天ケ瀬三姉妹

森本 晃次

第1話 「小説執筆」考

この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和四年一月時点のものです。


 三姉妹や三兄弟というと、よくドラマや小説、マンガにもなったりしています。三兄弟というと、特撮などに多いかな? というのは、作者の勝手なイメージで、それも、忍者系? というのも、勝手な発想でしかないが、何となく、恰好よく感じるではないか。

「そうあってほしい」

 と思うのは、子供の頃によく見た特撮番組の記憶が、だいぶ薄れてきてしまっている証拠ではないだろうか。

 当時の特撮などは、元々はマンガが原作のものを実写化というパターンが多かった。ただ、それは、ロボットものや、等身大のヒーローものに多く、宇宙からの巨大ヒーローが、怪獣や、侵略宇宙人と戦うというストーリーは比較的、オリジナルストーリーが多かった気がする。

 もちろん、マンガも存在するが、それはあくまでも、テレビドラマのヒットから、後追いでマンガが発売されたというものが多いような気がする。当時はまだ、今のような、ヒーロー戦隊ものというものが出てくる前だったので、そうだったのだろう。ただ、その中で三兄弟が多かったと思うのは、冷静に思い出してみると、違ったような気がする。普通の兄弟というのは、いくつかあったが、三兄弟となると、どこか設定が難しいのかも知れない。忍者に多いと考えたのは、たぶん、忍術のようなものに、三位一体なる戦法が多かったというのが頭にあるからではないだろうか? 今から半世紀近く前のことなので、しかも、十歳になるかならないかという頃、どこまで記憶が正しいか、疑問でもある。

 当時は、DVDはおろか、ビデオなどもない時代、やっとカラーテレビが普及してきた頃で、白黒テレビでも、まだ家にないというところもあった時代だ。

 家の近くには、まだ、

「貸本屋」

 などがあり、まるで駄菓子屋さんのような雰囲気の店に、じいさんかばあさんが店番でいたという記憶がかすかに残っている。ほとんどすたれかかっていて、店に客がいるところを実際に見た記憶がないほどだ。

 貸本屋でも、販売もしていた。小学館の、

「小学〇年生シリーズ」

 を、

「付録の本」

 と呼んで、買いに行っていた覚えがある。

 それは、付録が楽しみだったという意味合いもあるが、おかしなので、

「グリコのおまけ」

 などといって、付録やおまけにつられて、皆がよく買っていたというイメージが強いからだった。

 当時の時代背景はというと、大阪万博が終わり、第二次怪獣ブームや、等身大ヒーローものがたくさん出てきた時代だった。なぜか、ある年だけ、

「合体もの」

 が流行った時期があり、ヒーローに変身する主人公がW主人公だった頃があったのだが、その理由までは分からない。

 そんな時代において、特撮にも、

「兄弟で活躍する」

 というものもあったと思うが、とにかく、特撮全盛期だったということもあり、あまりにもたくさんのシリーズが製作されたので、残っている記憶が錯綜するのも仕方のないことではないだろうか。

