尻ば…」


と、ユーコが言いかけた時、肉塊を殴りつけるような鈍い打撃音が数発、春燕の後方から聴こえた。


両者一歩も譲らない睨み合いを続けていたが、ユーコが突然手四つを崩して春燕の視界から消えた。


その瞬間、憎たらしいユーコに全神経を集中させていた春燕の背中に、黒い巨大な何かがぶつかってきた。


背中に重い衝撃を感じたが、アドレナリンが全開の春燕は微動だにせず、邪魔するなと眉間に深い皺を寄せ、顔を歪ませゆっくり振り返った。


黒く、甲殻類を想わせる、いかにも硬そうな肌をした二メートル近くある屈強な肉体のミュートが、両手を左右に広げてバタバタさせている。


「あっ」


両目をかっと見開いたユーコと、真顔の片田が同時に口を開けて揃って言った。


「あ、あ、ああああぁぇあぎえげぇ」


黒いミュートの発した壮絶な断末魔が、夜の街に轟いた。


身体が何度も激しく揺れて、皮膚が超高温のマグマようにボコボコと隆起を繰り返した後、黒いミュートの頭部がぐにゃりと真っ二つに裂けると、爆発四散し絶命した。


飛び散った黒いミュートの肉片を凝視していた片田が、何かを拾い上げて上着のポケットに素早くしまった。


春燕の顔に爆発した黒いミュートの肉片と黒い血飛沫が、バケツの水をひっくり返したように降り注ぐ。


「最糟糕的… 《最悪…》」


全身を真っ黒い返り血を浴びて汚された春燕が、溜め息混じりに呟いた。


II


黒いミュートの返り血をシャワーで洗い流しながら、春燕は古い記憶を想起した。


幼い頃に両親を事故で亡くした春燕は、他に漏れず極貧生活を中国、上解しゃんかいのスラム街で送らざるを得なかった。


毎日、腹を空かして自分の無力と出自を呪った。


同い年ぐらいの両親がいる普通の家族を街で見かける度に、言葉では言い表せない劣等感と憎悪が、腹の底からじわじわと湧き上がる感じがたまらなく嫌だった。


ある時、出会ったマフィアの殺し屋に拾われてから、暗殺術を叩きこまれ、仕事をこなしていたが、ある任務中に下手を打ち、組織を追われてこの街、神解こうかいへと逃れて来た。


南南街の屋台で唐揚げを売っている時に、

対変異体民間個人事業者組織、南風の先代社長、わんに出会い、殺しの技術を見抜かれて雇われた。


南南町を拠点に活動する、チャイニーズマフィアグループ毒蜘蛛どくぐもとの抗争に巻き込まれ、先代の王さんは呆気なく亡くなった。


そしてまた、春燕は一人になってしまった。


ずっと一人、ずっと一人で腹を空かせて来たクソみたいな想い出だ。


どこにでもある安いセール品のシャンプーと、いかにも高そうなシャンプーが目に留まった。


きっとこの高そうなシャンプーは、あの小生意気な金髪チビ女のだろうと思い、躊躇なくプッシュして使ってやる。


ただ依頼主クライアントの所へ向かっていただけなのに、どうして私がこんな目に遭わなければならないのか?


三年前、南風を先代社長、王の死から引き継いで、しのぎを削っている幽合会のニヤニヤしたうるさい金髪チビ女。


加減を知らず、何でも破壊する感情を持たない機械人サイボーグのせいに違いないと、脳内で反芻はんすうする。


あいつらは憎い商売敵だ、だがクリーナーとして腕が立つのは事実。


正直、あの二人とまともにやり合えば自分に勝ち目が無い事は認めたくなかった。


頭の中でユーコと片田を出し抜く計画を何度も実行しては、失敗し、春燕は考えるのを止めた。


シャワーを止めて支度をしている時、

洗面台の鏡の中に白眼のない真っ黒い眼をした中年女が春燕の顔を覗き込んでいた。


春燕はデカい舌打ち一つ、乱暴にバスタオルで頭をわしゃわしゃと拭いて鏡の中の、

中年女の突き刺すような視線を無視した。


鏡の中の中年女を無視し続けながら、支度をしているとバスルームの外から男の声が聞こえてきた。


「ユーコさん、なんであのミュートを殺したんですか?」


公安四課の魚家うおいえが煙草の灰を灰皿に落としながら聞いた。


「不可抗力って奴かな、あの、南風の霊幻道士が現れて揉めてたら勝手に爆発したの」


悪びれる様子もなく、淡々とユーコが魚家に視線を向けながら言った。


「勝手に爆発するわけないじゃないですか」


魚家が語気を荒げてユーコに問いかけると、カタカタとノートPCのキーボードを触って作業する片田へと視線を移した。


「片田さん、やり過ぎですよ」


魚家が片田の方をゆっくり向いて、低いトーンで言った。


片田は魚家の方を全く気にせずキーボードを叩いている。


「うちの片田はやり過ぎてないですよ、言ったでしょ不可抗力って」


再び魚家が口を開こうとした時、スマホのディスプレイを撫でていたユーコが会話を遮った。


ほれほれとスマホの画面内に映し出された写真を、ユーコが魚家に見せた。


「こ、これは」


魚家がユーコからスマホを受け取り、指でピンチズームしながら画面内の資料を凝視している。


「USBメモリを寄越せって優しく言ったら、あの黒いミュートが飲み込んだの」


早く返せと手を伸ばしたユーコが、魚家からスマホを取り返しながら言った。


「す、すいません片田さん、先に言って下さいよ」


魚家が片田の方に向き直って言った。


「魚家さんが探してるのって、毒蜘蛛どくぐも黒毒こくどくのヘイという幹部が流してる違法変異薬物モーフですか?それともヘイの方?」


ノートPCの画面から視線を外した片田が、魚家の顔を見ながら冷たい口調で問いかけた。


「両…方…と言ったら、怒りますか?」


えへへと苦笑し、煙草に火を点けながら魚家が申し訳なさそうに答える。


ふぅっと溜め息一つ、ユーコがやれやれあなた何をおっしゃられるのと、スマホから視線を外すと魚家を見た。


「冗談キツいよ魚家さん、またチャイニーズマフィアとドンパチやれっての?私達は違法薬物取引の証拠になる、このUSBメモリを手に入れるまでしか今回、依頼されてないんですけど?」


