5話
思い切りペダルを踏み込みながら、頭の中ではずっと息吹の手紙が反芻されていた。
『今更何を言い出すんだよと思うかもしれない。
でも、この思いはずっと私の中にあったものだった。
何もかもを失ったあの日からずっと。
生きるのが辛い。
この世界に生き続けるのが辛い。
どうして私は生きているの?
お母さんは死んでしまったのに。故郷の陸前高田は死んでしまったのに。大切なものは、全部あっち側にあるのに。
私がこの世界で生きる意味って何?
毎日、自問自答を繰り返していました。
それでも、立ちあがる努力はしたの。震災後、叔母さんと一緒に栃木に引っ越した時。
私は生まれ変わるくらいのつもりで頑張った。
いつまでも湿った顔してたら友達なんかできないと思って、一生懸命「気さくな転校生」を演じた。
おかげで、友達はたくさんできた。
けれど、どれだけ沢山の友達ができても、
心にぽっかり空いた穴は塞がるどころか広がるばかりだった。
今の私には何もない。なのに、なんでそんな楽しそうに笑えるの。偽物の感情には一番自分が敏感だから。当たり前よね。
私は人に愛されれば愛されるほど、虚しくなった。
私の本当の居場所はここじゃない。海の見える、あの街。大切な人が待つ、あの街。でも、もう帰れない。街は死んでしまったから』
地震発生直後、太平洋で発生した津波は広田湾のリアス式海岸にぶつかり、その波の高さは十五メートルまで迫り上がった。
それらは「防波堤」であったはずの高田松原を薙ぎ倒し、一番栄えていた街の中心部を丸呑みした。
街は、あまりにあっけなく亡くなった。
震災後、復興へのスタートとして手始めに行われたのは、土地をかさ上げしその上に新たな街を創る計画だった。
山から土を切り崩し、大型のベルトコンベアで土を運ぶ。
かさあげの高さは十メートルに及んだ。
漁業に育てられた街の繁栄も、津波の跡も、全ては土の下に。
でも、それこそがこの街がこの街として再生するための最善の手段だったのだから仕方ない。
『そんな中での一番の支えが、年に一回、高田に帰省することだった。
帰省して、椿と穂波と遊ぶこと。
まるで夢のように楽しかった。いや、どこかで夢とは自覚していたけど、言葉通り現実離れした時間が楽しくて、気づけば私はそこに依存していました。
本当は存在しない、椿という存在に縋っていたんです。そんな自分が異常だと気づいた時にはもう遅かった。
椿の居ない世界が、考えられなくなっていたの。
昨日、穂波が「椿は死んだ」って言ったとき。
椿の姿が消えた。それが、トドメだった。
今更何を、って笑っていいよ。
私は今まで、穂波にも椿が見えていると思ってた。私と同じように、話したり遊んだりできるって。
でも、違ったんでしょう。
穂波には、最初から椿なんて見えてなかったんだよね。
でも穂波は優しいから、ずっと私の「椿ごっこ」に付き合ってくれたんでしょう。
まるで本当に見えてるフリをして』
違うんだ、息吹。
力任せにペダルを踏み込む。
ぐわん、と景色が加速する。
僕にも見えてた。僕のそばにもいたよ、椿は。でも、彼女は「幻覚」だった。
だから、二度と会えないんだよ。椿は居るけど、椿は居ない。それなのに、お前はさ……
たまらなくなって、ブレーキを握る。錆びついた心に、ぎぎぃ、と耳障りなブレーキ音が響く。
悩んでるなら、なんでもっと早く言ってくれなかったんだとか。
話なら、いつでも聞いたのにとか。
今ならたくさん彼女に寄り添える気がするけど、本当は全てが遅いんじゃないかとか。
ポケットから手紙を取り出す。震える手で広げて、その視線は自然と最後の行へ向いていた。
『その時、私は気づいたの。
私、今までたくさんの人に迷惑をかけて生きていたんじゃないかって。
椿がいるってうわ言を言って、穂波を振り回していたみたいに。
本当に、ごめんなさい。
でも、私が何も無くなったこの世界で生きること、それはあまりに難しくて苦しすぎた。
私の居場所はきっとここじゃない。
だから私は、椿の元へ行ってきます。
最期まで迷惑かけてごめん。
そして、今までありがとう。
ずっと優しかったあなたが大好き』
「………っ、う、くそぉっ………!」
思わず地面にへたり込む。なんの意味もないのに、土下座の姿勢で僕は何度も、地面を殴りつけた。
全部僕のせいなんだ、息吹。
椿はあの夜に僕が創りだした幻覚で、お前はずっとそれに囚われていたんだよ。
僕があの時、「椿が居る」なんて嘘をついたから。
それでいて、「椿は死んだ」?