 子供の頃の記憶もあいまいだが、小学校を卒業してから、中学生になると、特撮やアニメから遠ざかるようになってきた。

 今のレジェンドとして語り継がれる特撮であったり、ロボットアニメは、すでに作者が見なくなってからのものが多く。

「○○世代」

 と呼ばれる世代としては、40歳代くらいまでになるだろう。

 これが、三姉妹の話となるとどうだろう? 小説にしても、マンガにしても、三兄弟というよりも、三姉妹の方が結構話としては多いかも知れない。

 特に恋愛ものとなると、三姉妹による葛藤などもあって、作者はそれほど詳しいわけではないが、無謀だと思ったが、かつて、

「隆子の三姉妹」

 なる作品を書いたことがあった。

 あれは、純愛というよりも、愛欲系だったが、一般的な話としては、純文学などによる、純愛などが多いことだろう。

 ただ、純文学だから、純愛というわけではない。純文学と呼ばれるものは、別に純粋なストーリーだから、純文学だとはいえないだろう。

 純文学というものは、あくまでも、

「大衆小説」と呼ばれるものが、そのエンターテイメント性と比較して、芸術性を重んじた作品ということで定義されている。

 今では基本的に、大衆文学と純文学に分かれてしまい、さらに大衆文学が細分化され、いろいろなジャンル。SF、ミステリー、ホラーなどに分かれている様相を呈してきた。

 そして、その中に、純文学というものが分類される形のイメージが強いのが、出版界をはじめとした、小説に携わる人たちの見解なのかも知れない。

 ただ、文学というものは、歴史的には、

「自然主義小説」、

「社会派小説」

「人道的小説」

「耽美派小説」

 などのジャンルが、明治から昭和の初期くらいにかけてあったのだ。

 そういう意味で、今のような、

「純文学を、いろいろなジャンルの中の一つのジャンルとして捉える」

 という考え方は、少し違うのではないかと思っている人も少なくないだろう。

 そういう括り方をするから、純文学というものの実態が見えてこないと思っている人も少なくないのではないかと思うのだ。

 というのも、

「純文学と呼ばれる小説の中には、SF、ミステリーなどのような小説も含まれていて、特に耽美主義など、純文学といってもいいのではないか?」

 と思えるのだった。

 特に耽美派と呼ばれる人たちの中には、純文学小説家に分類される人もかなりいて、そういう意味で、純文学という括りは単純な、

「大衆文学の一つ」

 とは言いにくいものがあるだろう。

 耽美派というのは、

「道徳功利性を廃して美の享受・形成に最高の価値を置く西欧の芸術思潮」

 と、定義されているようである。

「美至上主義」

 とでもいえるだろうか。

 文学の中で、いろいろなジャンルで分けられているが、ここまで一つのことに特化した考え方というのは、もはやジャンルで分けるということがおこがましいほどではないか。

 そういう意味でも、耽美主義というものは、誤解もされやすい。

「美しければ、それが犯罪であっても、悪であっても、至上主義として許されるものである」

 という考え方となり、本当に非道徳的なものとなることで、モラルなどを凌駕した美というものを、いろいろなものに結びつけて考えると、耽美主義は、文芸だけではなく、買いがや彫刻などの、

「芸術一般」

 として考えられるようになるのは、必然であろう。

 その中で文学となると、そんな

「美至上主義」

 が、芸術と結びつくことで、純文学を形成していると考えると、純文学の芸術至上と、文学によるジャンル分けという発想が、

「純文学は、大衆文学と分けることもできない気がするし、小説の中の一つのジャンルとして分けることもできない。つまりは。ジャンルの中にも純文学が入り込み、曖昧なところで蠢いている存在なのではないかと考えられる」

 という気がしているのだった。

 作者には、純文学というものはなかなか分からないといってもいいかも知れない、自分の書いている小説は大衆文学には違いないが、正直、何が芸術性なのか分からない。

 表現が文学的なものが、芸術的なのか、ストーリー展開が芸術的なものだというのか、そもそも、ストーリーに芸術性なるものが存在するのか? そもそもの芸術性とは何なのか? その、そもそもの芸術性と小説をどのように結びつけるというのか?

 いろいろと考えているうちに、

「純文学の何たるか?」

 ということを考えていたのと、方向性が違うように感じてくるから不思議だった。

 作者は別に純文学を目指そうというわけでもなく、大衆文学の中で、何を目指そうというわけではない。ただ気になっていることとして、

「ジャンルという区分けではなく、文学性や娯楽性という意味での区分けとして、純文学や大衆文学があるのだとすれば、それらを探求することは、小説に味を出させることになるのではないか?」

 と考えるだけだった。

 小説というものに、必要なものとして、その一つにプロットというものがある、マンガの世界では、ネームというものなのかと最初は思っていたが、どうやら、マンガにもプロットが存在し、そのプロットからネームを起こすものだという。

「映画などの映像作品で、シナリオがあって、コンテを起こすような感じなのか?」

 と思ったが、そうやって考えると、作品を作るうえで、小説というのは、途中にいろいろない分楽だといえるかも知れない。

 しかし、小説でいうプロットという中身の幅が広いという意味で、例えば、

「マンガにおけるプロットとネームを足したものが、小説でいうプロットになる」

 と考えれば、小説でいうプロットが、

「広義の意味でのプロット」

 であり、

「マンガでいうところのプロットというのが、狭義の意味でのプロットになる」

 といえるような気がしてきたのだ。

 だが、小説の場合のように広義であると、プロットを作るのは、ある意味、

「人それぞれ」

 ともいえるだろう。

 ただし、プロとなるとそうもいかないのではないだろうか。

 バックには出版社があり、まず出版や連載をする前に、作家、あるいは、編集者と話し合ったうえでの企画を立案し、企画書のような形にしたものを、編集者が会社に持ち帰って編集会議に掛ける。