「そうですか、ああ、そうそうユーコさん、この前の違法賭博格闘技場から……」


魚家が言いかけるのを左手で制して聞かないまま、ユーコがすっとソファから立ち上がり何処かに電話をかけ出した。


眉毛を八の字に歪ませた魚家が内心、おたくのボスはいつもいつも一体どういう人なんですか?という言葉を飲み込み、ノートPCと睨みあう片田の顔に困り顔で視線を送り訴えかけている。


「ポートピアアイランドの港島町にある、

黒虎冷力ブラックタイガーコールドパワーという会社の倉庫の取り引き履歴が、USBメモリに記載されていました。

取り引きは今度の金曜日、午後23時ぐらいに行われているっぽいです」


片田が鋭い視線を魚家に向けてから言った。


「なるほど、そこが黒毒のヘイが仕切るフロント企業って事ですか、取り引きは金曜日の夜、いやあ片田さん、さすがですね」


フィルタに火が近づいた煙草を、魚家が灰皿にねじ込みながら言った。


その時、バスルームの扉が開いて唐突に、春燕が出て来た。


「このシャワー弱くない?お湯がぬるいし、直した方がイイヨ?」


長い黒髪をバスタオルで拭きながら春燕が言った。


電話を切ったユーコの禍々しい碧い瞳が、春燕に向けられる。


「あんたねぇ、他人の事務所でシャワー借りていきなり文句って、まずはありがとうございますでしょ?」


「は?あんた達のせいで身体中真っ黒になったノニ?なんでありがとうナノ?」


二人の殺気で事務所内が一気に険悪なムードになり、ピリピリと張り詰めた空気を感じた魚家は、ソファに座ったまま動けないでいる。


春燕がユーコと片田にガンを飛ばしたまま、魚家には目もくれず、フンっと唇を尖らせて、ソファに置いてあったハンドバックをひったくるように乱暴に掴み取ると、振り回されたハンドバックからリップスティックが落ちた。


