第3話 ベイカー館221B号室

校舎を出て渡りろう下を抜け、今度は寄宿舎へと足を踏み入れた。寄宿舎はいくつかあるが、わたしが入るのは「ベイカー館」というところらしい。校舎が石造りの、どこか厳かな雰囲気のある建物なら、寄宿舎は木造建てで温かみを感じるところが住む場所としてはぴったりだと思った。まずは、そこの寮母さんにあいさつをすることになった。


「ハドソンさん、いますか?」


シャロンが管理人室に声をかけると、中から30代くらいの上品そうな女の人が現れた。


「ベイカー館の管理人さんのハドソン夫人。みんなハドソンさんと呼んでいるわ。体調が悪い時や、身近な大人に相談したいときは、まず彼女に声をかけて」


「あなたがジェーン・ワトソンね。よろしく。ビクトリア女学院へようこそ。途中からだから戸惑うこともあると思うけど、なんの遠慮もいらないから相談してね」


ハドソン夫人は穏やかな笑顔でそう言った。みんなのお母さんみたいな存在なのだろう。まだ若いが、包容力と温もりが感じられる。わたしは、一目見てこの人が好きになった。


「はい、こちらこそよろしくお願いします」


「まだ子供なのにしっかりしているわね。でも、初めて親御さんから離れて寂しくならない子はいないわ。ホームシックになるのは当たり前だから、つらい気持ちを抑えこまないでね。我慢できないときは私を頼って」


「いえ、別に。そんなに気にしてません」


わたしは、本音を隠すのに気を取られて、ついぶっきらぼうな口調になってしまった。


「いいのよ、強がらなくて。まだ13歳でしょ。その年齢で平気でいる方が不思議なくらいよ。学校のことやここの生活のこと、他にも悩み事があったら相談してね。私以外にもスタッフはたくさんいるから」


ハドソン夫人から優しい言葉をかけられて、さっきパパと別れたばかりなのに、わたしは早くもうるっと来てしまった。本当はすごく心細い、そう簡単にここの生活に慣れることなんてできない。わたしは、ここまで寂しがりやな人間だということに、自分でもびっくりしていた。


「分かりました、ありがとうございます」


シャロンは無表情でそのやり取りを聞いていたが、「じゃ、次は建物の中を案内するわ」と言い出したので、わたしは我に返ってシャロンの後を追いかけた。


「始めに共用施設を案内するわ。その方が合理的だから」


一番合理的なのは、シャロンの態度なのではないか? じめじめ泣くなんてバカみたいと言われた気がして、わたしは少し腹だたしい気持ちになった。よく考えたら一言もそんなこと言われてないのに。わたしの勝手な思い過ごしにもかかわらず、自分の気持ちにちっとも寄りそってくれないシャロンが、その時は冷たく思えたのだ。


少し目を潤ませたのを見られたのが恥ずかしかったという気持ちもある。それを誤魔化したくて、わたしは勝手にシャロンに責任転嫁したのかもしれない。今から振り返ると実に身勝手な考えだ。あの時のわたしは、慣れない環境が心細くてやけにツンツンしていたと思う。


「お風呂は夕方の5時から9時まで。個室のシャワー室がいくつかあるから、この表に名前を書いて予約して。忘れたらその場で空いたところに書いておけば大丈夫だから。食事は朝が7時で夕方も7時。みな食堂室でとることになっている。起床は6時半で、就寝は9時半。試験前は11時まで起きても大丈夫。空いた時間は自習室や自分の部屋で勉強したり、談話室でくつろいだりする人もいるわ。でも自習室と談話室は9時で閉まるから注意して」


「ひまな時、シャロンは何をしているの?」


わたしは、ふと気になってたずねてみた。彼女が談話室で友人と楽しそうに話をしているのが想像できなかったのだ。


「私? 実験室で実験をしていたり、先生の助手をしたりしているわ」


あまりにも意外な答えでわたしはびっくりした。それって一体どういうこと? しかし、次の質問をする前に、わたしたちは自分たちの部屋にたどり着き、そちらに注意がそれてしまった。


221B号室。部屋のドアにはそう書かれていた。


「さっきも言ったけど、2人部屋を私が今まで一人で使っていたけど、今度からはあなたが入る形になるわ」


部屋のドアを開けると、すでに私の荷物が置かれていた。これからダンボールの山を開けて荷物を整理しなければならない。


「ありがとう。ここまで案内してくれて。改めてこれからよろしくね」


わたしは、ニコッと笑顔を作ってそう言ったが、シャロンはすぐにぷいと横を向いてしまい、返事は返ってこなかった。今まで二人部屋を一人で自由に使っていたのに、わたしのせいで窮屈になってしまうのが嫌なのだろうか? でも、ここは元々二人部屋なのだから仕方のないことだ。こんな愛嬌のない子と一緒になってしまって、これからどうなるんだろうと先が思いやられた。


それから、一人でダンボールを開けて、中の物を出して備え付けの本棚やクローゼットに入れ始めた。こんな時、同じ部屋にいる子が手伝ってくれたら助かるのに。少なくともわたしならそうするけどなあ。いや、手伝ってほしいと言うよりも話し相手がほしいという方が正しい。一人で黙々と作業をしていると、どうしても家族のことを考えてしまう。今頃パパは家に着いただろうか。わたしがいなくなったので、本格的に日本へ向かう準備に取り掛かるのだろう。メアリーがいるからなかなかはかどらないだろうが、その間、彼女をどこかへ預けるのだろうか? 何よりわたしは、独りぼっちでイギリスに残される心細さにこれから耐えられるのだろうか? とても不安になった。


荷物はそんなに多くなかったので、夕食の時間が来る頃にはほとんど片付いた。どんな感じになっただろうと、わたしは机の周りを見渡した。ふと、机の上の鏡と目が合ったので、何となくではあるが、ヘアピンを変えてみる。まだこざっぱりとしているが、これから学校生活が始まったら物も増えていくのかな。そうなるころは、寂しくなくなっているかなと、気持ちを切り替えようと思った。


やがて、7時になり夕食の時間を告げる放送が鳴った。わたしは、シャロンに声をかけて一緒に行こうと思ったら、すでに彼女の姿はなかった。彼女はなにも言わず、一人でさっさと部屋を出て行ってしまったのだ。


わたしは、思わずあっけに取られてぽかんとしてしまった。確かに、さっき説明を受けたし、子供じゃないんだから一人で行けないわけではないが、初日なのだから誘ってくれてもいいんじゃない?


ここまで来たら、わたしはシャロンに嫌われているに違いない。何が彼女を怒らせたか身に覚えはないが、きっとそうなのだろう。どうしよう。同じ部屋にいる子に初日から嫌われてしまうなんて。わたしは、ため息をついて一人食堂へと向かった。


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