第8話 解説
佐藤道明を拘束した綾葉と洪作は、佐藤を伴って彼の実家に向かい、無事に原稿を回収した。
実家への道すがら、行泉寺良俊の熱狂的なファンで彼の学生時代の原稿がQ大学に保管されていることを知った佐藤は、京都に実家があることを利用してQ大学のミステリー研究会に潜入してたびたび顔を出し、原稿を盗む機会を狙っていたのだと自供したのだった。
二人だけが戻ると、それを待ち構えていた阿部たちが説明を求めたので心よく洪作は応じることにした。
「須賀はこの橋を渡った。
単にそれだけのことでした。
須賀は綾葉さんに尾行されていることに気づかず、したがって消えようとする意思など全くありませんでした。
須賀という名前は、佐藤道明が僕たちミステリー研究会の会員と接する時の偽名だったのです。
佐藤道明は二つの名前を持っていたためにみなさんが勘違いをしてしまって、佐藤は単に橋を渡っただけなのに須賀という男が消えてしまうという状況を作り上げてしまったのですね。
もし綾葉さんが佐藤の顔を実際に見たのなら、その男が自分の追っていた須賀という男であることにすぐさま気づいたでしょう。
しかし、綾葉さんが阿部さんたちのいる橋の南側へ来た時には、すでに佐藤はお酒を取りに行くために実家へ戻ってしまっていたので、この場にはいませんでした。
そして綾葉さんが阿部さんとお酒を飲んでいる間も佐藤は現れませんでしたし、様子をうかがうために姿を現した今も目立たない場所に立って綾葉さんや僕の目から隠れるようにしていました。
しかも、綾葉さんは挑発的な文章を読んで我を忘れているという状態でしたから、佐藤、すなわち須賀の姿に気づかなかったのですね」
「なるほど、確かにそうだ。
しかし石崎さんは、なぜ念のために、俺が話題にした佐藤と呼ばれている男の顔を確かめてみようという気にならなかったんだ?」
阿部が綾葉を横目で見ながら言った。
「綾葉さんは、佐藤の顔を確かめていた気になっていたのですよ。
綾葉さんは、『さとう』という名字の人間が二人いることに気づかなかったのですね。
綾葉さんが阿部さんたちに色々な質問をしていたとき、阿部さんが佐藤以外に橋を渡った者はいないと断言し、「そうだろう、『さとう』」と同意を求めました。
そのとき綾葉さんは、そのもうひとりの『さとう』さんの顔をまじまじと見つめて、須賀ではないと確認したそうです。
綾葉さんは、名字の音が同じために、その男性は阿部さんが口にした『佐藤道明』なのだなと勘違いしてしまい、『佐藤道明』という男性は須賀とは別人だと結論してしまったんです」
綾葉は悔しそうに黙ってゆっくりと額いた。
「綾葉さんは須賀を取り逃がすまいとかなり焦っていた。
だから冷静な判断力を失っていたわけで、そうでなければ、自分の勘違いにすぐに気づいたのでしょうけど。
原稿を盗んだ人物として須賀に疑いの目が向けられたとき、当然僕たちは須賀のことを調べたのです。
K大学にももちろん問い合せて、どうやら彼はK大学の学生ではないことがわかりましたし、その時点でもしかして『須賀』という名前は偽名かもしれないという議論になったものでした。
また、「さとう」という名字はありふれていますから、もしかして『さとう』という人物は二人いるのかもしれないと、普段の冷静な綾葉さんなら思い至ることも可能だったと思います。
それと、さきほども言ったように、阿部さんが佐藤以外に橋を渡った者はいないと断言したとき、「そうだろう、『さとう』」と同意を求めたのですけれど、そのことに対して、そのもうひとりの『さとう』さんは『間違いない』と返答しました。
でも、もし同意を求められた『さとう』さんが橋を渡ってきた佐藤なら、いわば彼は当事者であり目撃される方の立場であるのですから、『間違いない』という発言は明らかに不自然です。
この点についても、綾葉さんが気づいてくれるとよかったんですが・・・
他にも綾葉さんの勘違いが訂正されるかもしれない瞬間はありました。
もうひとりの『さとう』さんが、佐藤道明は用事があってまだここに来れない、というような意味のことを言ったときがそうでした。