春燕はお構いなしで、そのまま幽合会事務所を出て行った。


床に転がるリップスティックに気づいた片田が、春燕を追いかけはせずに拾い上げると、まあ、また会った時に返そうと思いそっと机の引出しにしまった。


「だ、誰なんですか?今の?」


魚家がたまらず口を開いた。


「南風の春燕っていうクリーナーです」


魚家の問いに、片田が返答した。


「は、はあ…なんでそんなに仲悪いんですか?」


仁王立ち姿のユーコに、目線を合わせず恐る恐る魚家が問いかけた。


「ああ、あれ、ただの女狐よ、ちょっとスタイルがいいデカ尻の」


いつもとは違うシリアスな低い声で言ったユーコが、魚家の方へ寄ってきて耳打ちしだした。


「ええっ!そ、それじゃあ!」


目を大きく開いた魚家が叫んだ。


「この依頼、高くつきそうね、それなりの装備代金と報酬は頂けるんでしょう?」


ユーコがニチャリと口角を上げて、邪悪に歪んだ顔で魚家に言った。


その様子を見た片田が、机に肘を付いたまま両手で頭を抱えてうな垂れている。


「ま、まあ、毒蜘蛛絡みですし、無理のない範囲でお願いしますよユーコさん」


無くなった煙草の空ケースをぐしゃっと手の中で潰した魚家が、頭をガリガリ掻きながら苦笑する。


「毒蜘蛛を捕食者プレデターが狩る」


嬉しそうなユーコの言葉を聞いた片田と魚家は、ため息を吐いて項垂れた。


ぽんと柏手を一つ打ったユーコが、満面の笑みで碧いギラギラした双眸を輝かせた。



春燕は幽合会事務所を出ると、急いで停めてあった車内に雪崩れ込み、口角をくいっと上げて、バックから取り出した煙草に火を点けた。


相変わらずボンネットの中年男は、白目のない真っ黒い目で春燕の顔を覗き込んでいる。


何処、憐れみを含んだ視線を無視して、唇から紫煙を燻らせ車内に漂わせる。


携帯を手にとりスピーカーボタンを押して電話をかけた。


車内に高音の機械音が鳴り響いた後、少し間をおいてから壮年男性のしゃがれた声の中国語が聞こえてきた。


「你还要让我等多久? 《いつまで待たせるんだ?》」


「据我所知,毒蜘蛛在港岛町一家名为“黑虎灵力”的公司的仓库里 《情報は掴んだ、毒蜘蛛は港島町にある黒虎冷力っていう会社の倉庫に居る》」


「在那个仓库里交易和储存毒品? 《その倉庫で薬の取り引きと保管を?》」


「五晚上11点左右举行 《金曜日、午後23時ぐらいに行われている》」


「再这样下去,店家就要破产了,请赶紧做点事情吧 《このままでは、店が潰される、早くなんとかしてくれ》」


簡潔で端的なやりとりが続いた後、電話相手の周富凛しゅうふうりんから通話を終わらせた。


春燕の依頼人、周富凛は南南町にある飲食店、熊猫飯店ぱんだはんてんの経営者だ。


毒蜘蛛(黒毒組)からのみかじめ料要求、運営妨害等の嫌がらせ行為に対して、毅然とした態度で拒否の姿勢を貫いた。


しかし、抵抗すればするほど嫌がらせはエスカレートしていき手に負えなくなり、報復措置として毒蜘蛛(黒毒組)の始末を春燕に依頼してきたのだ。


周富凛の悲痛な声を聞いた春燕は、咥えた煙草のフィルタを噛んで眉間に皺を寄せる。


南南町付近の駐車場に車を停めると、春燕は熊猫飯店へと歩き出す。


熊猫飯店の入り口に近づいた時、毒蜘蛛のチンピラ達が半泣きで跪く店員に、悪態を喚きながら店を出て来るのが春燕の視界に入った。


「发生了什么? 《どうしたの?》」


「春燕先生,他们又威胁我,要我交保护费  《チュンインさん、また脅されて、みかじめ料を払えって言われました》」


訳を聞を聞いた店員少女の顔から目を背けた春燕が、デカい舌打ち一つ、細く鋭利になった殺意の目を、店から離れて行くチンピラ達の背中へ向けた。


「不好了,别在这里惹他们了 《駄目だ、ここで奴等に手を出しては》」


店内から出て来た周富凛のしゃがれた声が、殺気に満ちた春燕の温度を下げた。


興を削がれた春燕が煙草を取り出して火を点ける。


「我将在下周五完成这一切 《今度の金曜日に全て終わらせる》」


気怠そうに煙草の煙を吐き出した春燕が、周富凛に言った。


「但愿如此 《だといいがな》」


春燕が吐いた煙を手で振り払って、周富凛が半泣きの店員少女をなだめながら店内に戻って行った。


三日月が凶悪に歪んだ春燕の顔を照らしている。


熊猫飯店を出て駐車場へと向かう毒蜘蛛のチンピラ達が、睨みを効かせながら細い路地に入った時だった。


「嘿,兄弟们 《ちょっと、お兄さん達》」


そう呼び止める声と共に、うすら寒い冷笑を耳にしたチンピラ達が一斉に振り返るその刹那、暗闇から突然、垂直に伸びた細い閃光が走る。


暗所に灯りがまたたいた、そして、その閃光はチンピラ達の肉体を光速で通過していった。


「什么?现在? 《な、何だ?今の?》」


と、チンピラの一人が呟いた瞬間、チンピラ達の視界に真っ直ぐな黒線が入り、全身が自分の意思とは関係なく縦に五分割にスライスされていく。


どす黒い血液を地面にぼとぼと垂らしながら、チンピラ達分の黒い血溜まりがスライスされた肉塊と共に形成された。


暗闇からぬぅっと顔を出した春燕が、二十センチぐらいの鋭利に尖らせた爪をシャッと元の長さに戻し、地面に転がる黒い骸にぺっと唾を吐きかた。


三日月から降り注ぐ凶々まがまがしい月光が、春燕の指先から漂う紫煙の色味をゆらゆら変えた。



金曜日──────


「23時に乗り込むんですか、例の倉庫に?」


「そうね、とりあえず遠くから見張って…」


少しの間、無音になる。


「うーんそんなに我慢出来ない、面倒くさ、なんだっけ黒毒ってのがドラッグディールしてたら乗り込んでやっちゃえばいいんじゃない」


「ユーコさん、それ作戦じゃなくてただのカチコミですよ」


「正面突破、一網打尽作戦、いつも通りじゃない?」


片田がはぁと深い溜め息を吐く風音が、

イヤフォンを通して春燕の鼓膜を揺らした。


外出支度をするようなノイズが聴こえた後、事務所の扉をバタンと閉める音が聴こえた。


あの夜、幽合会事務所で落としたリップスティック型の盗聴器から聴こえる会話を、車内で春燕は煙草を吹かして聞き耳を立てていた。


あの阿保二人が倉庫に乗り込んでドンパチやってる間に、どさくさに紛れて標的ターゲット、黒毒のヘイをる。


手下はおそらくあの二人が片付けるだろう、五毒将軍の一人、黒毒のへいをる、それが春燕の受けた依頼だ。


憎悪が決心を固めると、吸いかけの煙草を灰皿にねじ込み春燕は乱暴に車を発進させた。


黒虎冷力倉庫内──────


暗い倉庫内に明らかにサラリーマンではない着こなしの背広姿の軍団が入って来た。


そのヤクザ達の一挙手一投足を見逃さない、細く鋭い目つきの黒い作業着で服装を統一された毒蜘蛛の構成員達が、倉庫中央で対峙していた。


「ヨウコソ、トキタさん、お待ちしておりますた」


スキンヘッドに丸い色眼鏡、顔中に切り傷がある背の高い妖しい男、黒毒ことヘイが言った。


「どうも、ヘイさん」


少しヘイより背が低い、短く刈られた黒髪をポマードでオールバックに固めた男が、

アメ色の眼鏡を外して胸ポケットにしまうと、サイボーグ化された真紅の左眼が露わになり、ゆっくり頭を下げた。


ヤクザ達の中でも一際高級な背広を着た男、剛王連合若頭、時田学ときたまなぶ


二人とも堅気かたぎではないオーラがビンビンで、服の上からでも分かる屈強な身体が、周りの手下共との力量の差を示している。


そして、いびつな笑顔で、お互いに差し出した右手で握手を交わした。


「まだコユビあるんですね?」


「まだ下手打ってませんから」


二人の冗談を聞いた周りの手下達は、無表情でお互い睨み合っている、握手を交わした二人だけが微笑している。


「ヘイさん、モーフっちゅう新薬を売って下さるそうで」


時田の緩んだ表情筋が引き締まる。


「ハイ、説明するより見せた方がハヤイですね、把新药带到这里来 《新薬を持ってこい》、すごいですヨ」


ヘイが手下に指図すると、下っ端がブリーフケースを持ってきて、ヘイに渡した。


「トキタさん、怒らないで聞いて下さい…」


会話の途中でヘイが時田に耳打ちしだした。


「あなたの仲間に潜入してる犬がイルヨ、それ、私分かります、そいつを使って…」


時田は片眉をくいっと持ち上げただけで、想定内だと驚きもせずにヘイの話しに耳を傾ける。


「なるほど、おい!宗光むねみつ、こっちへ来い」


時田に呼ばれた宗光という三十代後半ぐらい、暗い表情で濁った目をした無精髭の優男やさおとこが、時田の横に並んだ。


「宗光、お前なんでこの前のクリスマスパーティ来なかった?」


は?一体何だこの質問は?クリスマスパーティ?違法地下格闘技場?何故、時田がこんな場面でこんな質問をしてくるのか、宗光は急転直下の質問に頭脳をフル回転させ、記憶を総動員して手がかりを探す。