自分で幻覚を作り出し、息吹を依存させ、挙げ句の果てには自らそれを打ち砕く。人を振り回して生きてきたのは、僕の方だ。
“なんで自分が生きているのか“
そんなの、僕が一番知りたいよ!!!
泥沼の希死念慮が僕の心にひょっこり顔を出した、その時だった。ふいに一粒の桜がポケットから転がり落ちた。
息が止まる。
ピンク色の布でできた桜。表面に散った金色の粒が煌めく。
椿の、残骸が。
「なんで、ここにっ」
ぼんやりと淡く光るそれは、微かに暖かくて。いつの間にポケットに入っていたんだろう。
震える手で掴み、そっと握ってみる。あの夜と同じように。藁にもすがる思いだった。
幻でもいい。また、「君」に逢えたなら。
視界が波打つ。僕はそっと瞼を閉じた。
★
春風が吹いた。
未だ冷たくて、一つの季節の終わりを感じさせる匂いだ。
風にのって誰かの声が、聞こえる。
“じゃあ、おばあちゃん。三時に街の公民館ね。忘れないでちゃんと待っててよ?“
姿見の前で、椿がその長い髪を桜の髪飾りで一つにくくっていた。
壁にかかった日めくりカレンダーの上で、「2011年 3月11日」の文字が風にはらむ。
その数字に、見えない僕の心臓がどきりと音を立てる。
“いつも悪いねえ。私の足が弱いばっかりに、いつも椿に迷惑かけてしまって“
“だからいいって言ってるでしょう?それに今日は自治会の集まりなんだから、仕方ないじゃない“
部屋の奥からおぼつかない足取りで初老の女性が歩いてきた。「本当に、気にしなくていいんだからね?」椿は念を押すように笑いかけると、「じゃあ、行ってきます!」と叫んで家を飛び出していった。
パチリ、とシャッターが切るみたいに場面が切り替わった。
次に見えたのは松林だった。常盤色の松林の中を、群青色のセーラー服が宙を泳ぐ。
“ほなみー、いぶきー!“
どこまでも響くその声に、桜門寺の本堂の前でしゃがみ込んで遊んでいた二人の幼子が顔を上げた。
すぐにわかった。
小さい頃の僕と、息吹だと。
“おかえりっ、つばき!“
“ただいま。幼稚園は楽しかった?“
“うん!“
椿が本堂の階段に腰掛けると、真似して僕たちも両隣に座る。
そして話始める。今日あった楽しかったこと。面白かったこと。先生に怒られたこと。
幼い僕らの拙い話でも、椿はいつも笑ってくれた。本当に、心の底から嬉しそうにさ。
そのうち、ちっちゃい息吹がお腹がすいたと駄々をこねだした。椿が、仕方ないなあ、コンビニでも行く?と笑う。和寿さんには内緒でね、と唇に人差し指を添えた椿に、僕らは大はしゃぎで参道を駆け下りていく。
僕らの遊び場は桜門寺一択だった。三人で山を下りたのは、この日が最初で最後だった。
大量のお菓子をレジ袋に詰め込んだ椿が、ふとコンビニの白い壁に目を向ける。
文字盤の上で、長針がゆっくりと四十六の上に重なった。
“そろそろ、迎えの時間かな“
ぴょんぴょん飛び跳ねる僕らを追いかけつつ、椿はそっと呟く。
外にでれば、手を伸ばせば届きそうなほど近くに青い海が揺れていた。
“綺麗だなあ、海“
ぶつん。
そこで映像は途切れた。
まるで、誰かが慌てて回線をちぎったみたいだった。
——★
再び視界が開けた時、街は大きく様子を変えていた。
壁のように、高く土が盛られている。その上を縦断するのは、大きなベルトコンベアだ。
「負けるな東北!」そんな文字が、春風にひらめいていた。
