モリオン隔離施設
千葉 蒼依
序章
朝が来る。こんな辺境でも時間は巡り、一日が過ぎ、一週間が過ぎ、一年が過ぎる。わたし達は歳を取って、わたし達はこんな閉塞的な空間で時を重ねて、こんなところで死んでいく。
朝が来る。わたしは腰痛促進ベッドから起き上がって、背伸びをした。腰痛促進ベッドという名前はわたしが命名したものだ。誰にも聞かれていないだろうと思っていた言葉が兄さんによって拾われて、それが皆に広まって、何故か正式名称になってしまった。それほど固くて、全員嫌気がさしていたベッドは今日も石色を携えている。
静かに立ち上がって、用意を整える。洗面台もお手洗いも完備されている個室は、朝が弱い人も間抜けな顔のまま朝の準備ができる点で素晴らしいと思う。わたしはそこまで朝に弱くないが、ラッキーなんかは朝に弱いために、このシステムを称賛していた。こちらからすると腰痛促進ベッドで二度寝をするまでにぐっすり眠れるラッキーの気がしれないのだが……。
特に意味もなく伸ばしている茶髪をポニーテールにして、適当に髪ゴムで留める。伸ばしているのは、わたしの身体の性が女性だから、というのが主な理由ではあるが、わたしの中身は違うので、本当に気分というか、意味はない。
殺風景な部屋から外に出ると、黒色の瞳がわたしを貫いた。その瞳の主は驚いたように目を揺らがせて、一歩後ずさる。よく見ると手は行き場を失ったように胸元辺りに浮いていて、おおかたわたしの部屋をノックしようとしたのだろうと推察した。いつも部屋が隣だからとわたしのことを(めちゃくちゃに煽りながら)起こしに来るが、今回に関してはわたしの方が一枚上手だったようだ。わたしが何も言わずにドアノブに手をかけたままの状態で静止していると、その人は困ったように笑って、行き場のなくなった手をそのままわたしに振った。
「おはよ、イッちゃん。よく起きたな、偉い偉い」
「……わたし達、同じ十七歳でしょ、兄さん」
むす、としてそう言うと、兄さんは快活に笑った。
「そうだけど……。ちびっ子達が軒並み居なくなったの、まだ慣れないんだよなあ。イッちゃんだって口数減ったろ?」
「元から少ない」
「言えてる。朝食そろそろだから起こしに来た。今日はパンらしいぞ」
それだけ伝えて背中を向けた兄さんは、食堂へと歩いて行った。ぐ、ともう一度背伸びをした後、その後をゆったりと追って、わたしも歩きだした。
わたしの部屋は一号室。なので、個室の中では十号室と並んで一番食堂から遠い。その代わり、談話室と化すことの方が多い食堂の喧騒から守られるメリットがある。五号室と六号室の合間に食堂があるので、逆に言えばその二室の住人はうるさくて仕方ないだろう、と思う。食堂の近さと喧噪の違いをどう受け取るかは完全に個人差としか言えないが、少なくともわたしは食堂が遠いために不便極まりないな、と思っている。
一度、この件について十号室の住人のトウと話したことがある。トウは根っからの研究者気質で、徹夜で部屋にこもって何らかの研究をしていることが多い。そのため、あまり顔を合わせないのだが、そんなトウだからこそ、
「ああ、ああ、最高だよねこの立地。部屋振り分けを誰が考えたかは分からないが、本当に利便性が高いし私との親和性も高い。食堂に行かなくても兄さんが食事を運んできてくれるし、うん、研究に最適解といえるだろうね」
と言っていた。トウは、話が長い。
そんなことを思っていると、無人の五号室を通りすぎて、食堂へつながる階段についた。兄さんはわたしより身長が高いため歩幅が全く違い、すでに四段目へ差し掛かっている。普通の階段ではなく、一段一段が幅広いタイプの階段であるため、四段目というとかなり距離が離れている。わたしが一段目に足をかけると、
「あらイッちゃん。おはよう」
と背後から声がかかった。見ると、六号室の扉が開いている。
「……おはよう、シイ」
