第11話 井戸田教授
それから二時間ほど経ってから、洪作と哲也は三時限目の講義に出席するために寺石荘をあとにした。
同じ敷地内で寺石荘の隣に建つ大家さんの家を通りかかったとき、玄関の呼び鈴を押している恰幅の良い少し肥満気味の中年の男に出会った。
その男は二人の姿を目にとめると、にこやかに微笑みながら軽く会釈した。
見たことのない男だったが、洪作と哲也も会釈で返しておいた。
二人は自転車をこいで、嵐山からは五十分ほどの距離にある等持院の近くの大学に向かった。
入学からもうすぐ三か月となり中だるみの時期というべきか、刑事訴訟法概論の講義が開かれている教室は四月初めに比べればだいぶ閑散としていたものの、それでも生徒の座席占有率は六割ほどを維持していた。
井戸田教授には珍しく定刻より二分ほど前に講義が終了すると、洪作と哲也は足早に教室を去ろうとする井戸田をつかまえて、構内の中央広場に連れ出した。
天気はからっとした快晴で、たまには広場で暇をつぶそうかという気まぐれを起こさせるようなのどかな陽気を反映してか、そこここのベンチで学生たちが談笑している姿が見受けられた。
そのうちの一つの長めの木製ベンチに三人が腰掛けると、自動販売機で買ったひやしあめに口をつけることもせず、さっそく洪作が口を開いた。
「実はですね、昨日の夜、哲也の例の原稿が何者かに盗まれました」
ほう、というように井戸田は軽い驚きの表情を示した。
そして、それで納得がいったというようにニヤニヤ笑いながら何度もうなずいて、
「なるほどね、君ら二人がやけに深刻な表情をしているから、一体何事かと思ったよ。
基礎演習の発表のことでそれほど真剣に悩んでくれているのなら、かえって喜ばしいと思ったんだがね、残念ながらというか、案の定というか、そうではなかったらしいな。
君らがそんなに真剣な顏付きになるのは、やはり推理小説のことか」
井戸田は存分に皮肉のこもった口調で言った。
白髪混じりの髪の毛を真ん中から分け、油っけのないその髪は無造作に肩のあたりまで伸びている。
細長い顔は常に不健康そうに青白く、度の強い眼鏡の奥の細い目は生気に乏しく虚ろだった。
一見すると冴えない印象を与えるが、弱冠四十歳という年齢で教授として活動していけるだけの技量を持ち合わせていることからも窺えるように、その弁舌には歯切れの良さと有無を言わせぬ説得力が備わっていた。
「ええ、僕の関心があるのは推理小説のことだけでしてね。
で、単刀直入にお尋ねしますよ」
そして洪作は真っ直ぐに井戸田を見据えて、
「井戸田先生、あなたは以前、寺石荘の住人だったそうですね」
まるで詰問するような洪作の口調に、井戸田は少しとまどうふうだったが、やがて「ああ、そうだが」と、そっけなく言った。
「僕は推論の結果として、哲也の部屋の押し入れの床下に空洞を発見しました。
犯人はその空洞にあった物に用があったのですが、その空洞の存在は、今現在の住人である哲也でさえも知りませんでした。
犯人がその存在を知っていたということは、犯人こそが床下にそのような細工をした人物であり、そして、そのような細工を施すことができたということは、その部屋に住んでいたことがあると考えられるのです。
つまり、犯人は、以前にあの部屋に住んでいて、床下にあのような仕掛けを施した人物ということになります」
「なるほど。それで?」と、井戸田は楽しそうに先を促した。
「そして犯人は偶然に見付けた原稿までも奪っていっている。
ということは、犯人は哲也となんらかの関係があると思われました。
ついでに原稿を盗んでいったということから、悪戯や嫌がらせの気持ちがあったことを想像させるのです。
犯人の哲也に対する悪意を感じずにはいられません。
従って犯人は、以前あの部屋に住んでいたことがあり、しかも哲也や哲也の原稿にも興味を持っている人間ということになります」
「それが私ということか?」
「そういうことです。
昨日の夜、哲也と検討したんですが、先生には哲也の原稿を盗む理由がないとはいえない。
そして、先生が以前あの部屋に住んでいたということがありうるだろうかと考えてみました。
僕には、十分ありうるような気がしました。
ある些細な事実を思い出したんです。
昔からクラスでも全然目立たないような存在である僕の名前を、なぜか先生は初めのころから覚えてくれていました。
哲也に関しても、そうだったようです。
もしかして、以前に寺石荘に住んでいたことのある先生は、名簿かなんかで僕たちの住所を知っていて、そのことが印象に残り、親近感めいたものを持ってくれていたのではないかと僕は考えたのです。
まあ、単なる推測にすぎないんですが、犯人が哲也や推理小説に興味があるに違いないということから考えても、その可能性は高いと思われました。
さっき僕は大家さんに質してみたのです。
大家さんは先生のことを覚えていましたよ。
これで、先生が以前に寺石荘の住人であったことが判明しました。だから、」と、ここで少し間を置いて、
「哲也の原稿を盗んだ犯人は、井戸田先生、あなただったのです!
