空の彼方で

鍵崎佐吉

01

「なに難しい顔してるの?」

 不意に横からそう呼びかけられて俺ははっと我に返る。セイはそのスレンダーな体をややくねらせつつどこか不思議そうに俺の顔を見つめている。どうやらいつのまにか昼休憩になっていたようだ。俺は椅子から腰を浮かせつつ、しかし食堂へと向かう一歩を踏み出せないままセイの問いかけに答えた。

「なんだか妙なんだ」

「妙って何が?」

 俺はもう一度椅子に腰を下ろし目の前のディスプレイを操作する。さっきから何度も確認した画面だ。表示されているデータは依然として変わらない。

「五日前から地球からのあらゆる通信が途絶えている。今朝点検をしてきたが機器類に故障はなかったし、システムも正常だ。原因がわからない」

「ふーん、まあ向こうで何かトラブルがあったんじゃない? そんなに大袈裟に考えなくてもいいと思うけど」

 セイの言うことはもっともだ。他の大半の職員も彼女と同じ見解を示すだろう。そもそも電波状況の安定しない宇宙空間ではこういったことはそう珍しいことでもないのだ。そう頭では理解していてもなぜか妙な違和感がずっとまとわりついている。五日もの間地球との通信が途絶えたというのは記録にある限りでは八十年ぶりのことだ。とはいえ昔とは違って月での自給自足がある程度可能になった現代ではそれほど致命的な事態にはならないというのも確かなのだが。

「どうも嫌な予感がするんだよ。何か地球でとんでもないことが起こってるんじゃないのか?」

「仮にそうだとしても私たちには何もできないでしょ。せっかく暇になったんだからありがたくさぼってればいいのに」

「あいにく根が真面目なんでね。そういうわけにはいかないのさ」

 しかしこれ以上ここで何かを話してもらちが明かないのも事実だ。俺が食堂へ向かって歩き出すとセイもその横をついてくる。同期としてここで働き始めて三年、彼女は一番仲のいい同僚ではあるが決してそれ以上の関係ではない。

 それでいいのか? と自らに問いかけてみてもはっきりとした返事は返ってこない。彼女の方はどうなのだろう、と思うがそれこそ答えは暗黒の宇宙の彼方だ。

「……もし地球が吹っ飛んじゃったらどうする?」

 そう言いつつセイは笑っている。俺たち月生まれルナリアンからすればあの大きな青い星は先祖の故郷だというだけで、それ以上なんの感慨も抱きようがないのだ。そう考えれば俺がさっきまで抱いていた不安もなんだか馬鹿げたもののように思えてくる。

「どうもしないさ。今まで通りここで生きていくだけだよ」

 それが月で暮らす者たちのリアルなんだ。心の内でそう自分に言い聞かせた。


 観測所から通信局に緊急連絡があったのはその日の晩だった。俺は自分の予測が正しかったことを誇る気にもなれなかった。

「地球表面にて複数の大規模な爆発を確認。恐らく戦略級の大量破壊兵器が使用されたものと思われる。通信局は情報収集に努めよ」

 それはつまり我らの母なる地球が破滅への一歩を踏み出したということだった。


 翌日からは職場の雰囲気はがらりと変わってしまった。ここ数日の地球との音信不通が例の件と関連しているのなら、既に地球の通信システムは壊滅的な被害を受け機能停止しているという可能性もあるのだ。地球で何が起こっているのか、戦闘の規模はどの程度なのか、今我々月の住人たちはどのような立場にあるのか、職員総出でそれらの情報収集にあたったが結局地球との連絡は取れなかった。

 何も成果が得られなかったとしても、成果が得られなかったという事実は報告する必要がある。政府の緊急会合に通信局から代表者を派遣するよう要請があったのだ。当然誰もそんな役回りは引き受けたがらなかったので、俺がその役を買って出た。自分なりに少し思うところがあったのと、他の有識者たちの見解を知りたかったからだ。他の職員たちがどこかほっとした表情を浮かべる中、セイだけが相変わらず険しい表情を崩さなかった。

「……本当に地球は吹っ飛んじゃったと思う?」

「わからない。だけど一週間もしない間に地球人が全滅した、なんてこともないだろう。国家間での諍いや政治的な配慮から意図的に月との通信を絶っているだけかもしれない。とにかく今は状況を決めつけない方がいい」

「私、馬鹿みたいだね。ササハラの言ってること、全部正しかったのに」

「結果論だよ。それに全部予知できていたとしても、俺たちは多分何もできなかった」

 月にもたらされる情報というのは大半が経済か娯楽に関するものだ。国家としてほぼ完全な独立を保っている月において地球の政治情勢などに興味を示す者はほとんどいなかった。いったいどういった経緯でこんな事態に至ったのか、今となっては正確な事情を知る術はない。そして例えこの事態を事前に知り得たとしても何もできなかっただろう。月面に築かれたこの人工都市『希望の庭ホープガーデン』には三百万人の居住者がいるが、軍人と呼べる者は一人もおらず、警察の持っている銃火器を除いて兵器と呼べる物も一つも存在していない。武力、経済、政治、あらゆる面において地球の営みに対する影響力はほとんど皆無と言っていいだろう。我々にはきっと何もできなかった。