太もものあたりまで伸ばされた、黒色の髪が靡く。毛先のエメラルドグリーン色は染めたのだといっていた。それと対照的に天然だと言っていたカールは今日も健在で、こちらに微笑むと同時に扉を閉めた。
「わたくしはこれからラッキーを起こしにいくところなの。けれど、その、寝坊してしまって……。イッちゃんも、一緒に起こしたりとか、してみるかしら?」
そう言って七号室を見るシイは、どこか面倒だというように遠い目をしていた。ラッキーは信じられないくらいに朝に弱い。それは恐らく、ラッキーがロングスリーパーで、更に読書をたしなんでいるからだ。読書量で言えば目の前のシイが圧倒的一位なのだが、ラッキーは一度読み始めたら止まらないタイプである。この前シイと共に図書館で恋愛小説選びをしていたから、それを読んでいたのだろう。
寝かせてあげたい気持ちもやまやまだが、朝食は出来れば全員出なければならないルールがある。トウだけは例外で、職員さんを唸らせる話術で兄さんからの健康状態のチェックと、トウ自身が出す状態管理シートの記入を条件に朝食は出なくて良し、となっている。それは恐らく、トウが今研究していることが国にとっても有益だからだろう。どうしても避けられず、多くの人が畏怖する問題の解決策をトウは練っているらしいが、実際のところ、何なのだろう。
シイからの誘いを、
「頑張って」
と短く断って、階段を上り始める。シイは「もうっ」と笑って、七号室に行った。
食堂に付くと、そこには兄さんと、四号室のデス・デス男が居た。さすが最年長というところか、デス男は朝に強い。メイクにあまり興味がないわたし達の中で、デス男だけはフルメイクで洋服も乱れがなく、金髪をツインテールにしている。ちなみにデス男は常にロリータファッションを着ていて、今日はピンクを基調として白のフリルがこれでもかというくらいにあしらわれているものだ。ワンポイントとなっているさくらんぼの……あれは何て言うんだろう。スカートについているさくらんぼが、可愛い。兄さんは服を選ぶのが面倒だからと常にスーツでいることもあって、可愛さが際立っている。兄さんのスーツも似合っている手大変かっこいいのだが、本人に言うと調子に乗るため、言ったことはない。
「あっらおはようイッちゃん。会いたかったわ」
見た目からは想像できない低音ボイスで、デス男はわたしに手を降る。さすがに声帯までは女の子になれないらしい。というか、デス男の場合性自認も体つきも男性なのもあって、全てが見た目からは想像できない。肩幅が広く、身長もガタイもわたし達の中でトップであるため、最初は怖がられがちだが、普通にいい人だ。
「おはよう。昨日も会ったよね」
「その会話、昨日もしたろ。毎回恒例にするつもりかー?」
兄さんがあきれ顔でこちらを見てくる。この食堂は十人が座れるようになっていて、アレルギーと好き嫌いの関係から席が固定されている。入ってすぐ、今わたしが居るところが、左から六号室から十号室の人が座る席。そして今兄さんとデス男が座るわたしの向かい側は、こちらから見て左から一号室の人、つまりわたしが座る席。そこから右へ、二号室から五号室。勝手に前半組・後半組と言っているのだが、前半組はわたしが席に付けば全員そろったことになる。三号室と五号室は、今は空席だ。
兄さんの隣に座り、デス男の方を見る。そうすると自動的に、デス男と兄さんが視界に入る。デス男もこちらを向いて座っていて、わたしとデス男が同時に揃ったとき、兄さんはいつも大変そうだなあ、なんて他人事のように思う。兄さんは少し椅子を引いて、わたし達の顔を俯瞰できるようにした。空いたスペースで足を組んで、ついでにと言わんばかりに腕も組んでいる。
「シイとラッキーは?」
兄さんがどちらに尋ねるでもなく聞いてきた。わたしが口を開く前に、デス男が声を上げる。
「アタシは一番乗りだったから、知らないわね。イッちゃんは知ってる?」
