ヤクザの親分、悪役令嬢付きのメイドに転生する
渡瀬千
第1話 脳溢血で死んだら周回プレイした乙女ゲームの世界でした
ルーシィ・ウェンハムは体の丈夫さが自分の取り柄だと思っていた。故郷にいた頃は風邪ひとつ引くことがなかったし、アンズーザス辺境伯に拾われてからの3年間だって課業を欠かしたことは一日たりと無かった……そんなルーシィが生まれてはじめて経験する酷い頭痛に襲われた。
頭が割れるように痛い。それまで見たこともない光景が脳裏をよぎってうるさい。魔法のような異国の光景――馬を使わず人を運ぶ馬車や逆三角形の宮殿、見慣れない紙幣束を数えながらニタニタと笑う黒服の男たち――がルーシィの記憶を真っ赤に染める。
薄れゆく自我をどこか他人事のように俯瞰しながら、ルーシィは考えた。
《あぁ、そうか。
ルーシィ・ウェンハムだった容れ物は、これからはあの記憶の持ち主のモノとなるのだろう。きっと自分という人間はこの世界から消えて、代わりにどこかの誰かがルーシィとしてアンズーザスの屋敷に仕えるのだ。記憶と魂が書き換えられて自分は自分でいられなくなる。本能的にそれを察した。
ふらつく脚を踏みしめながらルーシィは立ち上がる。記憶がなくなる瞬間までは、マクダネル家に仕えるメイドとしての職務を果たすつもりだった。
おてんばなジリーナお嬢様は私が変わったとしても気付かないだろう。『ルーシィ、どうしたの? お腹痛い? 悪いものを食べたのかした?』なんて、愛らしい眉をひそめて私のことを気遣ってくれる。聡明なお館様――シド・マクダネル伯爵は、もしかしたら私が私じゃなくなったことに嫌疑を抱くかもしれない――どこのどなたかは存じませんが、ルーシィの身体でお館様に害をなすことだけはおやめくださいまし……
故郷も両親も喪った私めには、いまさら今生に未練などございません。
されど。
戦禍にすべてを奪われて、泣きわめくしかなかった幼子に施しをくれたお館様に――こんな小娘に家族のぬくもりをいまいちど与えてくださった心優しいお館様には、どうかご迷惑をおかけしないでくださいまし。
名前も顔も知らない御方、ルーシィの罪であればルーシィ一人で償います。マクダネル家の罪であれば、不肖のメイドが背負います。ですからなにとぞ……
薄れゆく意識のなかで、ルーシィはただそれだけを祈っていた。そして……
◆◆◆
「うっ、ううっ……!」
「ルーシィ! ルーシィ!!! どうしたの!? 顔が真っ青よ! ねぇ、ルーシィ!!!」
「ジリーナ、ルーシィを揺らすな! ハンナ、寝床と赤飯の用意を!」
「お館様、ふざけている場合ではありません! すぐに医者を呼んできます!」
平和だったマクダネル一家の朝食は、下っ端メイドのルーシィが倒れたことで騒然としていた。なにせ彼女がアンズーザス辺境伯領にやってきてから、病気らしい病気など一度もかかったことがないのだ。領地の子どもたちが水痘で寝込んでいるなかで一人元気に仕事をしていた彼女である、頑丈すぎてかえって医者が不安に思うほどだった。
とまぁそんなルーシィがよろめきながら床に崩れ落ちたというわけで、一家が受けた衝撃たるやそれはそれは凄まじかった。聡明で知られるシド伯爵が珍しく取り乱したほどである。
「な、なぁ
「ルーシィはもう1年近く前から来てますから! ……ああっルーシィ! 無理に動かないで! お医者様がくるまで横になりなさい!」
「ねぇお父さま、メンスってなぁに?」
「あぁ、ジリーナもそろそろ知っておくべきか……」
「お・や・か・た・さまぁ!」
恰幅のよいメイドがハポネスかぶれの主人をしばくのを横目にみながら、ルーシィはゆっくりと立ち上がる。唖然としながらそれを見守るマクダネル家とその従者たち。
彼らが立ちすくんでいたのは、体調不良のメイドが突如歩き出したからではなく、その表情――ギリギリと音がしそうなほど歯を食いしばって鬼気迫る表情をしたルーシィに怖気づいたからだった。
(……ざけるな、こんなことが許されてたまるかよ)
「お、おいルーシィ!? 無理はいかんよ!」
「ルーシィ、大丈夫なの!? ジリーナのおふとんで休んで!」
ルーシィはふらつく足取りで部屋の隅へと歩くと、彼女の身の丈ほどもある立派な壺――親類が借金の肩代わりにと土下座しながら差し出した、極東舶来の飾り壷をがしりと手に取った。
いかに頑丈なルーシィといえども、女の細腕では身に余る大物であるが、今日のルーシィは一味違った。
今日の彼女には鬼が宿っていた。
(戦争で家を焼かれて親を殺され、奉公先で懸命に働いていよいよこれからってオナゴを……いたいけな子どもを儂に殺せと言いなさるか!)
