2話 「大人になる」って
僕らが椿と出会ったのは、震災の一年前のことだった。
そして、彼女は木の影から遠巻きに見ていた僕らを見つけると、にっこり微笑んで「おいでおいで」と手招きしたんだ。
椿はその頃から不思議な子だったな。
いつも制服を着ていたから学校には行っていたんだろうけど、毎回僕たちが幼稚園から帰るのとほぼ同じ時刻に、桜門寺に現れたから。
掴みどころのない笑顔。十二も歳が離れていたから当たり前か。でも、そんな年齢差を超えた椿の大人っぽさに、僕たちは甘えてばかりだった。
椿のポニーテールが揺らめく。透き通って響くその声は、今でも鮮明に覚えている。
いつしか僕と息吹は、幼稚園の放課後を椿のいる桜門寺で過ごすようになった。
僕と息吹は、椿のことが大好きだった。
★
陸前高田での夏が過ぎていく。ゆっくりとした時の流れのなか、実家のない僕らは、三泊四日のスケジュールの大半を桜門寺ですごした。
それは三日目の昼下がりのことだった。「受験生たるものこんなにだらだらしていていいのか」と唐突に息吹が言い出し、二人で勉強会をすることになった。
「私、桜門寺の中で本堂の内陣が一番好きなの」
そう言う彼女の言う通りに、荘厳たる金色の輝きを放つ内陣の前にちゃぶ台を用意し、見るのも嫌になるほど分厚い参考書を広げる。
エアコンのない本堂は、想像以上にサウナだった。
僕の情弱な集中力は十分も経たずに蒸発した。
暑い。とにかく。水分をとっても、喉元あたりで全部吸い取られている気がする。
「あちい……」
「まあまあ、夏っぽくていいじゃない?」
あはは、と乾いた笑いを浮かべる息吹だって汗で前髪がおでこに張り付いている。
微風を振り撒く扇風機が彼女の方を照らすと、その前髪がぺろりと浮いた。
「ふぃーすずしー」
「変な顔」
「うるさいっ」
古い扇風機は、ときおり訪れる二人の沈黙を埋めるみたいに、カラカラと音を立て続けていた。
「……あーあ、帰りたくないなあ」
「お前毎年それ言ってんな」
「ずううっとここにいたい。永遠に」
「だらだらしてたいだけだろ」
「穂波と一緒にしないでよ」
のらりくらりと言葉を交わす。お察しの通り、勉強は全く捗っていない。
けれど僕は案外、息吹と過ごすこういう時間が好きだった。
流れゆく時間の中で立ち止まって無駄話をするみたいな、こんな時間が。
「なに、学校楽しくねえの?」
「……まあねー、だってずーっと受験受験ばっかなんだもん」
「あーそれはうちもだわ。だりいよな、なんか息が詰まるっていうか」
「わかるー」
息吹が笑う。息吹はいつも笑っている。きっと学校でもそうなんだろうけど、たまには笑顔以外の表情が見たくなることもある。
前はもっといろいろな表情を見せてくれていた気がする。よく泣く奴だったし、よく怒る奴だった。でもその分、笑顔は今よりももっと眩しかった。
「そういえば、今年花火やってないね」
そんな僕の心中いざ知らず、息吹が思い出したように言った。
「あー昨日の夜はババ抜き最弱王やってたしな。今夜でよくね」
「でも毎年最終日の夜は和寿さんとパーティーって決まってるじゃない。絶対やる暇ないよ」
別に花火なんていつでもできるだろ。僕がそう言うより、息吹が笑って語を継ぐほうが先だった。
「ま、来年また三人で集まった時にやればいっか」
「……なあ、ずっと言おうと思ってたんだけどさ」
「うん?」
また来年。その言葉がトリガーになり、僕はようやくこのことを口にすることができた。
ずっと、言わなきゃと思っていたこと。
「僕ら来年から大学生じゃん、まあ大学受かったらだけど。どうせまたお互い引っ越しとかして、今以上に会いづらくなるだろ。だから、こういうのは今年で最後にしないか」
きっかり数拍置いて、「えっと、」と息吹が言いづらそうに笑った。
「それはもう、夏に三人で会うのはやめようって、こと?」
違うよね?というニュアンスも含まれてそうな問に、僕は黙ってうなずく。
「こうやって三人集まるのはやめよう」とはっきり言えない僕は、やっぱり迷いが捨てきれていない。