返答に時間をかけ過ぎては駄目だ、額面通り受け取っていいのか?宗光は額に汗を滲ませて口を開いた。


「あ、あの日は、闇スロの上がりを回収しに行ってました」


「そうか」


時田は、ヘイが差し出したブリーフケースから黒い液体が入ったインジェクターを手に取ると、ノールックで横に立つ宗光の首筋に針をブッ刺した。


「あっああああぐ、ぐぐ、はあっ」


時田の親指に押し出された黒い液体が、宗光の首に刺ささった針から急激に流し込まれ、全身の血管がぜてしまいそうな高熱が宗光の全身を包んだ。


震える口の端から涎を垂らし、インジェクターで刺された首筋を手で抑えながら、腰から抜いた拳銃をゆっくりと時田の方へ向けた。


「違うな、お前はデコにチンコロしてただろ?」


宗光が震えながら握る拳銃を見て、時田が吐き捨てるように言って続ける、


「お前がやっぱデコ助だったか、おかしいと思ったんだよ、あんなタイミングでデコ助がガサに来るからよぉ」


口の端を曲げた時田が宗光を見つめると、ヘイが長い腕をぬるっとだして時田を制した。


「薬が効いてクル、トキタさん」


にやっと微笑したヘイが時田と共に後ろに一歩下がると、震える身体をなんとか抑えて向けられた銃口が、力なく地面に落ちていった。


顔面蒼白の宗光が、両手で頭を抱えるように身体をくの字に曲げて苦しみ悶え始める。


倉庫内に断末魔に似た絶叫が轟くと、宗光の衣服からはみ出している顔面と両手の皮膚がどす黒く変色していく。


黒く硬質に生まれ変わった頭皮から髪の毛が全て抜け落ちて、宗光はもはや人の形を保っていなかった。


そして優男だった肉体が、倍ぐらいのデカさに肥大化し、目が鋭く吊り上がり、歯と爪が獣のように鋭く伸びて尖り、姿を変貌させていく。


「请有人来对付这个家伙 《誰か、相手をしてやれ》」


そう言うと、パンと柏手を一つヘイが打った。


ヘイの命令を聞いた一人の手下が宗光同様、身体を変異させてミュート化した。


ネバネバした涎をたらして、キイキイと人語ではない奇声を発してゴロゴロと床をのたうち回っていた宗光が、むくりと起き上がった。


完全に黒いミュートの姿に変異した宗光が、牙を剥いて長く伸びた自分の爪を見つめている。


その宗光にヘイの手下のミュートが鋭い爪で切りつけた。


二人のミュートはほぼ互角に爪と牙による殺し合いを繰り広げる。


その二人を見ながらヘイが時田に微笑みかけた。


「いやあ、噂に違わぬすげぇ薬だ、気に入ったぜヘイさん」


時田が満足気にヘイに賞賛を送る。


「交渉成立ですかトキタさん?」


「ああ、ヘイさん、宜しく頼むよ」


そう時田が返した後に、ヘイの腰から鞭状に伸びた黒い尻尾が、宗光だったミュートを捕えるように巻きついて離れると、一瞬でバラバラの黒い肉塊に変えた。


ヤクザ達とヘイの手下達が無表情のまま、拍手してパチパチという乾いた音が倉庫内を包んだ。


ヘイと時田が再び握手を交わした。


黒虎冷力倉庫付近──────


イヤフォンから聴こえるパチパチと乾いた音が魚家の鼓膜を揺らし始めた時、抑えきれない憤怒の拳が、ハンドルを叩き車内の沈黙をぶち破った。


「潜入捜査官が…殺されました……」


暗い表情で運転席に項垂れる魚家を見たユーコと片田が、何も言わずに後部座席から車外へ降りた。


「狩りの時間ね」


凶険きょうけんに口角をニチャリと上げたユーコの表情を見た片田が、車の方を振り返り車内で下を向いたままの魚家を一瞥いちべつした。


そして、二人とも右腕に装着したデバイスを左手で操作すると、四角い液晶に赤い数字の様なドット文字が表示され、二人は夜の闇に姿を溶かして、黒虎冷力倉庫の方へ消えていった。



