3話 あの夜の記憶

夕飯の時間になっても、息吹は僕らが寝起きしていた部屋に引きこもったまま、僕に会おうとしてくれなかった。

一つ空いた席を見て、住職の和寿さんは困ったように笑った。


「お前ら、喧嘩なんて珍しいな」

「別に喧嘩じゃない」


和寿さんと二人きりで食事をするのは、十二年続けてきた帰省の中で初めてだった。


震災直後、震災孤児となった僕と息吹は桜門寺で生活していた時期がある。その時、和寿さんは傷ついた僕らをまるで本当の子供のように可愛がってくれた。

それは多分、今でも変わらなくて。

いつもより口数が少ない僕にときおり目を向けているのがわかる。その視線を額に受けながら、僕は黙って箸を動かす。


「……早く仲直りするんだぞ」

「だから喧嘩じゃないって」


食卓に並ぶのは、刺身とか、焼き魚とか、ホタテとか。もれなく陸前高田の特産物だった。

ご飯をかきこむ。相変わらず頬がとろけるほど美味しいけれど、今年はなんだか物足りなく感じる。

和寿さんは終始微笑みを絶やさなかった。気を遣わせてしまったかもしれなくて、それが少しだけ申し訳なかった。



夜が深まっていく。

共同で使っていた寝床に息吹が立て籠っている今、僕はいく当てもなく桜門寺の周りを歩き回っていた。

昼間の熱気を織り込んだ夜風が、風呂上がりの熱った肌を心地よく撫でていく。

夜の闇に体と心を沈める。見上げれば薄い雲の上で、ぼんやりと星がちかちかしていた。


綻び始めた百日紅の下で宙を見上げていたら、遠くでぱぱぱ、と火の玉が弾ける音が聞こえた。


庭を見渡す。姿は見えないけど、近くの生垣の陰が光っているのが見えた。


音を立てないように、そっと近づく。

案の定、群青色のセーラー服がしゃがみ込んでいた。


「やっぱり椿か」

「わっ、穂波」


「バレちゃった」と言わんばかりに舌を出す椿。彼女の手元では、細く垂らされた糸の先で鮮やかな山吹色やまぶきいろの線香花火が咲いていた。


「おいお前、まさか」

「ご、誤解しないで穂波。勝手に穂波のカバン漁ってたら出てきたものじゃないんだから」

「それもはや答え言ってるだろ」


「あ、漁ってないもん」あたふたと言い訳をする椿の隣にしゃがみ込む。適当に花火を取り出し、地面に転がっていたライターで火をつけた。

ばちっ、と大きな音を立てて咲く花火の奥に、椿の驚いたような顔が透ける。


「一人で線香花火は虚しすぎるだろ」

「だって二人が喧嘩してるから」

「……ごめん」

「私に謝らないでよ」

「いや昼間、椿とお別れすべきだ、とか言っちゃったし」


「それは大丈夫よ。何にだってお別れは必要だもの。そりゃ、少しさびしいけどね」


僕の吐息に黄土色の火の花は揺れて、その後しっとりとその光は消滅した。

かなしいほどにあっけないいのちだ。最期にひときわ輝くってのが皮肉だよな、なんて薄っぺらいことを考えながら、僕の視線は自然と椿の方を向いていた。


彼女の体の表面は光っていた。


花火の光なんかに負けないくらい、淡く、まるで背景との境目を無くして行くように。存在自体が溶けて、なくなってしまいそうなほどに。


「椿は、幽霊じゃないの」


唐突な僕の質問に、椿が振り向く。透き通った頬を聴色ゆるしいろに火照らせて、その目を細めた。


「どうしてそう思うの?」


椿が自分の線香花火をバケツに落とす。じゅ、と煙が上がる。まだ生きたかった、そんな叫びにも聞こえた。


「昼間、椿はずっと僕らのとこに居たって言ったけど、確かに居なかったんだよ。僕には椿が見えなかった。でも、息吹は気づいてたんだろ。息吹には“見えていた“んだろ」


思い返してみれば、前にもそんなことがあった気がする。僕には見えなくて、息吹には見える。もし仮に椿が「幽霊」ならば、見る人を選ぶ幽霊ってなんだ?