 たとえ地球が吹っ飛んだとしても、何もできなかったのだ。もっと早くその事実に誰かが気づいていたら、何かが変わっていただろうか。俺にはわからない。


 ガーデンの中央にそびえ立つ月面政府ビルの地下十二階、どこか閉塞的な印象を受けざるを得ない大会議室には十数人の人々が集められていた。皆一様に暗い表情を浮かべて、やや俯き加減で目の前のテーブルを眺めている。最初に口を開いたのはガーデンの最高指導者であるエバンス議長だった。

「それで、地球との連絡は取れたのかね?」

 よりにもよって俺が一番槍か、と思わず尻込みするがここまで来て逃げ出すわけにもいかない。俺は一呼吸おいて情報を整理してから議長の問いかけに答えた。

「八日前から地球との通信は途絶えたままです。それが故意なのかどうかも判然とはしません。現在各国主要政府あてに通信用の無人シャトルを送り込む計画を立案しております」

 あからさまな落胆のため息が会議室に蔓延する。しかしこればかりはこちらに落ち度があるわけではないのでどうしようもない。そして正直に言えばシャトルに対しても俺は大した期待は抱いていない。なんとなくだがこれは方法論ではなくもっと根本的な問題であるように思えるのだ。それは観測所の代表者であるヘルマンという男も同じようだった。

「この際地球で起こった爆発の規模や数はさして関係ありません。とにかく地球において全世界を巻き込むような戦争が起こった、という事実が何より重要です。そして我々は幸か不幸かその諍いから完全に締め出されてしまっている」

「しかし本当にここは安全なのかね? 何かの弾みで地球から攻撃を受ける可能性はないのか?」

「はっきり言いましょう。その可能性は皆無です。地球から直接月面を攻撃するのは現存する兵器では物理的に不可能です」

 安堵の表情を浮かべる議長の横で都市開発委員長が声をあげる。

「しかし攻撃というのは物理的なものだけとは限らないだろう。食料はまだしも月では採取できない資源や地球にしかない技術もある。そういったものの供給を絶たれればいずれ我々が苦境に立たされるのは目に見えている。現に我々は情報の供給を絶たれてこうして右往左往しているわけだ」

「おや、それでは委員長はどうすべきだとお考えですかな」

「シャトルなどと悠長なことを言わず早急に地球への使者をたて交渉と情報収集に当たらせる。月の自立は未だ不完全で地球からの助力を失くしては立ち行かない」

「しかし地球ではまさに終末戦争と呼ぶべき争いが起こっているんですよ? 月のことなんかにかまっている余裕はないと思いますが」

 委員長の言うことももっともではあるが、この状況ではヘルマンのいうことが正しいだろう。連絡一つ寄越さないような相手に何らかの援助を期待することはできない。こうなってしまった以上は月の経済圏の内部だけでどうにかやりくりしていくしかない。やや騒然とする会議室を制するようにヘルマンは軽く右腕を上げる。その瞳にはどこか危険な野心が宿っているように見えた。

「そこで一つ提案があるのですが」

「何かね?」

「地球から月を攻撃することはできなくてもその逆は可能ではないか、と思いまして」

 さらに騒然とする会議室の中で委員長が叫び声をあげる。

「君は何を言っているんだね!? そもそも月には大型兵器など存在しないんだぞ?」

「そんなもの必要ありませんよ。掘削用のドリルと大型のエンジンさえあれば可能です」

 ヘルマンはまるでオペラ歌手のように自らの血に濡れた幻想を歌い始める。

「私の専攻は宇宙工学なのですがね、常々考えていたのですよ。まず月面の適当な岩盤を削り取ってそれに航行用のエンジンを取り付ける。後はそれを地球に向かって発進させるだけでいい。地球の引力に導かれたその岩盤は人工の隕石として地表に降り注ぐことでしょう。まあいわゆる質量兵器というやつです。正確な軌道計算が必要にはなりますが、この技術が確立されれば我々がはるか上空から地球を支配することができる。交渉を始めるのはその後でいいでしょう」

 静まり返った会議室の中、議長が絞り出すように声を発した。

「つまり君は地球を、人類の故郷を脅そうというのかね」

「放っておけば奴らは自滅するだけです。その前に誰かが正しい道へと導いてやらなければならない。これはまたとない好機ですよ。我々月の民こそが人類の頂点に立つ時が来たのです」

 一介の通信士でしかない俺には彼の語ることが本当に実現可能なのかどうかはわからない。だが逆境に立たされ未来を悲観する者の中にはその言葉を信じようとする者もいるだろう。俺はゆっくりと会議室に集められた面々を見渡す。意気消沈という形容が相応しかった淀んだ空気は、いつしか危険な熱を孕んだひりついた空気に変わっている。

 我々はどこへ向かおうとしているのか。地球から放たれる滅亡の余波がこの無垢なる星まで侵蝕しようとしているのではないか。そんな不吉な妄想が頭から離れなかった。

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