黒虎冷力倉庫付近地下水路──────


悪臭に鼻腔を刺激された春燕は、今にもゲボを吐きそうだった。


鼠やゴキブリが足の周りを這うのを見るたびに、貧しかった幼少期の記憶が脳裏を掠める。


全身を黄色に覆われ、両肩から黒のラインが入ったまるで蜂のような革製のトラックスーツという出立ちで、黒虎冷力の倉庫地下を目指していた。


ペンライトと銃を手首でクロスした状態、

ハリエステクニックの構えで、真っ暗な水路を突き進む。


春燕の頭の中で、ボンジョビのリヴィンオンアプレイヤーのサビの部分が繰り返し鳴り響いた。


「我每天都生活在祈祷中 《毎日を祈りながら生きている》…」


春燕は過度な緊張やストレス状態を感じると、ほとんど無意識にそれを解消するために唱える。


暫く水路を進むと春燕がはっと驚いた。


いつも自車のボンネットにもたれ掛かっている中年男が暗闇からぬらりと現れ、真っ暗な水路の先の光がぼんやり見える場所を指差している。


デカい舌打ち一つ、中年男にはかまわず進むと、天井にうっすら白い光が差し込む場所が見える。


おそらく、倉庫内地面にある排水溝のグレーチングだろう、白い光が差しこむ四角を視界に捉えた。


ペンライトを消し、錆びたグレーチングの隙間から目視で頭上の様子を伺う。


暗い天井が見えかけたと思った次の瞬間、口から血反吐をぶち撒ける、両目をかっぴろげたパンチパーマに口髭を生やした男のデスマスクと目が合った。


日本語と中国語の怒号、怒声、そして銃声、死にゆく者達が奏でる断末魔がひっきりなしに聴こえる。


幽合会の二人組の仕業だろう、計画通りだと、春燕は口の端を曲げた。


黒虎冷力倉庫内──────


時田がヘイと違法薬物モーフの値段交渉、仕入れ量や、今後の付き合いに関する会話を中断せざるを得なかった。


それは異常な光景だったからだ。


剛王連合側のヤクザ、上山かみやまが突然、胸の辺りから血飛沫を撒き散らして絶叫した。


「なんや?おい!上山、どうなっとる」


「なんも見えん、誰の仕業や!」


「どこや、ごらぁ、出てこんかい!ボケェ!」


腹部から噴水みたいに血を撒き散らす上山を見て、パニックに陥った手下達の恐怖が、剛王連合側の者達に伝染していく。


他の手下達が焦って、地面に血塗れで倒れた上山の周りを狙って銃を乱射する。


燃え上がる火花と硝煙が視界を遮り、異様な緊張感に包まれた倉庫内は、地獄と化した。


「やめろ、やめんかボケェ!撃つの止めろや、わしに任せい」


時田が闇雲に銃を発砲する手下達に手を振って制すると、真紅に光るサイボーグ化された左眼を赤外線サーマルモードに切り替え、ゆっくり首を左右に降って凝視した。


「おるわ、わしら以外の鼠がおる」  


そう呟くと時田は腰から抜いた拳銃を片手で構えると、時田の立ち位置から左側にある、等間隔に置かれたダンボールが積んである木製のパレットの物陰を見て口の端を曲げた。


「見えとるぞ、出てこんかい、わしにはお前が見えとんねんボケがぁ」


怒声を上げた時田が発砲すると、打ち出された銃弾がキィンと何か透明な壁に当たったような金属音が聴こえた。


時田が赤い眼で辺りを舐めるように見回すと、サーマルモードに写し出される赤い人型に向けて引き金を引いて追撃する。


時田に負けじと銃を構えた手下達が、怒声をあげながら出鱈目に発砲した。


しかし、手下達は次々に見えない鋭利な何かに頭を串刺しにされ、腹部を切り裂かれて、血のシャワーと臓物をぶちまけながら次々と殺されていく。


「くそっ、訳わかんねぇ、嫌だ、俺はまだ死にたくねぇ」


そう叫んで、弾切れの銃を放り出して一人の手下が逃げ出そうとしたその瞬間、その手下の頭部を背後から伸びてきた時田の手が、鷲掴んで持ち上げた。


「われ、どこに行きさらしよんねん」


時田が、おいとドスの効いた低い声で近くにいた手下に吠えると、刃渡り約70センチの白鞘しろさやを手下が差し出した。


時田が白鞘をひったくるように受け取ると、白鞘を時田に渡し終えたヤクザの額に、レーザーポイントの赤い点が浮かび上がった。


「な、なん、なんなんじゃこりゃ」


手下のヤクザが銃口を左右にぶん回すが、辺りに人の気配はなかった。


そして、額の赤い点に汗が通過したその瞬間、ヤクザの顔面が蒼白い光が通過して爆ぜた。


「上等や、お前、ぶち殺したるからなあ」


顔面が爆ぜた手下の胴体を蹴り倒し、こめかみの血管を浮き上がらせた時田が唸るように吐き捨てる。


「あ、兄貴、勘弁し…」


最後まで言わせずに時田が、白鞘の刃をすっと横に引くと、血のシャワーが宙に降り注いだ。


時田の視線の先に血飛沫が降り注ぐと、赤黒い人型が浮かび上がって来た。


「そこや!」


時田の発した号令に手下達が赤黒く浮かび上がる人型に向けて、銃口から一斉に火花を浴びせる。


激しい銃声が止むと、硝煙の中から時田達の視界に血塗れの黒いスーツの上に胴に鎧を纏い、甲冑の小手をした小柄な女、幽合会ユーコ•那加毛が現れた。


ユーコは刃が出たディスクを、左腕に装着した小手にブーメランが戻ってくるように収納した。


「その目、見えてんだ、やるじゃん」


「なんやお前、誰や?デコ助けか?」


時田がユーコに問いかけていると、ユーコに向かって銃を構えていた手下達が、首から血を流して全員倒れていた。


「デコ助?警察は捕まえる方、私は掃除する方、後、死体に名乗る名はないんだけど」


ユーコの右肩に装着された30センチぐらいの小さな砲台、プラズマキャノンが左右に動いて、血塗れの金色の前髪の間から、碧い双眸が時田を睨んだ。


ユーコは周囲に強烈な殺気を放ち、右腕に装着された甲冑の小手からシャッと、鉄の爪を突き出して、ニチャリと邪悪な笑みを浮かべてサーモンピンクの舌をべろりと垂らし、鉄の爪の刃に這わせた。