「やだ」
ふと息吹の方に目をやれば、彼女は今にも泣きそうな顔で僕を見ていた。
その目にどくん、と僕の心臓が跳ねる。
「やだよ。絶対やだ」
「いや、でもいつかは離れないとだから……」
「なんでっ」
息吹が立ち上がる。黒目がちで大きな目はゆらゆら揺らいで、僕の後ろあたりの壁を見つめていた。
「なんで?なんで急にそんなこと言うの?……もしかして穂波、ずっと
「いやちげーよ、そうじゃなくて」
「ちがくないでしょ!だって椿との大切な約束じゃない、夏にここで会おうって」
「だから椿がどうの、っていうのを終わりにする……終わらせる必要があるって話だ」
何を持って「終わり」というのか。自分で言っておきながら、何が本当の正解なのかいまだにわからない。
でも、ただ一つ確かなのは。
息吹がこれ以上椿のそばにいることは、いつか息吹自身を縛る呪いとなるということ。
「……椿と、“本当のお別れ“をすべきなんだよ」
絞りだした僕の答えに、息吹は泣き笑いみたいな表情を返した。
信じられない。信じたくない。そんな心の叫びが聞こえてくるみたいだった。
「本当の、ってなに?椿は本物だよ?」
椿がまるで本物みたいだから、僕の言葉を信じたくないこと。夢みたいな現実にすがって、何もかもに目を背けたまま生きていたいって願って。
でも今、息吹はおそらく無意識で「本物」という言葉を使った。裏を返せばそれは「偽物」の椿の存在を認めていることになる。
僕は浅く息を吸って、一息に言った。
「本物じゃない。
椿は亡くなってる。十二年前、あの震災の時に。
僕らが今見ているのは……椿の“幽霊“だ」
椿の目が見開かれる。ピンク色に潤んだ唇がかすかに、「つばき」と呟いた。
認めたくない現実。忘れたくない記憶。
それでも、帰ろう、と言いたかった。
帰ろう、息吹。僕らが生きる
例え、君の幸せが全部過去にあるとしても。
——ずっとここにはいられない。
漠然とそう感じたのはなぜだろう。
帰省一日目、やたらと透けた椿の姿を思い出す。
多分、もう「そういう時期」なのかなって、そう思った。
過去は辛い。けれどいつか、それらに別れを告げなくちゃいけない日も、来る。
いつまでも悲しんでばっかりじゃダメなんだ。
「僕らもいい加減、大人になるべきなんだ。過去に縋るのもいいけど、」
「……なにそれ。だから椿を忘れろって?」
息吹が僕を睨む。怒りとも、悲しみともつかない、初めて見る表情だった。
その目の淵に、みるみる涙がたまっていく。
ああ、傷つけてしまった。そう気づいた時には、もう遅かった。
「大人になるって、何?私は椿を忘れられれば、‘‘大人‘‘になれるの?大人になるために、椿を忘れるの?
いやだ、そんななら私、一生大人になんてなりたくない!!」
「もういい」彼女は踵を返す。そして足早に、本堂の出口に向かっていった。
「……忘れるなんて、できるわけない。穂波なんて、だいっきらいっ……!!」
ぴしゃり。鋭い音を立てて、ふすまが閉まる。
去り際に見えた、息吹の頬に伝った一筋の涙が痛いほど脳に焼き付いた。
頭を抱えてしゃがみこむ。扇風機の生ぬるい風が、嘲笑うように汗に濡れた髪を撫でて行った。
……なにをやってるんだ、僕は。
だってそんな顔すると思わなかった。
いや、ちょっと考えればわかっただろ。だって息吹は、椿のことが大好きで……
でも、だからこそなんだ。
だからこそお前は、椿から離れる必要があるんだって。
「大丈夫?」
しばらくして聞こえたその声に、ゆっくり顔を上げる。
椿が、心配そうにこちらを除きこんでいた。
「……いつのまにいたのか」
「いつのまに、っていうかずっといたよ」
「は?嘘だろ……」
全く気づかなかった。いや、気づけなかった。
また少し見え難くなった椿が、困ったように笑う。
「ほんとよ。息吹は気づいてたと思う」
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