そう言ってわたしの方を見るデス男。恐らく、あまり喋ることがないわたしを気遣ってくれているのだろう。兄さんは同期で、気の知れている……と、わたしは勝手に思っているが、そんな兄さん相手にも喋れなくなることがあるくらいわたしは口下手だ。その分、内心では色々と思っていて、それがポン、と口に出るときもあるのだけれど。わたしが特に何とも思っていなかった発言や、言おうとも思っていなかった発言が知らず知らずのうちにウケるのはむずがゆいものがある。腰痛促進ベッドがいい例だ。
「さっき、シイに会ったよ。ラッキーを起こしてくるって。そろそろ来ると思うけど……」
「あら、今日はシイちゃんもお寝坊さんだったのかしら。いつもはもう少し早めに起こしてくれてるわよね?」
「そうだな。普段なら僕の到着と同じくらいにシイが来て、イッちゃんの後にラッキーが来るから……」
「あっ。もしかしてアレかしら。シイちゃん、昨日嬉しそうにわけわかんない言語の本抱えてたのよね。シイちゃんに聞いたら、スワヒリ語ですって」
「シイ、スワヒリ語好きだよなぁ。アイツの名前も確かスワヒリ語だろ。スワヒリ語で、六」
「そういえばそうね」
そんな他愛もない会話をしていると、鍵のかかった頑丈な扉から職員さんが出てくる。今日は佐藤さんだ。シイが看守服みたいね、と言っていた服に身を包んだ、職員さんの中では比較的……いや、すごく優しい職員さん。ちなみに一番厳しい人は東堂さんで、機嫌を損ねると普通に三食抜かれるため兄さんとシイが上手いことご機嫌取りをしている。人格否定から入るため、嫌いな職員さんだ。
「おはよう、皆。……あれ、シイさんとラッキーくんは?」
優しげな垂れ目が辺りを見回す。その目はどこかこことは不釣り合いのように感じてしまって、佐藤さんを見るたびに別の職につく佐藤さんを想像してしまうのだ。例えば、そう、農夫。佐藤さんは服に隠されているが意外と筋肉質なので、畑もすぐ耕せるだろう。わたしが本を読むのは、この、名付けて「佐藤さん妄想」のためでもある。今名付けたからもう忘れてしまうだろうし、二度と使われることもないとは思うけれど、色々な職の中から、佐藤さんに合う職業を見つけるのは案外楽しい。
「おはようございます、佐藤さん。シイとラッキーはそろそろ来ると思います」
「ん、了解。俺はいいけど、東堂さんだったら許してないぞ、多分。注意しとけー」
「はいはいっ、佐藤ちゃんは融通が利いて助かっちゃう」
兄さんとデス男が佐藤さんと話をしている間に、個室の方角から音がすることに気づいた。バタバタとしているがどこか静かで、話し声も聞こえてくるものの、その声はヒソヒソ話をするときのようなトーンだ。恐らく、話をしている兄さんやデス男、佐藤さんには聞こえていない。その音の主たちが、明らかに焦りながらこちらへやってきた。もちろん、シイとラッキーだ。ラッキーは元々ふわふわしている薄い茶色の髪を、寝ぐせだろうか、さらにふわふわとさせている。こんな時になんだが、触ってみたい。
「ご、ごめんなさい。今日のラッキー、頑固で……全く、起きてくれなかったの……」
シイがそう言うと、ラッキーは首を振った。
「シイが謝る必要なんてない! むしろ、こちらが申し訳ないくらいだよ……。ボクの寝起きが悪いばっかりに、いつも迷惑をかけて、ごめん……」
「それは構わないわ。わたくしが請け負ったことですもの。けれど、あの小説、そんなに面白かったの?」
「う、うん。熱中して読んじゃった。あの、ラストのシーンが……」
「あら、もうそんな読んだの?」
話に夢中になりながらこちらへ歩いてくる二人に、佐藤さんが頭を抱える。兄さんも似た顔をしていたけれど、デス男は面白がっていた。ついでに小説を紹介してもらおうと言わんばかりの顔だ。
「……えーと」
「シイ、ラッキー。とりあえず、席につけ。お前ら隣同士なんだから、食べながらでも会話はできるだろ?」