「けっ、極道を舐め腐りおって偉そうに、上等やんけ、クリーナー言うたら、ただの殺し屋やないか」


ユーコから視線を外さず、時田は喋りながら必殺の間合いへとユーコとの距離を詰めようとしている。


「你是唯一的一个吗? 《お前一人か?》」


剛王連合のヤクザ達が、ユーコに殺られているのを静観していたヘイが口を開いた。


「你说我一个人还不够吗?《私一人じゃ物足りないっていうの?》」


「不,你这只愚蠢的老鼠 《いいや、愚かな鼠だな》」


嘲笑を浮かべたヘイが、黒い作業着姿の手下達に顎をしゃくってユーコを殺れと命令した。


しかし、ヘイの手下達は微動だにせず、立ち尽くしている。


様子がおかしい、ヘイが手下達の方へ視線を走らせると、ミュート化した手下達の首がドミノが倒れるように一斉に床に転がった。


「老鼠不止一只 《鼠は一匹じゃない》」


そう言って顎を撫でたヘイが、一番近くで倒れている手下の胴体に尾先を突き刺した。


手下のドス黒い血液が滴る尾先を空に振るうと、黒い血液が景色の中に不自然に留まった。


その辺りにまたヘイが尻尾を使って黒い血液を散布すると、だんだん黒い血液の周りが人型になり、上下にウェイブするように光った。


背が高く、黒いスーツの上に甲冑の小手と胴に鎧を纏い、右手に刀を握りしめた黒髪ポニーテールの女、幽合会、片田が現れた。



黒虎冷力倉庫内─────


倉庫内に立っているのは、毒蜘蛛のヘイ、

剛王連合の時田、そして幽合会のユーコ•那加毛と片田だけだった。


ヘイの前には片田、時田の前にはユーコ、

その組み合わせで殺し合いが始まる。


ヘイ対片田──────


ヘイは、口角を上げて片田の全身を舐めるように上から下へ視姦した。


「机械人看起来比金发小女孩还要强大 《機械人か、金髪チビ女よりは強そうだ》」


ヘイが両手を左右に広げようとした瞬間、片田が一気に間合いを詰めて、日本刀で斬りかかった。


ヘイは背後から伸びた黒い尻尾で、片田の斬撃を軽々と退ける。


キィンキィンと刀から高音の金属音を響かせて何度か斬りつけると、片田が攻撃を止めてかすみの構えになり、呼吸を整えだした。


「好吧,这都是为了好玩 《さあ、お遊びはここまでだ》」


ヘイが低い声で言うと、スキンヘッドの頭頂部、後頭部、側頭部が後方に伸びて、ゴキブリの背中に似た丸みを帯びた生理的に受け付けない形状に変貌していく。


着ていた衣服を内側からぶち破り、身長が約2メートルぐらい、甲殻類の様な黒い鎧を纏ったグロテスクな姿になった。


人では無くなったヘイが、もう中国語というには聞き取る事が不可能な雄叫びを上げて、片田に襲いかかる。


厄介だった尻尾がさらに太く長くなり、尻尾の先の鋭利な刃で、横から切りつけ正面から突き刺し、ヘイの尻尾の切先があらゆる方向から片田を何度も切りつけた。


片田は、何とかヘイの斬撃を刀で防いでいるが、その猛烈な圧力と速さに押されて徐々に追い詰められていく。


ガードが上がった片田の身体を、ヘイの尻尾の先が容赦なく削った。


時田対ユーコ──────


時田はユーコの鉄の爪を白鞘で避けながら思考を巡らせていた。


距離を離せばユーコの肩から発射されるプラズマキャノンでお陀仏だ。


かといって、このままゴリ押しでは勝てないだろう、そう、頭の中で何度もユーコを殺すシュミレーションを反芻する。


何か突破口になる策は無いのか?ユーコと倉庫内の荷物が積まれたパレットの山を壁にして、出会っては斬りつけ合う攻防を繰り返していた。


「なぁネーちゃん、誰に雇われた?公安か?」


時田が目だけを動かして警戒したまま、叫んだ。


「まあ、そんな所ね、それが何?」


ユーコがだるそうに答える。


ユーコの声を手掛かりに、時田はユーコの現在位置や距離を測る。


「かあ〜デコ助の癖に殺し屋雇って何でもありやんけ、極道なんて可愛いもんちゃうか?」


「まあね、一つ私が答えた次は私から一つ質問する、あんた達、あの薬を売り捌こうとしていたの?」


「まあな、そんな所やな」


嘲笑を浮かべた時田が、分かりやすくユーコの質問をいなした。


ユーコの気配を感じて時田がじりじりと間合いを詰める。


無数に積まれたダンボールの壁の向こうにユーコが居る、左眼のサーマルモードで赤い人型を捉えた時田が、白鞘を握る両手に力を込めた。


春燕──────


死んだ男の顔から血が垂れて、グレーチングの隙間からゆっくり滴り落ちてきた。

 

