第30話 幸せに向かって

「美琴に叱られる、か」

「うん、お母さんが今の私たちを見たらきっと大目玉だよね。お父さん、家に入れてもらえないかも」

「琴音だって、反省するまでピーマン尽くしにされるぞ」

「お母さん、ピーマン料理のレパートリーが無駄に豊富だったからね」


 美琴おばさんの思い出を語り、2人が小さく笑いあう。そこには先ほどまでの暗さは感じられず、まるで太陽が2人を照らしたかのように俺には感じられた。

 いつかの日のように、奥のキッチンからひょっこりと琴音おばさんが顔を出しそうなそんな気さえしていた。


 ぽつぽつと会話を交わし始めた2人から視線を外し、新美さんをちらりと眺める。こちらを向いた新美さんは、柔らかく微笑んでいた。

 まだ契約破棄について説得できていないことは新美さんもわかっているはずだ。それでも琴音の幸せをこうやって喜ばしく思ってくれる人だからこそ、3期生の皆に愛されているんだろう。


「陸斗」


 名前を呼ばれ振り向くと、琴音と雄一おじさんがこちらを見ていた。雄一おじさんから感じていた圧はすっかりとなくなっており、その顔に表れていた死相もほとんどが消え去っていた。


「ありがとう、陸斗。私、久しぶりにお父さんと本当の話を出来た気がする」

「私からも礼を言う。ありがとう、陸斗君。そしてすまなかった。君は悪くない。それを頭で理解していながら、私は君に責任をなすりつけてしまった。君に言われたとおり私は逃げたんだ。そのせいで君に多くを背負わせてしまった。本当にすまない」


 2人が俺に向かって頭を下げる。その言葉と姿に、こみあげてきた感情で胸が詰まる。

 あの日から全てが変わってしまった。俺だってそれを素直に受け入れられたわけじゃない。


 なんで俺が、そんな憤りが。

 これからどうしていけば、そんな不安が。

 琴音に消えろと言われてしまった、そんな悲しみが。


 ごちゃ混ぜになったそれらの感情は俺の心の底に変わらずずっとあった。前に進むと決めた今でさえそうだった。

 それらが、ほんのわずかに薄らいだようなそんな気がした。


「陸斗、泣いてるの?」

「そんなわけ……あれっ、なんでだろうな。ははっ、目にごみでも入ったのかも」


 いつの間にか流れていた涙を左手で拭ったのだが、なぜかそれを止めることはできなかった。ぼやけていく視界の中で、柔らかな感触が俺の体を包む。


「ごめんね、陸斗。いっぱいいっぱい負担をかけて。もう陸斗も我慢しなくていいんだよ。頑張らなくていいんだよ」


 頭上から聞こえる琴音の優しい声と、抱きしめられたその温かな体温が俺の思考を奪っていく。

 心の内の感情があふれ涙を止められなくなった俺を、琴音はぎゅっと胸のうちに抱いたまま見守り続けてくれた。





 しばらくして落ち着いた俺は、琴音に感謝の言葉をかけて離れてもらった。名残惜しい気持ちはもちろんあったが、さすがに雄一おじさんと新美さんがいる中でずっとこうしているのもまずい。

 いや、そう考えると2人がいなければずっとこうしていたいってことになるわけだが……いやいやいや。今はそんな考えにふけっているときじゃない。


「陸斗、どうしたの? 顔が真っ赤だけど」

「いや、なんでもない、なんでもないぞ。うおっ」

「なにしてるのよ」


 覗き込んできた琴音の顔があまりにも近くて、慌てて体を離してバランスを崩しかける。そんな俺の姿を見た琴音はくすくすと笑っていた。


「楽しそうでなによりだね」

「いえ、そんなことは」


 言葉とは裏腹に、さっきとは別種の圧を感じさせる雄一おじさんにすかさず応じ、深呼吸して心を落ち着ける。

 完全ではないが、少しすっきりした頭で見返した俺に、雄一おじさんはうなずいて返した。


「琴音の契約については、もう一度じっくりと話し合ったうえで決めようと思う。私自身、よく知りもしないのに否定するばかりだったしね。もちろん琴音の気持ちを一番に考えるつもりだから悪い結果にはならないと思う」

「ありがとうございます」

「新美さん。個人として琴音を心配してついてきてくれた君のような人がマネージャーをしてくれていて良かった。そしてきついことを言ってしまって本当に申し訳なかった」

「いえ、そんなことは」


 雄一おじさんに真摯に見つめられ、新美さんは少し照れながらもその表情を明るくした。

 まだ完全に琴音の契約破棄がなくなったわけじゃないが、雄一おじさんの言葉のとおりであれば、ひとまず安心しても大丈夫だろう。


「良かったな、月乃ミトが続けられそうで」

「うん」


 顔をほころばす琴音の姿に、思わず笑みが浮かぶ。とりあえず今回の目的に関してはおおまかに達成できたはずだ。

 俺にとってはマギスタの契約よりも大切だった、琴音の雄一おじさんの関係改善についてもなんとかなりそうだし。さすがにすぐに全部元通りになるとは思わないが、それでも話し合っていくことさえできれば希望はある。