 そこで、連載であれば、ページ枠などの関係で、誰の作品を採用し、それくらいの枠で作品をお願いするかが話し合われる。

「毎回、原稿用紙三十枚分」

 といった、ザックリしたものが、決まる。

 それを小説家に連絡し、そこで初めて、小説家の執筆になるのだが、そこで最初に作るのがプロットになるだろう。

 だから、プロットの大まかな部分はすでに出来上がっていて、そこに編集会議で決まった出版社からの要望などが加味される形で、プロットを作ることになるのだ。

 その時、まず考えるのが、普通の人であれば、いきなりジャンルだと思うかも知れないが、まず決めるのは、

「読者へのターゲット」

 である。

 相手を男性に絞るのか、若年層なのか? その中でも中高生なのか、大学生以上なのか? さらには男か女か? などを考えることで、何となくの内容が頭に描けてきて、大まかな登場人物、最後はハーピーエンドなのか、そうではないか? などが決まってくる。

 そこで初めてジャンルが決まるのではないか。そしてその後に、書き方の目線に関わってくる。一人称視線なのか、三人称視線なのか、それとも、場合によっていろいろな視線に代わる神視線というものなのか、などである。

 ちなみに作者は、今までほとんど、一人称で書いたことがない。最初は一人称で書いていたこともあったが、なぜか途中から、視線が三人称に代わっていたりした。そのため、最初から三人称が多くなったのだ。

 それも、登場人物の目からではない。まるで、ドラマなどのナレーションが入っているかのようなイメージであり、ある意味、

「この書き方が楽だ」

 と思えるからなのかも知れない。

 ただ、それがいい小説を書くということと結びついているかというと、そうではない。別にプロではないのだから、気楽にできればいいと思っているだけである。

 小説を書く時、どの視点から描くのかというのは、それほど重要ではないが、神視線のように、いくらでも、視点を変えられるとするならば、あまり推奨しないというハウツー本が多いだろう。

 それは、読者の感情移入が、コロコロと視点が変わると分かりにくいというところにあるようだった。確かにそうかも知れない、実際に作者も、神視点というものに、

「気が付けばなっていた」

 ということは往々にしてあるが、自分からしようとは思わない。

 なぜなら、神視点というものが、表から見るほど簡単ではないからだ。

 ただ、実際に小説を書いている時、書き始めてしまうと、気づかない間に神視点になっていることはあるものだからだ。

 というのは、小説を書くということは、作者がすべてを握っているといえるからである。

 プロットを書いた時点でもそうだし、書きながらでも、ストーリー展開をどのようにしようかなどと考えていると。絶対的に、作者は読者よりも、先の展開を知っているからなのだ。

 つまりは、作者の思想が、すでに神視点になっているのだ。いくら、神視点にしてしまうと、読者が感情移入しにくくなるといわれようとも、作者自体が神視点で小説を書こうとしているのだから、難しいといえるだろう。

 ドラマを見ている場合、ブラウン管(古いか?)に映った映像が限られた場面を切り取っていることで、場面を絵コンテのような形で見ることができないと、正直、ドラマにはならない。しかし、それらをスタジオのセットのように考え、その場面を、まるで箱庭の外から覗いているように思えば、まわり全体を見ることができる。それが一種の神視点というもので、全体を見ることができるが、そのかわり、すべてが見えてしまうので、どこに集中していいのか分からない。ドラマはその必要な部分に、ふさわしい視点で映し出すことによって、ストーリーが完成する。箱庭を見ているのが、まさに神視点なのだといえるだろう。

 そういう意味で、神視点というのは、楽ではあるが、その前後の物語との絡みを考えると、実に難しいものだともいえるだろう。

「プロじゃないんだから、別に、読者の感情移入など関係ない。俺は俺だ」

 と、神視点を意識しなかったのだが、箱庭で考えてみると、神視点になってしまうことは、

「自分で自分の首を絞めるようなものだな」

 と考えるようになっていた。

 小説の中では、小説の分量によって、登場人物の人数、あるいは、時代背景などの時間の範囲などが、大方決まっているようなものがある。短編なのに、登場人物が百人を超えたり、時代背景が、明治初期から昭和末期などという、とても短編で表しきれないような設定など、普通に考えてできるものではない。

 長編だからといって、確かに、少なくも多くもできるが、多い方と少ない方にそれぞれ存在する一長一短を考えながら書くことを思えば、ある程度、

「書きやすい設定」

 として決まっている方が書く方も書きやすいし、自然と読みやすい小説にあったりもするだろう。

 ただ、敢えてその法則のようなものを崩して、印象付けるというやり方もあったりする。これも、一長一短があり、敢えて、いばらの道を進むかどうかというところであろうか?