頭上で鳴る銃声と怒号、そして誰かの断末魔に、春燕はどのタイミングで割り込むか思案していた。


暫くそのまま待機していると、やけに静かになったのを感じて、春燕は我慢しきれずグレーチングと死体を持ち上げて倉庫内に上がった。


どうやら倉庫内の出口に近い場所に出たようだ。


遠くに等間隔に置かれた無数のダンボールの壁が見える。


音を立てないように、コソコソ移動しながら状況把握を優先させる。


デカい舌打ち一つ、春燕の目に飛び込んで来たのは、一番奥の方に居る黒いグロテスクなミュート、恐らく標的の黒毒のヘイだろう。


しかし、そのヘイの前に刀を持った片田が見える。


最悪だ、割って入ればヘイ諸共、ビームか何かで殺されるだろう。


その手前、自分の位置から一番近い場所に、右腕から突き出た鉄の爪を観ながらニヤニヤするユーコが見えた。


こんなひりつく場面を楽しむなんて狂気の沙汰だ。


春燕の表情が曇ったが、どうやってあの二人を出し抜くか、頭をフル回転させる。


春燕は、そろりそろりとユーコの隣にあるダンボールの壁の所まで来ると、ユーコに向かって手を振った。


手を振る春燕に気づいたユーコが、春燕の方へ近づこうとした瞬間、春燕の背後から時田が白鞘を振りかぶり斬りかかって来た。


「バ、バカおん…」


ユーコが時田と春燕の間に飛び込んで来た刹那、時田の白鞘がユーコの左腕をヒュンという音と共に切り落とした。


ユーコの肩にあるプラズマキャノンが発光すると、時田の右肩辺りを吹っ飛ばした。


時田から血飛沫は上がらない、サイボーグ化された右肩辺りから鉄の焦げた臭いがした。


時田の口角上がり、まだ生きている左腕の肘の辺りから隠し刃が現れ、ユーコの右肩にあるプラズマキャノンごと首を横に斬り飛ばした。


にかっと歯を見せた時田が、凶悪な笑みを浮かべたまま左肘から伸びた隠し刃を、ユーコに突き飛ばされて尻餅をついた春燕に向けた。


時田の凶悪な眼差しに気圧けおされて、春燕は座った体勢で退る。


「逃げんなや、お前誰や?まあええか、どうせこの女の仲間やろ、死んでもらうわ」


春燕の視界の端に見えるユーコの生首が、

ニチャリと邪悪な笑みを浮かべて、春燕の引きった焦り顔を見つめていた。


これは何かある、春燕が一気に思考を巡らせる、その時、床に着いた手の平の指先に、斬り落とされた生暖かいユーコの左手が触れた。


時田の顔から下卑た笑みが消え、左肘から突き出た隠し刃で春燕に斬りかかろうとした瞬間、ヒュンと風切り音が鼓膜を通過した後、時田の視界に赤い横線が入った。


「あん?」


時田の顔が横にスライスされて、その場に崩れ落ちる。


春燕が咄嗟に床から掴み上げて、時田の方へ突き出したユーコの左腕の小手に、刃がついた回転ディスクが戻ってきて収納された。



ヘイ対片田──────


片田は、黒く強固な外殻に包まれたヘイの堅牢な防御力に苦戦していた。


何度か手応えがある斬撃を与えたが、全くダメージを与えらていない。


焦りが、いつも冷背沈着な片田の戦闘スタイルを崩していった。


厄介なのは、両手から伸びた爪や噛みつく牙等の攻撃ではなく、尻尾による払いや突きだ。


おまけにヘイの俊敏な機動力は、その巨体からは想像も出来ない程、驚異的で、片田を追い詰めていく。


ヘイの尻尾が片田の脇腹辺りにめり込んで、片田がダンボールの山に吹き飛ばされて激突した。


顔を歪ませた片田の視界から、ヘイの姿が消失した。


素早く目だけを動かして、ヘイを探したが見失ってしまった。


まずい状況だ、不意打ちでも喰らえば致命傷になりかねない。


ぴょんとダンボールの山から跳ね起きた片田の左肩に、透明な粘液のような液体が付着していた。


片田が左肩から視線を天井に移した瞬間、口を大きく開けたヘイの口から黄色い液体が吐瀉としゃされ降り注ぐ。


片田は、左腕でヘイの吐瀉物を防ぎながら横に飛んで避けた。


ヘイが吐瀉した黄色い液体が、片田の左腕を異臭と共に溶解した。


「くっ…臭」


絶対絶命、片田の左腕はサイボーグ化したメカニカルアームであったため、痛みは感じないが切り札を失った、かなりヤバい状況だ。


片田は、冷静に周囲を確認しながらヘイの追撃を察知して、全速力でその場から走りだした。


ユーコと春燕──────


口を尖らせた春燕が、身体を再生させたユーコを睨みつけた。


「あんた、あのヤクザと一緒に私も殺ろうとしたでショ?めちゃくちゃヨ!あんた達のやり方はいつも…」


ユーコが春燕の言葉が終わらぬ間に被せる。


「大丈夫だったじゃない、だいたいねぇ、命の恩人にそのいい方はないでしょ?っていうか何であんたここにいんのよ?」


訝しんだ目でユーコが春燕を睨んだ。


「仕事よ、仕事、私も毒蜘蛛を殺らなきゃいけないの!なのにあんたに巻き込まれて、きぃーこの矮个子女 《チビ女》!」


「は?このデカ尻女狐!」


二人が取っ組み合いの喧嘩を始めると、左腕を失った片田が、ユーコと春燕の所へ駆け寄って来た。


「あんたどうしたのよ、その左腕?」


「強力な酸にやられました」


ユーコと春燕が片田の姿を一瞥した。


「アイヤーそんなに強いのあれ?機械人でも勝てないんじゃあ…どうしよ」


絶望に頭を抱えた春燕が嘆いていると、


「うーん、あんたの馬鹿力も通じないぐらいガードが硬いのねぇあれ、なら……」


ユーコが二人に耳打ちした。


「了解」


右手に握られた刀を、強く握りしめて片田が言った。


「あんた本当に無茶苦茶ネ、幽合会のやり方ヤバ過ぎでショ」


春燕が呆れたという顔でユーコに言った。


「協力しなさいよ?共通目的なんだから?なんか他に良い案あんの?」


ユーコが春燕に、歪んだ顔で微笑みながら問いかける。


「分かった、分かった、やるわヨ」


春燕が凶々しいユーコの碧い視線を、これ以上浴びたくないと渋々了承した。


「頼んだよ、デカ尻女狐」


「うるさい、矮个子女 《チビ女》」


ユーコと春燕は口角を上げて視線を交わした。



ヘイ──────


あの機械人は、もう使い物にならないだろう。


急いで追う必要もない、今頃、切り札の機械化された左腕が欠損して私とどう戦うか、無い頭をフル回転させている事だろう、愚かな奴だ。


後は、あの変な、碧い眼をした金髪の矮个子女 《チビ女》だ。


暗い倉庫内を照らす、蛍光灯から降り注がれる白い部分に触れぬように、影から影へと暗所を移動する。


カツンカツンと硬い足音が聴こえる。


ダンボールが積まれたパレットの壁の間から、金髪の矮个子女 《チビ女》がこちらへ向かって歩いて来ている。


好機、確実に好機、殺るしかない。


真正面から襲うのは、万が一にも罠だった場合、危険値が高いな、ならどうするか?


ヘイは壁を這うように駆け上がり、片田にやったように、真下付近にユーコが来たら強力な酸を吐瀉して、頭からぶっかけて殺そうと天井に待機した。


そしてユーコが、ヘイの真下付近に近付いた時、ユーコの四方を額に黄色いお札を貼り付けられた、時田の手下達の死体がのそのそと歩いて来て、ゾンビムーブでユーコを取り囲んでいる。


何だあれは?何の意味が、理解不能、とにかくやるか少し様子を観るか、ヘイは躊躇した。


しかしこの好機を逃してはなるまい、ユーコが丁度、真下に来た瞬間、死体が五つになるだけだと心の中で嘲笑い、大きく開いた口から、真下のユーコに向けて強力な酸を吐瀉した。