ここまで追いつめたんですから、もちろん潔く白状してくれますよね?
ところで先生、あなたが床下の空洞にしていたものは何だったんですか?
僕にはとても興味がありますよ」
得意げな様子の洪作を冷徹な眼でしばらく見やってから、井戸田は反論を開始した。
「さっき君は、私には動機がないこともないと言ったが、私には動機なんか全然ないね。
梅崎君の原稿を盗む気なんてあるわけないだろう。
なんで、私がそんなことをしなくちゃならないんだ?
確かに、梅崎君のプロットを聞いてはいるが、例えばそれを拝借しようなんてことは考えるわけもない。
私はそんな汚い事をする人間じゃないし、そもそも賞なんかに応募する気だって、さらさらない。
推理小説は読むに限るよ」
「しかし、ふと魔が差したってこともありますよ。
僕のアイディアのあまりの素晴らしさに」と、すかさず哲也が口を挟んだ。
「とにかく、私は何も盗んでいない、それだけだよ」
「じゃあ、昨日の午後五時三十分から六時頃までは何をしてらっしゃいましたか?」
「六時頃? 君も疑い深いね。
君のつかんだ証拠には欠陥があることにまだ気づかないのかな?
まあ、その頃は帰宅途中の電車の中だっただろうな」
井戸田がさらりと発した台詞を、洪作が聞き咎めた。
「え? 欠陥ですって?
一体それはどういう意味ですか?」
「君は重大な事実を見落としているよ。
私は確かに以前寺石荘に住んでいた。
それは確かだよ。
だけど、僕の住んでたのは一階じゃない。二階だよ」
「あっ!」
しまった!、というふうに、洪作は思わず叫び声をあげた。
「そういうわけだから、あの部屋の押し入れの床板のことなんか知らんね。
まったく、そそっかしいのが君の数多い欠点のなかの筆頭だな。
君は私が寺石荘の住人であったことを大家さんから聞き出して、それで浮かれてしまったんだろうな。
私がどの部屋にいたかを聞き忘れたんだろう?
遣憾ながら梅崎君もそのことに気づかなかったようだね。
まったく君らはマヌケなコンビだよ」
言葉を発する気にもなれず、洪作はがっくりとうなだれた。
自分のバカさ加減が情けなかった。
完璧だと思われた推理が、瞬時にして脆くも崩れ去った。
「まあ、梅崎君の原稿が盗まれたのは気の毒だが、私は何もしてやれんね。
私は床下の空洞の存在なんか知らなかったし、あの部屋にも押し入っていない。
当然ながら原稿も盗んでいない。
そのことは分かってくれるね?」
投げかけられた言葉が耳に入らないのか、相変わらず洪作はうなだれたままである。そんな洪作をなぐさめるように、
「まあ、でも、君と梅崎君の名前をすぐに覚えた理由に関しては、君の説明通りだよ。
私はあの寺石荘には愛着があってね。
今時の学生はあのようなところにはなかなか住みたがらないだろうから、君たちがあそこに住んでいると知ったときは嬉しかった。
しかも君ら二人が推理小説好きだと知って、さらに驚いた。
私があそこに住んでいたころにも、推理小説好きの友人が住んでいてね。
寺石荘で、よく推理小説の話をしたものだ。
懷かしいね、あの頃が」
「でも、先生、それなら寺石荘に住んでいたことを言ってくれればよかったのに」
哲也が不満げに言った。
「まあ、別に言う必要もないと思ったからな。
そのことで必要以上に君達につきまとわれて、単位を甘く採点しろなんて言われるのもかなわんしね。
学生になれなれしくされるのは嫌いでね。
それにしても最近の学生は恵まれているよ。
君らだって、もちろん一人で住んでるわけだろう?
うらやましい限りだね」
「先生、疑ってすみませんでした。
本当に申し訳ありません」
今だに呆然としたままの洪作に代わって、哲也が深々と頭を下げた。
「なあに、構わんよ」
「でも、気を悪くされたんじゃないですか?
いきなり泥棒呼ばわりされて・・・
怒ってらっしゃいますよね?」
「いささか面食らったのは事実だが、別に怒ってないよ」
「ほんとですか?
ほんとにほんとに怒ってませんか?
もし思ってるなら、正直に言ってくださいよ。
そしたら、僕は・・・」
「しつこいな、君も。
流籐君のがっくりした様子を見ると、哀れみを催して怒る気にもなれんよ。
推理小説の話も結構だが、それより基礎演習の発表のことを考えてくれなくちゃ困るね。
もうすぐ締切りだからな。
素晴らしい発表を期待してる」
最後に事務的な口調でそう言うと、ゆっくりとベンチから立ち上がって、井戸田は悠然と去っていった。
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