《ええっ!? 私、べつにそんなつもりで言ったわけじゃないけど……!?》
(この
《は、なに!? 私に分かる言葉で説明してよ!》
ルーシィは困惑していた。
頭は割れるようにいたいし、屋敷の人たちはうるさいし、そのうえ頭の中では自分ではない誰かがワケのわからないことを語りかける。せめてもの救いはそう、脳内に響くいかつい声の主が優しい性根の持ち主かもしれないということだろうか……それにしたって随分あやしいものであるが。
(詳しいことは追々ですが、さしあたってはルーシィ嬢を助けることからでさぁな。これから先九十年は続く人生でさぁ、辛いことも悲しいこともございましょう。されどその生命、『異世界転生』ごときで散らすのはあまりにも忍びないとは思いませんか!? 罪のない女子供の意識を乗っ取ってまで生きながらえては鬼の井筒の名が廃りやす! だからどうか生きなすってくだせぇ! 儂のためにも、ルーシィ嬢のためにも!)
《い、イヅツ……》
ルーシィには男の言っていることがすこしも理解できなかったが、彼がほかならぬルーシィの身を案じていることだけは痛いほど伝わってきた……
だから井筒がしようとしていることに対応がワンテンポ遅れてしまった。
「ルーシィ、一体どうしたのよ!? 急に固まって独り言を言いだして、今度は壺なんか手に持っちゃって……」
「やや、それはオブライエン子爵から借金のカタで預かった壺じゃないか! ルーシィもその壺の良さが分かるようになったのかね?」
「おやかたさまぁ!? 今はそれどころでは……」
ルーシィはもちろん壺の良し悪しなんて分からなかったが、井筒にしてみれば細部の絵付けがどこか手抜きで色合いも全体的にどんよりしており、なにより表面の仕上げが粗雑に思えた。
(こいつはまぁ贋作でしょう……ちょいとお借りしやすねと)
《なになに、その壺でどうするの!?》
記憶喪失や人格入れ替えはすでに手垢まみれなほどに使い古されたシチュエーションである。ゆえにこのような非常事態でも、井筒は過去の読書経験から最適な解決方法を瞬時に導き出すことができた。すなわち……
「ふんっ!」
ゴツン! ルーシィの石頭が無駄にでかい陶器に叩きつけられた。
ショック療法というやつである。
「わぁ!? ルーシィ!?」
「あああー!? は、ハポネスの飾り壺が!? 我が家の家宝がぁ!」
「お館様! 今はそれどころでは……ああっ、ルーシィ! 血が、血が出てる!」
シドやメイド長がルーシィの手を掴んで引き剥がそうとするけれど、それでもルーシィは……いや、井筒誠司は止まらない。
《ちょ、痛い! 痛い! いたいからやめてよぉ!!!》
(もう少し我慢なすってくだせぇ! この井筒が先にくたばっちまえば……! うぐっ)
そうして幼いジリーナが見守るなか、3人のもみ合いはしばらく続いた。最後はメイド長ハンナのこぶしを腹に食らったルーシィが気絶することで幕を閉じ、ルーシィは自室で安静となった。無駄に騒いだばかりで何の役にも立たなかったシドは、ハンナからたっぷりとお小言をもらったのだが……それは二人だけが知る秘密であった。
◆◆◆
マクダネル家の屋敷には住み込みの従者のための部屋が用意されている。広くはないがプライベートが確保された個室はこのあたりでは破格の待遇である。他家のタコ部屋住まいのメイドたちが聞いたらさぞ羨むことだろう。
そんなマクダネル家のルーシィの部屋にて、下っ端メイドの少女は脳内で一人会議……いや、謎の男と二人で会議を繰り広げていた。
傍目には、年端もない少女がベッドの中でうなされているように見えたことだろう。
(要するに儂は乙女ゲームの世界の悪役令嬢の侍従として転生したわけでさぁ。儂がワレでワレもワシで、ってこと)
《ごめん何言っているかぜんぜんわかんない。私のなかにあなたが押しかけてきたってこと?》
(へぇ。不可抗力で心苦しいですが、そういうことになりゃすな)
なるほどとルーシィは思った。ルーシィが聞きかじったラブロマンスにも階段から落っこちた男女の意識が入れ替わってしまう話が存在する。ただしそれは同い年の男女であり、二人の意識はきれいに互い違いでの交換だった。
対してイヅツという男はルーシィの祖父といっても通用するくらいの年齢だし、彼の身体はどこにもなくて意識だけがルーシィと同居している。
《けっきょく私の意識は消えなかったけど、これからどうなるんだろう……》
一心同体ならぬ、二心一体とでもいうべき状況だった。
少なくともルーシィの意識が消滅してしまう事態は回避できたらしい。井筒はそのことに安堵した。
《じゃあイヅツ、さっさと私の身体から出ていってよ》
(そうしたいのは山々ですが、どうも抜け方が分からねぇ)
