真夏のピアノソナタ

四宮 式

第一章

第1話

 五月病という言葉があるらしい。病気の名前ではなく五月になると新年度に始まった新しい生活習慣や環境によるストレスが溜まり、倦怠感に悩まされているというものである。しかし、わざわざ五月にならずともぼくの倦怠は十分すぎるほどだった。


 入学して少しのころは、さすがに新しい生活の期待感のようなものがあったものだ。しかし、それもすぐに倦怠が支配する凡庸な日常の中に、ぼくは埋もれていった。五月が過ぎ、六月を超えて夏の訪れを感じ、それが過ぎ去って秋冬が訪れてもぼくの倦怠は十分すぎるほど持続していた。そして、高校二年になっても続く。


 自分から話しかけたこともないくせに、友人関係には困らなかった。ただ休み時間に雑に話しかけ、放課後家に帰ってもLINEの通知を容赦なく送ってくる彼らの毎日に辟易しないかと言われると嘘になる。


 それにしても校舎の中でおとなしくしているのがバカバカしくなるほど空が透き通っている。過ごしやすい春から初夏にかけての気温と湿度。桜が終わって徐々に新緑が芽生えて景色はつぎつぎと移り変わっていくのに、ぼくの目の前の風景はずっと同じだった。


「え~、そしてここを因数分解することによってXを導き出すわけですね」


 数学の如月が話している言葉が右から左に通り抜けていく。周囲の人間はそれでも大人しく効いてるから、勝手に頭の中にも入るから困る。興味もない情報もそれだけをひたすら頭に流し込まれたら、さすがに内容も入ってくる。中学の頃から数学だの理科だのはとんと興味がなかったが、授業を聞かされているうちに成績上は得意になってしまった。


「であって、ここが微分されることになります。ここまでで分からないことがある人は手を上げて」


 如月がさらに続ける。この堅物は淡々と授業をすすめることから生徒には不評で、教室の生徒たちもゲンナリとした空気を感じる。質問など来るはずもない。


 SNSなんかを眺めていると、近頃の若者には覇気がないとか、やる気がないとかという話をよく聞く。なんとなくそれが悪いことであることは分かっているが、だからといってやる気がないのだから仕方がない。それに、やる気がないことで不利益を感じていることも今のところない。成績が悪いわけでもなければ、何か友人関係で苦労しているわけでもないのだから。


「ここの定理はセンター試験にも出てくるような問題なのでよく覚えておくように。特にここ数年では頻発していますので特に注意してください」


 如月の言葉が不快なことに耳の中に入ってくる。こうすると人間不思議なもので、少しでも情報が頭の中に残っているものだ。


 いろいろなことを考えていると、チャイムが鳴った。


「それでは、今日はここまでとします。明日までに今日扱った部分は各自で復習しておくように」


 如月が出ていくと、それまで硬直していた教室に一気に動きが戻ってきた。前を向いていたクラスメイトの背中が思い思いに動き出す。個々の動きが、教室の緊張感を一気に取り払う。


「ああ~、終わった~、ようやく解放されるわ~」


 自分の一つ前の席に座っている直人が、こちらを振り向いてそういった。


「いや~、疲れたな~、飯行こうよ、飯」


 首だけ後ろに向けた彼は、不思議と制服と相まって様になっていると思う。


「行くかぁ」


 ぼくがそう返事を返すと、大きな伸びをしたのちに彼が立ち上がった。食堂に向かうと、自然と集まっていく。


 食堂は隣の校舎の一階に設けられている。ぼくらが行ったころには既に三限目の終了後5分程度が経過しており、多くの生徒たちでごった返していた。並ぶだけでもう5分くらいはかかるだろう。


 今日の日替わりメニューを迷わず選択して(安いのだ)自販機で食券を購入して並ぶ。直人は日替わりメニューと一緒に、180円のポテトフライを購入していた。この男は食堂に行くたびにこれを注文しているような気がする。


 高校も二年生にもなると、普段はゲームや流行りの歌の話ばかりしているぼくらも、少しは進路の話をするようになる。


「涼真はどうするんだよ。俺は東京に行くぜ。お前一緒に行こうぜ、東京に」


 直人が話を振った。


「はいはい。今度のオープンキャンパスで決めるからそれまで待ってろって」


 宮城県内でもそこそこの進学校であるこの高校は、もちろん希望進学先の大学名も重要な話題となってくる。だが、それと同じくらい大切な話題が東京に出るかどうかだ。新幹線で2時間揺られればついてしまう東京は、宮城県民にとってとても身近な存在になりつつある。


 早稲田、慶応、中央、上智。名前を聞けばそれだけでうっとりしてしまうような大学がいくつもある。それになんといっても、世界中の最先端が常に入ってくる大都市へのあこがれを、ぼくら学生は捨てきれることができない。


「お前の第一志望は東京なんだっけ」


 ぼくがそう返すと、直人は


「うん。第一志望から第三志望まで東京」


 と返してきた。どうやら宮城にいる気は全くないらしい。


「まあお前だったら受かるだろうよ」


 直人はオタクでアニメばかり観ている癖に勉強はできるタイプで、成績は常に上位10位あたりをうろついている。一方のぼくは半分から少々上がいいところだった。国語や歴史は自信があるのだが、数学と英語が足を引っ張っているのだ。


「いやいや、最近はAO入試もあるし、ウチの高校は東京の指定校も持ってるんだぜ。いけるいける」


 適当なことを言い続ける直人をいなして教室の窓を見やった。周囲にマンションのない少し開けた仙台平野の住宅地にあるぼくらの高校の窓からは、晴れた日には奥羽山脈が良く見える。その中でもひときわ目立っているのが蔵王山だ。教室の窓を少しだけ開けると、ひんやりとした風が吹き込んでくる。新学期も始まって二週間は経つが、東北の春は遅いのだ。


「東京ねぇ」


 やけに明るく、楽しそうな直人の声を思い出した。まるで東京という言葉そのものを発することを楽しみにしているかのようだった。ぼくは、同級生が東京に行く話題で盛り上がることが今一つ理解できなかった。流行にも興味が無ければ、これといって熱中していることもない。わざわざ人が多い東京に行く理由も見当たらなかったから、志望校も全て仙台の大学にした。勉強がそこそこできれば入れるそこそこの私立大学だ。


「まあ、俺はいいかな」


 正直な気持ちだった。時間と手間と労力をかけて、わざわざ東京に行く理由もない。東京には流行の最先端があるかもしれないが、あの人混みの中で毎日を過ごすぐらいだったら少しのんびりした場所で暮らしていた方がいいと思う。


「お前は欲がないな~!なんかもっとこう、ねえのかよぉ」


 直人はぼくとは対照的に、欲がある人間だった。好きなアニメも成績も、進学校も全て欲しいと思っていたしそれを公言し手に入れる力を持っていた。でも、ぼくがそれをする理由も特に思いつかなかった。


「だってよぉ、今度やる声優のライブだって仙台来ないんだぜ?南から博多、大坂、名古屋、東京とやってきて、次が札幌。ライブ見に行くために東京行かなきゃいけねえんだから、そりゃ東京住むしかねえだろ!」


「ぼくは別に声優のライブ行かないよ」


 素直にそう答えておいた。


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