2.徒
――――君は、扉を開いてしまった。
おや? ……研究者、……ではないようだね? ああ、入っておいで。話をしよう。
久しぶりの来客だ……君のそれはきっと最新モデルだね? 初めて見たな……羨ましい限り。君が何をしに来たかは言われなくても分かるよ。なんにも知らなそうな顔をしているからね。私にできることなんて、昔話を語ることぐらいだ。……聞いてくれるか?
突然だが――――君は人外を信じるか? いや、信じられるわけがないだろう。君は私を見た途端驚きでしばらく固まっていたようだしね。
こんな場所まで来てご苦労だったね、……音声がどこから発せられているか? すぐそこのスピーカーさ。見えるだろ? 私の身体……というべきか分からないが、とにかく、思考している中身に接続して音声を出力しているんだ。
あくまで私のこの身は球体の中で流動する半固体状の物質にすぎない。私はもはや人間ではない。だが語ろう。私が異形へと堕ちた訳を。
これはおよそ百年前のある日……もちろん君はまだ生まれていないね? ニュースでなら何度も見た、か。ああ、そうかい。それじゃあやっぱりリアルタイムでは見ていないんだね。いいや、それがいい。あんなものは見なくて正解だよ。
あの日、人間の身体が融解しだしたんだ。そして私の妻も娘も……そんな顔をしないでくれ。もう随分前の話なんだから……。君は最先端の技術のおかげでその身体を保てているんだ。私はそれがほんの少し間に合わなかったというだけの話さ。
技術者はこぞって自分が溶け切る前に研究しようと必死になった。自身の溶けていく身体をサンプルに使ったり、溶けた仲間を実験体にしたりなんて日常茶飯事だったよ。そんな甲斐もあってなんとか一旦の解決策は見つかった。
――――それがこれだ。見てくれよ、この真っ黒な球体。そしてこの台座。一応は動かせるがバッテリーが必要だ。充電切れが怖くてなかなか動けやしない。君は随分と動きやすそうだ。外気に触れないように身体を覆っているんだろ?
ああ、それも知らないのか。融解の原因は外気にある。原因物質はもう解明されているんだろうね……私が人間だった頃には解明されなかった。今はもう、人間とは言えないさ。動けもせず、誰とも関われずに……。
……すまないね、君が聞きに来たのはこんな昔話じゃないだろうに……ふむ、そうか、君は記憶喪失になってしまったのか……うん。その臨床試験のせいでなのか? ……それは、残念だったね。正直私にできることはないよ。
老人の知恵を借りに来た、というならそれは間違いだったね。老人は最新のことには疎いんだ。それこそ研究者に力を借りるべきだったよ。……ああ、研究者っていうのはこのセンターのセンター長のようなものらしいね。私もあまり……なんというか、関わりたくはない人物だと思っているよ。
会いたいって? いや、彼は基本的に部屋にこもりっきりらしいが……本気で言っているのかい? ……まあ、協力できないことはないよ。ないけれどねえ……仕方ないか。未来ある若者のため、私が一肌脱ぐとしようか。私には肌なんてない? はは、そこまで含めたジョークだよ、ははは……笑えることじゃないけれどもね。
充電がどのくらい持つのかは分からないが、私もついていこう。役に立つかは物次第になってくるが……いないよりマシだと思っておくれよ。
――――君は入ってきた扉からそっと外を覗き、誰もいないことを確認した。後ろからごろごろとキャスターの動く音がする。台座に乗った黒い球体が君をじっと見つめている。
「どうしたんだい? 誰かいたか?」
機械混じりの音声がスピーカーから聞こえる。君は音量調整をしたいと思ったが、やり方が分からなかったので諦めた。そういえば彼の中身は液体なんだっけか、と君は思いついてしまう。……どうする?
「研究者実験室に入るには融解した人体サンプルが必要らしい。量は関係ないそうだから、患者から少しいただかないか?」
古い機械だからだろうか、少し音がかすれているなと君は思った。相変わらず、待合室には人間が集っている。溶けたあれらももともと人間だ。そうやすやすと、……しかも最新モデルの見知らぬ人間に身体を渡すだろうか? と君は考えた。
「ふむ、抵抗があるかい? とりあえず研究実験室を見に行こうか」
君は彼のために扉を精一杯開いてあげた。段差に引っかかる彼を持ち上げてなんとか部屋を脱出することができた君は、実験室の扉の前に立った。
やはりそこにあるのは鍵穴代わりのボトルだった。融解した人間を注げばいいのか、と君は首を傾げた。先程持ち上げた限り、彼はそう重くない。注ぐのも容易だろう。球体の頂点には蓋らしきものもある。
「……?」
球体が君を見つめている。君は――――
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