佐藤さんが何か言う前に、兄さんが手を叩いて二人をこちらへ誘導する。それを聞いた二人が、こちらへやってくる。シイは申し訳なさそうにしていたが、ラッキーは恥ずかしいとでも言わんばかりに、必要ないくらいに頬を染めていた。
「それもそうね、ごめんなさい」
「ご、ごめんね。兄さん」
二人が席に着いた後、分かればよろしいと兄さんは優しい微笑みを浮かべていた。
「はあ……さすが兄さんだな。俺はたまに、お前の統率力がうらやましくなる」
佐藤さんがそう言って笑う。そそくさと扉の中へ行っては、ワゴンを手にやってくる。今日は、兄さんが言っていた通りパンだ。献立は一か月ごとに張り出されるらしいので見に行こうと思えば見に行けるのだが、わたしは面倒でいっていない。今では恐らく、見ているのは兄さんくらいだろう。多分、トウの好き嫌いチェックのためだ。トウは重度のグリンピース嫌いなので、グリンピースが入っている時は、兄さんがこっそり抜いてやっている。グリンピースが入っていた皿には、手すらつけようとしない、そんな人だ、トウは。
「お前ら健康か? 健康だな? はいじゃあ手を合わせていただきます。あ、兄さんは後でこれの記入頼むな」
そう言ってワゴンの上にあったお盆の上に置かれたのは、トウの健康記録のための紙だろう。隣にわたし達と同じ食事がラップをかけて安置されている。あいあい、と適当に返事した兄さんは、いただきます、とパンを食べた。
ここに居る皆、普通の人たちだ。もちろん、社会は普通の人だけでは成り立たないので、普通じゃない人も居るが、それでも社会を形成して、皆で笑って過ごしている。ただ、社会の形を形成する場所が、ここだっただけで。
モリオン隔離施設。「パープル」と呼ばれる者たちが収容される施設の中で、最も小さく、最も設備が整っている場所。特に図書館などはすさまじく、シイなんかは図書館のためにここに来たとまで言っていた。この世界は、優しい。けれど、この国は、ある人に厳しい。それが、パープル。
この国――、バリッサは、パープルが居ない国として知られている。なぜなら、パープルを出生時に排除し、隔離施設に閉じ込めれる仕組みを確立させているからだ。「チェッカー」と呼ばれる、培養液的なものに赤ちゃんを漬けたら、あらびっくり色が変わる。心の性別、生まれ持った性自認が男性なら「ブルー」、女性なら「レッド」に変わり、どちらでもなければ「パープル」に変わる。世間的にパープルが問題視されて、様々な法案が作られている中で、うちの国はそれに時間を割かない分多くのことに時間を割けている。そのおかげか、出生率と子育て支援は世界的に見てもトップだ。
「はぁ。あの図書館が取り壊されるなんて、信じられないわ。あれはわたくしの夢だったのに……」
「いいじゃないの、アタシ達のタイムリミットまではとりあえず使わせてもらえるんでしょ? それだけで万々歳だわ」
「十八なあ……。そういや、デス男はもう今年か」
「そうなのよっ。困ったわねぇ……」
そして、このモリオン隔離施設は取り壊しの予定が入っている。なんでも、この近辺の森が切り倒されて資源になってしまうそうで、ひっそりと建てられたこのモリオン隔離施設が晒されてしまうのを防ぐための措置だそうだ。なので、元々三号室に居た五歳のみぃは、別の隔離施設へ移り、現在はここを離れるタイムリミットである十八歳の三年前、つまり十五歳までのパープルたちが生活していることになる。ちなみにわたしは十七歳なので、あと一年でタイムリミットだ。
「デ、デス男さんはどんな小説がお好きですかっ? ボクで良ければ、紹介しますよ。恋愛小説なら任せてください!」
「あら、わたくしを差し置いて本の話?」
タイムリミットが訪れた後は、どうなるか分からないけれど。シイが出した推察があたっていれば、きっとそう明るくはない未来なのだろうけれど。
わたし達は、何も変わらない今を、生きている。
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