「ところで少し気になったのだが、なんで陸斗君はそんなTシャツなんだい?」

「いや、ちょっと雨の中で琴音と追いかけっこすることになって、元の服の代わりに用意された着替えがこれでして……」


 ははは、と乾いた笑いを浮かべながらそう答え、ことの経緯を説明していく。


 喫茶店メイカで雄一おじさんと別れた琴音が雨の中に飛び出したこと。

 それを傘も差さずに追いかけたこと。

 追いついたところで今まで逃げていたことを琴音に謝罪し、俺の覚悟を伝えたこと。

 そして……


「1つ雄一おじさんにどうしてもお伝えしておかなければならないことがあります。俺は琴音が好きです。小さい頃からずっと好きでした。なので、娘さんを俺にください」

「ちょ、ちょっと陸斗!」

「落ち着け、琴音。雄一おじさんは俺に対して負い目を感じている。交渉を有利に進めるなら今なんだ」

「そ、そっか」

「堂々と目の前でそんなことを話す君の図太さに怒るべきか、簡単に丸め込まれる娘を嘆くべきか悩むところだね」


 そう言って雄一おじさんは俺たちを見ながら苦笑いしていた。

 もちろん結婚前の挨拶を本気でしているわけじゃない。空気が重くならないように冗談めかしただけだ。でも俺が伝えたい、琴音を好きだという事実は、しっかりと雄一おじさんにも伝わっていた。

 雄一おじさんは眉根を下げ、優しい瞳で琴音を見つめる。


「琴音は陸斗君のことが好きなのかい?」

「……うん。私は陸斗が好き。私も小さい時からずっと好きだったの」

「そうか」


 少し恥ずかしそうに頬を染めながら、しかしはっきりと琴音はそう言いきった。自分の顔が熱くなっていくのを感じる。

 机の下で握りあった手が俺と琴音の思いを伝え合う。それはとても心地よい気分だった。

 雄一おじさんはそんな俺たちに交互に視線を向け、少し寂しそうにしながら笑顔を浮かべた。


「琴音がそういうなら私はダメだとは言わないよ。ただ節度ある付き合いをするように」

「「はい」」


 同時に返事をした俺たちは顔を見合わせ、お互いの赤くなった顔を見ながら最高の笑顔を浮かべたのだった。





 少し予想外のこともあったが、マギスタとの契約も続けられそうだし、琴音と雄一おじさんの関係修復の兆しも見えた。俺と琴音も晴れて恋人として認めてもらったし、大団円と言っても過言じゃないだろう。

 振動したスマホに目をやると、画面に表示されたメッセージに短く「飯は?」とだけ書かれている。


「どうしたの?」

「ああ、うん。親父から」


 スマホの画面を琴音に見せると、琴音が小さく笑いをもらす。


「短いね」

「男同士なんてこんなもんじゃないか?」

「そうなんだ。あっ、もう8時を回ってるんだね」


 確かにスマホの画面に表示された時刻はもう午後8時を過ぎていた。窓の外は真っ暗になっていたが、雨の音が聞こえないところから考えると、既にやんでいるんだろう。


「じゃあ俺たちはそろそろお暇します。2人でじっくり話す時間も必要でしょうし」

「突然お邪魔してしまい申し訳ありませんでした。契約やマギスタのことでなにか気になったことがあれば電話してください」

「本当に新美さんも陸斗もありがとう。玄関までお見送りするね」


 立ち上がった俺たちを見送るため、琴音と雄一おじさんも席を立つ。

 やはり担当の、しかも今話題の月乃ミトの契約破棄がなくなりそうということもあって新美さんの足取りも軽い。


「でも本当に良かったです。へたしたら月乃ミトの卒業配信もできないかと思ってましたから」

「本当に。でもいつかはそんな日が来るかもしれないんですよね」

「マギスタのマネージャーとしては月乃ミトには長く頑張ってほしいけどね」

「はーい。マネちゃんのために頑張りまーす」


 まるで同年代のように気安いやりとりを交わす2人の話を聞きながら、そういえばこれも良い機会かと考え、皆の方に向き直る。


「ミトの卒業に関して俺から1つ提案があるんですけど、ミトを本当に月に連れて行くっていうのはどうですか?」

「どういうこと?」

「俺、これから宇宙飛行士を目指そうと思うんだ。難関だし、運に左右される部分もあるんだけど不可能じゃないとは思ってる。で、もし俺が本当に宇宙飛行士になれて月に行く機会に恵まれたら月乃ミトを連れて行こうと思うんです」


 突然の俺の宣言に、皆がぽかーんとしてしまった。

 たしかにその反応もうなずける。調べた俺が一番その可能性の低さを知っているはずだ。なにせ宇宙飛行士は毎年募集があるわけでもなく、それなのに希望者は恐ろしいほどに多い。

 そして採用されたからといって、必ずしも宇宙に行けるという保証はない。さらに行き先が月ともなると奇跡でも起きない限り無理だろう。


「あの、陸斗君。月乃ミトのために、そこまで人生を賭けるようなことしなくても……」


 そう言ってたしなめようとする新美さんに笑い返し、首を横に振る。


「月乃ミトのためだけじゃないです。俺と琴音のことを報告したい人が月にいるはずですから」


 我ながら少しくさいな、と苦笑いする俺の手を琴音が引く。


「なん……」


 顔を向けた俺の目には視界いっぱいの琴音の顔が映り、そして俺の唇に柔らかい感触を残して離れていった。


「これから頑張る陸斗に、ご褒美の先払いってことで」


 そう言って恥ずかしそうする琴音の笑顔は、これまで見たどんな姿よりも綺麗で、そして可愛かった。

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