震災後、復興への道を走り始めた街の姿が、そこにはあった。
かさ上げ工事が終わった場所に、次々と新しい商業施設が立ち並んでいく。仮設住宅が徐々に減って、人々が戻ってくる。
「うごく七夕まつり」のお囃子が聞こえた。老舗のそば屋さんが場所を移して営業を再開し、たくさんのお客さんが詰めかける姿が見えた。
“この街は、何も終わってないよ“
驚くべきスピードで復興していく街を見下ろしながら、椿が呟く。そうだね!その言葉に振り向けば、あどけなく笑う息吹の姿があった。
季節はいつの間にか、夏に変わっていた。
桜の記憶を締めくくるのは、僕らが十二回繰り返した、夏の思い出だ。
夏休みの宿題を教え合う僕らの後ろで、椿が嬉しそうに微笑んでいる。
スイカ割りをした夏。黒い種が、放物線を描いて宙に飛ぶ。桜門寺の庭で大きな流しそうめんをした夏。竹のぶつかる音。水飛沫に濡れた、君の笑顔。
この時間がずっと続いてほしい。
何度そう願っただろう。
ずっとずっと、君と、彼女と。
しかし時は無情にも流れていく。
僕らがあの日を忘れなくとも、記憶は確実に遠くなっていって。
大人になっていく僕らの背後で、椿の姿は少しずつ薄らいでいった。
“時間だね“
そう語る瞳は少しだけ、寂しそう。
花びらが散る。その命は有限だと強調するように。
セーラー服は春風に溶け、次の季節に流れていく。
さよなら。その言葉は、必要なかった。
またいつか、会える気がするから。
ここに帰って来れば、いつでも。
“二人とも、幸せにね“
その願いが、花開くときには。
★
この髪飾りが見せてくれた景色も、きっと「幻覚」だろう。
永かった夢が終わる。魔法は解けて、僕は現実に帰ってくる。
それでも、不思議ともう失いたくないとは思わなかった。
息吹が縋った過去、僕が捨てようとした過去。それらは全部地続きで「今」に繋がっているって、知ったから。
記憶は風化していくし、いつまでも変わらないままで生きるのは難しい。過去に囚われているうちに、とめどなく流れる時間に置いてかれて僕らはまた死にたくなってしまう。
だから僕は捨てようとしたんだ。
そうしたら、もうこんな悲しくて苦しい思いをしなくてすむと思ったから。
でも、本当はそんなことする必要なんてなかった。
捨てられるわけがない。
もう戻らない過去なのに、それは僕の中で、未来よりも綺麗に輝くから。
捨てられるはずがなかったんだ。
昔日の桜門寺。青い海と高田松原。
あの日の夜の宙。息吹の泣き顔。
三人で繰り返した、十二回の夏。
そしてそれらは間違い無く、僕の生きる「理由」になり得ていた。どんなに現実が苦しくて痛くても、あの愛しい日々が僕を支え、励ましてくれていた。
捨てなくていい。
「過去に縋る」それでいい。
それで、「今この時」を生き抜けるなら。
僕らは変わって良い。
あの夏の記憶を抱えたまま、僕らは大人になって良いんだ。きっとついぞ、消えることはない。震災後、椿と過ごしたあの日々は。
「……ありがとう、椿」
椿はずっと、僕らを生かしてくれていた。
所詮僕が作り出した「幻覚」——それでも。
足元にはぼろぼろになった髪飾りが一つ。
それを手首に巻きつけ、僕は自転車にまたがった。
自然と向いた視線の先には、巨大な防波堤の後ろから大きな朝陽が昇り始めていた。
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