椿がおもむろに立ち上がる。彼女が動くたびにさらさらと光がこぼれ落ちて、それは線香花火が火花を散らすのに似ていた。


「……覚えてる?穂波。私たちが“再会“した夜のこと」


ぼんやりと霞がかかった宙の中、夜空を見上げた椿の透き通った声は、どこまでも鮮明に響いた。


「あの日は星が綺麗な夜だったね」


その時、一面藍色のべた塗りだった高田の夜空に、一粒の一等星が輝いた。

続いてその右隣りにもうひとつ。ひとつ、ひとつ、上を向いて瞬きを繰り返す僕の目に、椿と「再会」した日の夜空の色が一気に蘇る。


——ああ、そうだ。



数多の星が瞬く。

下品なほどぎらぎら眩しく感じたのは、きっと街の灯りが無かったから。


——わるいゆめならさめてくれ。

どうか、このけしきがぜんぶゆめでありますように——


そう願って、願って、でも小さな視界の中で延々と続くのは。

どこまでもリアルに迫ってくる、絶望だった。


“すぐにあえるよ。だって、約束したじゃん“


“うん、うんっ……“


あれは震災から一、二週間が経った頃だっただろうか。

僕と息吹は津波が引いた後の街をさまよっていた。


スニーカーに泥がしみ込んで、歩くたびにぐちゅぐちゅと音が鳴る。

心も身体もひどく寒くて、でも、僕らの歩みが止まることはなかった。


『2人は海岸山の、桜門寺に逃げて。おばあちゃんを迎えに行った後に私も行くから』


地震の揺れが収まったあと、僕らにそう言い残して市街地の方へ駆けていった椿を探すために。


椿はきっと、迷ってしまっただけだ。津波で街がボロボロになって、道路はほとんど瓦礫でふさがれてしまっている。

夜も深まってきたし、その辺で一休みしているのかもしれない。

なら、僕らから会いに行こう。


きづけば僕は走りだしていた。痛くて怖くてたまらなくて、早く君に会いたかった。

君の顔がみたい。そして、その腕で僕を力いっぱい抱きしめてほしい。

走り続けて痛くなった肺に、思い切り息を吸い込む。血の味がじわりと染みる。


街は亡くなった。そこにあったのは、延々と続く瓦礫の山と、微かな磯の匂いを含んだ生臭い匂い。

そして、やたらと綺麗な星空だった。


“はっ“


どれほど走った後だろう。道路の隅に、見覚えのある髪飾りを見つけた。

慌てて拾い上げる。しみ込んだ泥に、透けて聴色が見える。ところどころやぶけて、もうほとんど原型はとどめていない。


けれど、間違いない。

これは、あの子が肌身離さずつけていたもの。


“ほなみー、おいてかないでよお“


僕がその意味を理解するより前に、突然走り出した僕において行かれた息吹が、白い息を盛んに吐き出しながらかけてきた。

二つ結びはほどけて中途半端な位置にぶら下がっている。頬を真っ赤に染めて、涙と鼻水の跡が残った顔は、今にも泣きだしそうで。

それが、僕にはどうしようもなく辛かった。


避難所で、毎晩寝ずにお母さんを待っていた息吹。

ようやく二人が会えたのは桜門寺で、変わり果てた姿で帰ってきたのを見て、息吹は棺桶に縋りついたまま、しばらく動こうとしなかった。

すべてが亡くなったあの日以来、息吹は泣いてばかりだった。


もうこれ以上息吹の悲しそうな顔は見たくない。息吹にはずっと笑っててほしくて、僕はその笑顔に救われたくて。

だから、僕は……


“見つけたよ、つばき“


咄嗟に嘘をついたんだ。


息吹の目が見開かれる。ハイライトを失った瞳に、光が灯るのがはっきりと見えた。


ああ、どうか、笑って。


重さに耐えきれなくなった髪飾りが手から滑り落ちる。それと、息吹が僕の横を走り抜けていくのが同時だった。


‘‘つばきっ!‘‘


息吹が駆けた、その先を目で追いかけたら。



——君が、立っていた。



流れる長い髪は、星空の白い光を織り込んで。

群青色のセーラーが、銀が瞬く宙の藍色に映える。

僕が落としたはずの髪飾りは、その結び目で煌々と輝いていた。


君が笑う。ずっと僕らを照らし続けてくれた、笑顔を咲かせて。



“遅くなっちゃってごめんね“



瞑色めいしょくの空、夜から朝に変わる時間のことだった。

息吹が飛びつく。転んで泥だらけの顔をゆがめて、大泣きして。

椿はそんな息吹の頭をなでで、愛おしそうに顔を寄せた。

ふと顔を上げた彼女は、少し離れた場所で呆然と佇む僕を見つけて、こう言ったんだっけ。



‘‘穂波。私を探しに来てくれて、ありがとう“




あの日より、格段に見えづらくなった椿は言う。


「私の姿が見えなくなったのは、穂波が大人になったから。もう、私を必要としなくなったからなんだよ」


「っ、そんなわけない!!必要としないなんて、」


椿が僕を抱きしめる。濃い磯の香りが鼻の奥をついて、それがどうしようもなく熱くて。

全てを思い出した僕はあの日みたいに、ただ呆然と立ち尽くすことしかできなかった。


どうして。

どうして僕は椿を「幽霊」だなんて思ってたのか。

椿は幽霊なんかじゃない。

椿は、僕が創り出した「幻覚」だったのに。


「いいの。私、すごく幸せだった。ずっと二人が心配だったから……でも、もう大丈夫だね」


頬が濡れたのは、椿の涙か。生ぬるくぼんやり映る視界の中で、微かにばいばい、とつぶやく声が聞こえた。


途端、強烈な眠気が襲いかかる。僕はまともに抗うこともできずに、そのまま身を委ねた。

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