もし、もうひとりの『さとう』さんが佐藤道明を名字で呼んでいたら、どういう状況になるでしょう。
『さとう』という名の男が、明かに他人を指して『さとう』という名を口にしているのです。
これは変だと気づいたでしょう。
しかし阿部さんたちは、自分たちの仲間に同じ名字の人間が二人いて混同しやすいことから、佐藤道明を『道明』という下の名前の方で読んでいました。
実際、もうひとりの『さとう』さんも、え? 砂に桐と書いて『さとう』さんなんですね、砂桐さんも『道明は・・・』と言っていました。
だからこの時も、綾葉さんは自分の勘違いに気づかなかったのです」
阿部と奥田と早苗と砂桐が、同時にゆっくりと頷いた。
「一方、阿部さんたちも、須賀という男が道明さんだとは考えもしなかったのです。
あなたたちの仲間の間では、ミステリーは『くだらない』ものとして軽蔑されていました。
それは綾葉さんとの会話から容易に察することができます
そういう状況のなかで、佐藤は自分がミステリーマニアであることを明かす気にはなれなかったのでしよう。
そのことを隠し続けていました。
だから阿部さんたちも、佐藤がミステリーマニアだとは夢にも思わず、ミステリーの原稿を盗むという行為をした須賀なる男と佐藤を結びつけて考えることはしなかったのです」
「ところで、あのふざけた文章を書いたのも須賀・・・じゃなくて佐藤なんだよな?
なぜ佐藤はそんなことをしたんだろう?」
阿部が洪作にたずねた。
「佐藤の立場になってみましょう。
佐藤は尾行されていることなど気づかずに橋を渡り、そこで仲間と会って、いったんお酒を取りに実家に戻りました。
そのあと、温泉番組を見るために実家を訪ねてきた砂桐さんから、綾葉さんの話を聞いて、自分が尾行されていたことに初めて気づいたんです。
佐藤は不安になったことでしょう。
今は須賀が自分であることに気づかれていないようだが、綾葉さんが冷静に考えればすぐに気づかれてしまう。
それは何としても避けなければ。
そう思ったことでしょう。
佐藤はこの消失が偶然の作用によるものであることは絶対に知られたくなかった。
綾葉さんが冷静になって、消失は偶然による結果ではないかと思ったならば一人二役のからくりは簡単に見破られてしまう。
そこで佐藤はあの文章を実家で急いで書きあげ、みんなと橋へ散歩に出たときに欄干に貼りつけたのです。
あのような挑発的な文章を書き、消失はあくまで自分の意思で行ったもので、何らかのトリックを使って消失を可能にしたのだ。
綾葉さんにそう思わせようとしたのです。
ミステリーマニアである綾葉さんはまんまと罠に嵌まってしまい、トリックという観念から抜け出せなくなり冷静さを完全に失ってしまって、消失は偶然の作用による結果であるという単純な解答からどんどん遠ざかってしまったのですね。
それに阿部さんたちもあの文章を見たことによって、法律を熱心に学びミステリーとは無縁であるはずの『佐藤』という男と、いかにもミステリーマニアらしい挑発的な文章を書いた『須賀』という男のイメージの距離はますます広がり、同一人物であるという考えに思いも及ばなかったのです。
僕の話は以上です・・・ あ、そうそう、最後に残った謎が一つ。
綾葉さん」と、洪作は彼女にいたずらっぽい笑みを向けた。
「佐藤が使った須賀という偽名、その由来って何だと思います?」
綾葉が残念そうに首を左右に振った。
「ううん、さっきから考えてるんやけど・・・ 全然わからへん」
洪作は笑みを崩さずに、
「すっごく単純というか、ダジャレみたいなもんなんだけど」
「ダジャレ?」
「ええ、『さとう』という音には別の意味があるでしょう?」
「別の意味って? あっ、砂糖、とか」
「そうです」と洪作はにっこりと人懐っこく笑った。
「その佐藤を英語に変換すると・・・」
「シュガーやね。え? シュガー? シュガーから『すが』?
な~んや」
阿部たちの存在は眼中になく二人だけの世界でたわむれているかのように、洪作と綾葉は見つめ合ってほがらかに笑い合った。
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