 プロでなければ、ある程度までは許される。そういう意味で、どこまでが許容範囲なのかということを知っておくことに損はないだろう。

 だが、そのことばかりにこだわっていると、堅苦しい文章になったりする。それをなくそうと、気楽に書けるようになるために、最初に努力するというのもありではないだろうか。

 無意識に、散文のつもりで好き勝手に書いていると思われる文章であっても、そこには少なからずの作者の葛藤のようなものが潜んでいるということを、読み手だけではなく、書き手も認識しておく必要があるだろう。それこそが、

「後で楽ができる」

 という意味での勉強にあるのだ。

 それが、無意識であればあるほど楽だというもので、それを無意識にできるということも、その人の技量の一つであり、一種の才能のようなものだといえるのではないだろうか?

 小説を書く時、何に重点を置くか? どうすれば楽に書けるか? などを考えていると、いつの間にかプロットができていることが多い。もちろん、枝葉になるような発想は、日ごろからふと思いつくと、メモに書くくらいのことは必要である。それは、心がけというだけのことで、努力の範疇なのか、それだけ、楽に書けることが大切なのかということを、いつも考えているのだった。

 どこに視点を置くかということを考えていると、ふと思いついたのが、前述の、

「三姉妹」

 という発想だった。

 三兄弟という発想よりも、三姉妹というものに興味を持つのは、自分の中でのアブノーマルな思いがあるからなのかも知れない。

「自分の中で小説を書くとして、絶対に書けない。あるいは、書きたくないというジャンルの小説」

 というものがあったりする。

 よく書いたり、書きたいと思っているものと隣り合わせだったりするものなのだが、意外とそういうものだったりするのかも知れない。

 自分が、書きたくないと思う小説は、ケイタイ小説のような、

「無駄に空白が多い小説」

 であった。

 本当であれば、短編やショートショートの方が書くのは難しいといわれる。

 それは、書いていてごまかしが利かないからだと思っている。長編であれば、描写などを多彩にすることで、ある意味潰しが利いたりするものだが、短編だと、書きたいことがまとまらずに、ダラダラいってしまわないとも限らない。長編でも同じことが言えるのだが、どうしても、虚勢を張るような話になってしまい、支離滅裂になりがちだからだ。

 だが、最初の頃はそれでもいいと思っていた。思いついた言葉をいかに繋いで行けるかどうかが、小説を書けるようになる秘訣だと思ったからだ。言葉が思い浮かびもしないのに、その場で一番いい表現が思いつくなど、ベテランでも難しいことだ。最初から、心がけておかなければ、できないことではないだろうか。

 そういう意味で、無駄に空白の多い小説を見ていると、最初から選んできた言葉に思えて、まるで、積み木遊びのように思えるのは、自分だけだろうか?

 やはり、言葉を巧みに扱えるようになってからの取捨選択でないといけないと思うのだ。変に楽をしようとすると、ロクなことはないと思えてきた。それは、前述の、

「楽ができるから」

 という発想とは矛盾しているようだが、それはあくまでも、

「最後まで書き上げる」

 というところから始まった発想だったのだ。

 小説がなかなか書けないという人は、最初から、

「自分に、そんな簡単に小説なんか書けない」

 と思っているからで、いくら、気合を入れて書こうと思えば思うほど、書けないという負のスパイラルに嵌り込んでしまうのだった。

 小説が書けないのは、書くことができないという思い込みから、すぐに諦めてしまうくせがついてしまうからであった。思い込むことで、書けなかった時の言い訳が、自分の中で形成され、そのことが、逃げを簡単にするということになってしまうのだった。

