第17話 双子の追憶――初めての夜遊び


 着替えを終えた三人は、一軒のパブの前にいた。


 パブには二つの入り口がある。一つは中産階級用のラウンジ・バーへと続く入り口。もう一つは、労働者階級用のパブリック・バーへ続く入り口だ。


 当然、エドワードとブライアンはそのどちらにも入ったことがない。貴族はパブになど行ったりしないからだ。行くとしたら会員制のクラブだろう。


「ここに……入るのか?」

「しかも庶民の方に?」


 二人はアメリアを見やる。


 彼女はシンプルな黒いドレスとつばの広いボンネットを被っていた。その服装は貴族でも中産階級のものでもない。典型的な労働者階級の服装である。

 当然、エドワードとブライアンが袖を通しているスーツもペラペラの安物だ。

 二人は不満たらたらだが、けれどアメリアは気にも留めない様子である。


「中に入ったらわたしのことはローザと呼ぶこと。先月からわたしの屋敷――サウスウェル家に雇われたパーラー・メイドという設定よ」

「なんだそりゃ」

「ちなみに俺たちは……?」

「……そうね。あなたたちはサウスウェル家に仕える従僕フットマンということにしましょう」

「はぁ⁉ 俺たちが従僕フットマン⁉」

「さすがにそれは……せめて従者ヴァレットとかさぁ⁉」

「あら、従者ヴァレットにしては若すぎるし、外見重視の従僕フットマンが適当だと思うわよ。あなたたち、見目みめは悪くないじゃない」

「……それは褒められていると受け取っていいのかな」

「まぁ、確かに……君がメイドなら従僕フットマンが順当か……」

「理解してくれて助かるわ。じゃあさっそく入りましょ。――あ、でもその前に一つだけ。二人とも、中ではそんなお綺麗な喋り方しちゃだめよ。そんなんじゃ貴族様だってこと、一瞬でバレちゃうんだから」


 そう言った彼女の言葉と発音は確かに庶民そのもので、二人は疑問を通り越してただただ驚くほかなかった。



「いらっしゃいませー!」


 三人が店に入ると、ハツラツとした女性店員の声が響く。

 テーブル席に料理を運んでいるウェイトレスが彼らを笑顔で出迎える。


 内装は簡素なものであった。木製の床に、板を組み合わせて作られたテーブル、クッションのない腰かけ。壁に絵画や装飾もない。


 店内の広さにおいても、中産階級用とスペースを分け合っているだけあって、お世辞にも広いとは言えない。四人掛けのテーブル席が三つに、立ち飲み用の高いテーブルが五つ。あとはカウンター席が八席あるだけだ。


 けれど清潔感は保たれており、エドワードとブライアンはひとまず胸を撫でおろした。


 テーブル席は全て埋まっている。立ち飲み席も、酒をくみ交わす男女で溢れていた。


 これからどうするのだろうと二人がアメリアの様子をうかがえば、彼女はカウンター席の右から三つ目に座ろうとしている。それを見た二人は、その右隣の残り二席に座ればいいのだろうと判断し、アメリアの右側に並んで座った。

 するとその間に、アメリアはいつの間にかバーマンを呼びつけていた。


「ご注文はお決まりですか?」

「エールを三つお願い」

「かしこまりました」


 少しすると、アメリアに三杯のジョッキが差し出される。彼女はその場で三杯分を支払い、ジョッキを受け取った。


「はい、どうぞ」


 アメリアがニヤリと微笑んで二人にジョッキを手渡す。


「エールよ。飲んだことぐらいあるわよね?」


 その言葉に、二人は黙って顔を見合わせた。――飲んだことなどあるはずがない。


 エールというのはつまりビールのことだ。しかしビールは庶民の飲み物であるとされている。そのため貴族である二人が口にする機会はなかった。見たことすら初めてなのだ。


 ――この泡の乗った黄色い飲み物、本当に飲めるのか? 腹とか壊さないかな……。


 エドワードがブライアンを見やれば、彼も同じことを思っているのかジョッキをじっと見つめていた。


 けれどずっとそうしているわけにもいかない。二人は意を決す。――と同時に取られる、アメリアの音頭。


「今日もお疲れ様! かんぱーい‼」

「か、かんぱーい」

「お、お疲れー」


 ――今の棒読みだったな、と反省しながら、エドワードはアメリアより一拍遅れてエールを喉へと注ぎ込む。


 同時に口の中に広がるのは、ほのかな苦味と深い香り。ワインとは決して比べられないが、フルーティーさも兼ね備えている。そして何よりアルコールをほとんど感じない。これならいくらでも飲めそうだ。


「――ッ、これ……」

「結構、いけるな」

「ふふっ、そうでしょ? たまに飲みたくなるのよね」

「たまにって……アメ……ローザ、君本当に俺たちより年下?」

「酒を飲むのはまだ早くないか?」

「あら、二人が十五のときはどうだったのよ?」

「俺たち……?」


 アメリアの言葉に、三、四年前のことを思い出してみる。


「まぁ、飲んでた、な」

「ああ、兄さんの部屋からこっそり拝借して、でも空きビンが見つかって叱られたりしたな」

「あぁー、あれは確か、客に出すはずのものだったんだっけ」

「そうそう」


 二人は昔話に花を咲かせる。


 エールは初めての彼らであるが、酒自体は寄宿学校パブリックスクールに入った頃からたしなんでいた。と言っても、当時の彼らにワインの味の違いなどわかるはずもなかったが――。