《なにそれ、それじゃあ私がおばあちゃんになるまでイヅツと一緒に暮らさなきゃいけないの!?》
(いやいや、そんな生易しくはありませんぜ? 儂の生前の記憶によると、ジリーナお嬢様……あの御方は17歳の歳に国外追放を言い渡されるでさぁ)
《は!? 悪役令嬢!? 国外追放!?》
いかにも、とルーシィの身体で井筒は頷く。どうやらルーシィの意識が消滅することは避けられたものの、肉体の主導権は井筒のものとなったらしい。
しかしルーシィにとってはそれどころの話ではない。素直で愛らしいジリーナお嬢様が権威を笠に着る悪役令嬢へと変貌し、大好きなマクダネル家が一家離散の窮地に立たされているのだから。
(その通りでごぜぇます! このままいけばジリーナ嬢は着の身着のまま、許された財産は
ルーシィは困惑した。この不思議な男の言うことが本当ならば、愛くるしいジリーナも優しいマクダネル伯爵も、そろって破滅の運命を歩むことになる……自称・忠義のメイドであるルーシィにとって、それは耐え難いこと。許されざる未来であった。
ついでにいえば父の優しさにつけこみ怪しい壺で借金を相殺したオブライエンのことも嫌っていたので、あの男が大好きなアンズーザス領を治めると思うと生理的な嫌悪感を覚えた。
ルーシィには乙女ゲームというものが何なのかわからなかったが、さりとて彼の言葉を無視するわけにもいかなかった。
《ねぇイヅツ、どうやったらその未来は回避できるの?》
(難しい話でやすね……儂はあらゆるルートを検証しゃしたが、いずれのルートでもジリーナ嬢は5年生のダンスパーティーで第二王子殿下から国外追放を賜りやした。敵ながらあっぱれな悪役ぶりでして……)
《でも今は敵じゃないでしょ? どうにかして助けなきゃ!》
学がなく信心深いルーシィである、井筒という男のことを一種の神託者のようなものだと解釈していた。
ゆえに期待してしまった。彼の智慧でマクダネル家の破滅の未来を回避できるのではないかと。
イヅツはがばりと起き上がってベッドの上に正座すると、厳かに宣言した。
「やりやしょう……
ルーシィはなにやら分からないままイヅツの勢いに押されて頷いた。きっとこの男には、乙女ゲームなる神託があるのだろう。天涯孤独のルーシィはそれに縋るしかなかった。
――井筒といういかにも硬派なヤクザは、見た目に反して乙女趣味をたしなんでいた。なまじ硬派路線を気取っていたから、いったんタガが外れたらその反動はひどかった。子分たちには絶対に知らされない秘密である。
50を過ぎて深夜アニメにドはまりしてから、東映スタァのポスターで埋め尽くされた部屋はズッ推しと毎クールごとの推したちのポスターが移り変わるポップピンクなオタ部屋へと生まれ変わった。トゥイッターのアニメアカウントはいつしかフォロワー12万人を超えて、孫ほど年の離れたフォロワーに乗せられて書きはじめた同人誌はディープな女オタクの心を鷲掴みした。
暴対法による締め付けが年々強化されていく中で井筒もかつてのシノギを失ってしまったが、今日まで組が存続できたのはひとえに彼の同人誌売上によるものである。かたくなに委託やデータ販売を拒みDMから個別配送のみを受け付けているのにはそういった深い事情があったのだ。
「『聖女と魔法使いの盟約』でしたら薄い本を6冊を出しゃしたし描き下ろしつき総集編を出そうかと……いやその前にティアで番外編を出そうかってことでネタ集めしていたところでさぁ……まさかあそこで脳溢血に襲われるたぁ死んでも死にきれやせん……」
《そっか……イヅツも大変な思いをしていたんだね……》
「ですが『せまめく』のことでしたらあっしにお任せくだんせぇ。お嬢の破滅ルートを知り尽くしているからこそ、打てる対策もあるってことでさぁ」
周回プレイによってあらゆる角度からジレーナ伯爵令嬢の破滅を見届けてきた井筒である。ルーシィが中央学院に入学するまで4年、ダンスパーティで王子から婚約破棄を突きつけられるまでさらに5年。都合9年は対策を練る猶予があった。
《井筒、おねがい……私、ジリーナお嬢様が国外追放なんて嫌だよ。優しいお館様が悲しむところなんて見たくない! 私にできることなら何だってやるから! 私の身体を好きに使っていいから、お嬢様たちを助けてよ!》
「もちろんでごぜぇやす。あっしとルーシィ嬢はいわば運命共同体。アンズーザス辺境伯がルーシィ嬢の親分でしたら、あっしにとっても親同然。この井筒誠司、不肖の身ではありゃすが、身命を縣けてジリーナお嬢をお守りさせていただきやす!」
《わ、私もやる! 私もお嬢様を守るんだから!》
えいえいおー! とひとりで掛け声をあげるルーシィを扉の隙間から見守る
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