 だから、逆にできなかった理由の一つとして、

「簡単にはできないことを、楽して書こうなんて思ったからであり、自分には小説を書く資格はないんだ」

 と思うことにすれば、自分が傷つかないと思っているからなのかも知れない。

 そんな自分が書きたくない小説が、ケイタイ小説であったり、ライトノベルも同じような理由でできないと思っている。

 あとは生理的にダメな恐怖もの。つまりホラーであるが、類似したジャンルとして、オカルトは得意だと思っている。そもそもオカルトというのは、超自然的な現象を取り扱ったり、都市伝説や、普通の伝説のような、現代版や昔から伝わっている話を題材にするのが好きなのだ。特に、最後の数行で、読者を唸らせるような小説。そういう話にオカルト、あるいは、

「奇妙な味」

 と呼ばれる小説があるということがミソであった。

 そういう意味でも、

「好きなものというのは、嫌いなものと背中合わせだったり、隣り合わせだったりする」

 と感じるのだ。

 それこそ、

「長所と短所」

 というものの関係のようで、

「小説というのは、思っている以上に奥の深いものだ」

 と感じさせるのであった。

 また、書けないジャンルとしては、恋愛小説は書けないと思った、そして、これはジャンルではないが、書けないものとして、ノンフィクションだと思っている。

 ノンフィクションが書けないというより、書きたくないというところから出発していると思うのだが、これも結局は、

「楽をしている」

 というところから来ている。

 決して楽というわけではないのだろうが、自分の中で納得ができないのだ。

「小説というものは、あくまでも、自分オリジナルで実際にあったことを、そのまま書くだけでは嫌だ」

 というものだ。

 ただ、自分の経験から、創作物語を書くのは十分にありだと思っている。その分岐点が自分の中では曖昧で、私小説、随筆、エッセイなどは、書けないというよりも書きたくないのだ。

 さらに、自分の書き方から、

「どの口がいう」

 というものとして、評論、レビュー、などもその一つであろう。

 小学生の頃に嫌いだったものの中に、

「読書感想文」

 があった。

 何が悲しくて、人が書いたものの感想文を書かなければいけないのか。まるで、同じ賞に応募し、自分以外の人が受賞し、その人に、

「おめでとう」

 と言わなければいけない立場のようではないか。

 そんなのは、プライドが許さないというべきか、体の震えが止まらなくなるくらいであろう。

「そんな暇があるなら、次回の応募に向かって、新しい作品を考えている方がマシだ」

 というくらいのものである。

「嫉妬が、自分を逞しくしてくれる」

 それくらいに思わないと、自分に先はないと感じるのだった。

 さらに今度も同じ理由で自分で認めたくないジャンルとしては、同人、二次創作なるジャンルである。

 これこそ、

「何が悲しくて、人の作品の続編であったり、下手をすれば、盗作まがいなことをしないといけないのか?」

 と感じるのだ。

 二次創作という名前のジャンルがあるのだから、盗作では決してないと分かっているのだが、自分の中で許せない。

「二次創作が許せないから、ノンフィクションが許せないのか、ノンフィクションが許せないから、二次創作が許せないのか」

 確かに、読者側からすれば、二次創作だろうが、ノンフィクションだろうが、

「面白ければ、どっちだっていい」

 ということになるだろう。

 しかし、それは、

「小説を書くことのできない連中の遠吠えでしかない」

 と考えると、小説を書ける人間からすれば、アイデアを丸パクリに近い、二次創作を許せないのだ。

 考えてみれば、小説執筆というのは、

「読者が読んでくれるから、書くのだ」

 ということで、

「読者ありき」

 なのだろうが、それをいうのであれば、

「作品がなければ、読者が読むことはできない」

 ということになる。

 この考え方は、売買契約に似ているような気がする。

「ものがあり、金でそれを買うというのだから、本来なら、同等なもののような気がするが、なぜか、金で物を買う方の人が立場は強い」

 ということになる。

 それはそれだけ金の価値が強いからなのだろうが、価値があるのは、作品のはずだ。それなら、なぜ、絶対的な立場が作者にないのか? これはあくまでも作者側から感じるものだが、理屈で考えれば、おかしいことではないはずだ。それが納得がいかない限り、読者の立場が強いというような考えは、やはり納得がいかないのだ。

 それでも、自分の経験に基づいたオリジナル小説が多い気がする作者のジレンマは、

「書きたくないもの」

 などの存在を考えると、それが今も絶えず書き続けている理由なのかも知れない。

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