 そうやってしばらく談笑していると、バーマンに酒を注文しに来たのだろう。アメリアの横に一人の男が現れた。


 ハンチングを被り口髭を生やした四十歳しじゅう頃のその男は――連れの分だろう――エールを四杯注文する。そして何気なくアメリアの方に視線を向けたと思ったら――アメリアの容姿に目を引かれたのだろうか――大きく目を見開いた。


「見ない顔だな? 姉ちゃん、ここは初めてか?」


 男は至って自然な態度でアメリアに問いかける。

 するとアメリアはまるでそれを待っていたかのように、ニコリと微笑んだ。


「ええ。先月から近くのお屋敷で働いてるの」

「へぇ。ならそっちの二人は仕事仲間か」

「そうよ。わたしはローザ。こっちの二人はエドワードとブライアンよ。あなたは?」

「俺はジョンだ。――にしても姉ちゃんえらく垢抜けてるな。お屋敷勤めって奴は少なくねェが、姉ちゃんみたいなのそうそう見ねェぞ」


 口髭男――もといジョンは、どこか値踏みするようにアメリアを見つめ、そして今度はエドワードとブライアンにまで観察するような目を向ける。


「よく見りゃそっちの兄ちゃんらも男前だな。――貴族って言われた方がしっくりくるぜ」

「――っ」


 ジョンの言葉に、エドワードとブライアンはぎょっとして顔を強張らせた。

 けれどアメリアは、むしろそれを肯定するかのように――テーブルに頬杖をつき、二人をからかうように横目で流し見て――ふふっと笑い声を上げる。


「実はわたし、パーラー・メイドなの。容姿には自信があるわ。それにこの二人は最高ランクの従僕ファースト・フットマンなのよ。旦那様のお気に入りで、従者ヴァレットの代わりをさせられることもあるんだから」

「へぇ、そりゃすげェな! 若いのに結構なことじゃねェか!」

「でしょう? でもこの二人、仕事はできるのにプライベートはすごーくシャイなのよ。わたしがこの街のことを教えてって言っても、全然誘ってくれないの。失礼しちゃうと思わない?」


 アメリアがこう言えば、エドワードとブライアンは硬直する。

 ――いったい何を言い出すんだ。と、そんな感情が透けて見えるようだ。


 するとそんな二人の様子が可笑しかったのか、ジョンは笑い声を上げた。


「はっはっは! 酒と女は紳士の嗜みだぜ、兄ちゃん! どうだ、俺が指南してやろうか!」

「――えっ、――はっ?」

「いや、俺たちは……」

「遠慮するな! 昔は俺もちったあモテたんだ!」


 ジョンは「ほら立て! あっちで飲むぞ! 姉ちゃんもな!」と言って、エドワードとブライアンの背中を遠慮なくバシバシと叩く。


「い――痛っ、痛いって!」

「いきなり失礼だぞ!」

「おっ、なんだぁ。ちゃんと声出るじゃねェか! 男はそうじゃねェとな!」

「なっ……」

「ロ……ローザ! この人、話通じない……!」


 二人はアメリアに助けを求めるが、アメリアはニコリと微笑むばかり。

 結局二人は抵抗むなしく、ジョンの仲間の待つテーブルへと引っ張られていった。



 ――それからは早かった。


 ジョンの図々しくも気さくな態度のおかげと言うべきか、あるいはもともとの性格か、エドワードとブライアンはあっという間に酒場になじんだ。初対面――しかも階級の異なるジョンやその仲間らと、時間も忘れて語り合った。

 見栄も忖度もないありのままの自分の姿をさらけ出せるその場所は、二人にとってとても気楽な、居心地の良い場所だった。


 そして同時に、二人は強い衝撃を覚えた。

 仕事、政治、家族、趣味――庶民の彼らが何気なしに語るその内容は、当然貴族の認識とは全てが異なっていた。

 二人はそのことを、今まで一度だって気に留めたことがなかった。良いも悪いもない、そういうものだと理解していたが、彼らの話を聞いて初めて疑問を持った。


 ――特権階級と労働階級――決して相入れないと思っていた、何か別の生き物のように感じていた彼らが、こうやって言葉を交わしてみれば自分たちと何ら変わりない存在だと気付かされる。


 ――それは二人の常識が覆った瞬間だった。


 今までの退屈な日常がいかに恵まれていたのかを思い知った。自らの無知を恥ずかしく思った。

 彼らの生活をもっと知りたいと思った。もっと言葉を交わしたいと願った。


 けれど、別れの時は訪れる。


「また来いよな!」

「俺たちこの時間にはいつもここにいるからな!」

「ファースト・フットマン殿! 今度可愛い子紹介しろよ~!」


 出会ったばかりの自分たちを、笑って送り出してくれる人がいる。――二人にとって、それは特別な経験だった。

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