頭上からいきなり、黄色い液体が降って来た瞬間、四方に居た額にお札を貼られた時田の手下達が、ユーコを庇うように覆い被さる。


強力な酸により死体の手下達が呻き声を上げながら溶解していく最中、ユーコを追撃するために天井から飛び降りて落下しているヘイの鼓膜に、ヒュンという風切り音が通過し

て行った。


溶解して崩れていく時田の手下達の上に、ドシャっと着地したヘイが辺りを見回すと、時田の手下達の下敷きになっているはずのユーコの姿がなかった。


ふと、ヘイは動きを止めた。


小賢しい、そして、甘い、甘過ぎる、実にくだらない策だ、舐められたもんだな私もと、尻尾を素早く頭上で振るった。


キンと金属が弾かれる音が響くと、刃がついたディスクが地面に転がった。


落下時の風切り音、こんな小賢しい策で五毒将軍の私を殺ろうとは、果てしなく愚かな鼠共だ。


ヘイが口から粘着質な涎を垂らしながら憤怒を募らせていると、蛍光灯にピンスポットで照らされたユーコが、真正面に立っていた。


ユーコは、シャッと右腕の小手から鉄の爪を伸ばすと、オオオオォと見た目に反した獣じみた咆哮を上げながら突進して来た。


この状況、この完全ミュート化した私に、この戦力差での真っ向勝負、変異していなければ柏手を打って失笑していただろう。


まさに圧勝、身長160センチ程度の痩せた女性が、2メートルを超えた屈強な体躯に、弾丸や刃物で傷つかない外殻で堅牢に守られた私に何が出来るのか?冗談ではない。


勇猛果敢に鉄の爪で斬りつけてきたユーコの斬撃を避けて、意図も容易く尻尾で胸部中央を貫いて沈黙させた。


当然だ、否、必然だ、ヘイはゆっくりユーコの身体を貫通した尻尾を操り、自分の顔に触れそうな位置までユーコの顔を近付けた。


糸が切れた操り人形のように脱力したユーコが歪んだ顔から、暗い視線をヘイに向けて口を開いた。


「你输了,蟑螂。《このゴキブリ野郎、お前の負けだ。》」


流暢な中国語でユーコが言った。


最後の強がりか、いいだろう、このままこの鼠は、顔から全身を溶かして殺す。


ヘイが大きく口を開くと、ユーコも顔を歪めながら大きく口を開いて見せた。


本当に舐めた奴だ、そのクソ度胸だけは賞賛に値するなと、ヘイが思った瞬間、口の中に異物が鋭く差し込まれる感触が走った。


ユーコの口の中から刃が出ている、ユーコの後頭部から片田が、日本刀で串刺しにしていた。


ま、まさか、そんな、ありえない、こいつら常軌を逸している。


その刹那、片田が日本刀の刃を上向に返し、刃を垂直に斬り上げるとユーコの顔が口から上に真っ二つになるのが見えた。


ヘイの頭部も真っ二つになり、意識が飛んだ。


IX


胸部中央に刺さったヘイの尻尾を片田に抜かれて、真っ二つになった顔を両手で抑えたユーコが身体を再生させていた。


「いった、痛い、やっぱり気分は良いもんじゃないね、マジ最悪ね」


無数に蠢く白い糸が、ユーコの胸部に空いた穴と、片田の日本刀に裂かれた顔面を修復している。


「まあ、でも、俺ごと刈れ作戦、大、成、功」


そういうとユーコは、まだ完全にくっついてない血塗れの顔でニチャリと悍しい狂気顔で微笑んだ。


「余り無茶しないで下さい」


片田が俯いたまま言った。


「狂気は勝つ!」


「正義は勝つみたいに言わないで下さい」


そんな二人がいつも通りな他愛もないやり取りをしていると、


「ちょっとォォォォ、助けてヨ!アイヤ」


春燕が時田の手下達と、首がないヘイの手下の死体達に追われながら駆け寄って来た。


「あんた、一体何してんの?」


キョトンとした顔でユーコと片田が春燕を見た。


「じゅ、術が、解けないの!失敗した」


ユーコと片田の背後に隠れて、何やらぶつぶつ呪文を唱えながら両手で印を結ぶ春燕を、

またかよコイツと冷たい目で見る二人。


「あんたこれ、別料金よ、しゃーないなぁもう」


「私の術は完璧だったノ!お、鬼!」


口を尖らせ言い合いを始めるユーコと春燕を見た片田が、この人達、本当に嫌だと深いため息を吐いた。


「ユーコさん、ガントレット貸りますよ」


春燕と睨み合うユーコの右腕から、片田が小手をむしり取ると、小手についたボタンを操作した。


「スイサイダル、エクスプロージョンデバイス起動」


無機質な音声案内と共に、小手の液晶に赤いドットが映し出され、ピッピとカウントダウンを告げるように踊る。


「あ、あんた何してんのよ?片田!わ、わわわ、アアアアアアア」


顔面蒼白になったユーコが絶叫した。


三人は謎の団結力を発揮しつつ、春燕の制御不能のゾンビキョンシー達から逃れ、全力疾走で倉庫内を駆け抜けて、大爆発の業火を背に、脱出した。


数日後の夜、某所──────


赤いスポーツカーの前に立つ春燕が、デカい舌打ち一つ、


「又是你 《またか》」


と、眉間に皺を寄せ嫌そうに呟いた。


車体のボンネットに白髪混じりのボサボサ頭の青白い顔をした中年男が、だらりともたれ掛かっているのだ。


毎度うっとうしいと唇を尖らせ、口を半開きにした、その中年男にはかまわず、乱暴に車のフロントドアを開けて、車内に乗り込んだ。


ハンドバッグから煙草を取り出し火を点けると、深く、深く吸い込んでから、紫煙を吐き出してウインドウを少し開けた。


ボンネットにもたれ掛かる中年男性が右手の親指を上げて、サムズアップを春燕に見せている。


ルームミラーの中に映る、中年女性もサムズアップをしているのが春燕には見えた。


春燕は、助手席に置かれたブリーフケースを一瞥した後、


「最糟糕的… 《最悪…》」


そう呟いた春燕の口角が、くいっと上がった。


──────

See you in the next heaven…

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