第8話 新たなる計画


 日の入りまではまだ十分時間がある。

 けれどここ連日は雨ばかりが続いていて、空はどんよりと曇っているため薄暗い。それはまるで、私の憂鬱な心を写し出しているかのよう――。


 だが私の心の内など知りもしないハンナは、私の髪を結い終えると鏡の向こうで誇らしげに微笑んだ。


「ほら、終わりましたわ! 本当にお美しい……!」


 その声に鏡をじっと見つめれば、確かにそこには文句のつけようもない美しい少女の姿が映っている。


 深紅のドレスに身を包み、首には大粒のルビーがはめ込まれたチョーカー。耳飾りはそれとお揃いで、しずく型にカットされたルビーが照明の灯りを反射しキラキラと輝いている。


 そんな鏡の中の私に、ハンナはただただ頬を緩ませた。


「ああ! お嬢様が夜会に出席なさるなんて何ヶ月ぶりでしょう! ファルマス伯爵も、お嬢様のお美しさに心打たれること間違いなしです!」


 確かにハンナの言うとおり、夜会に出席するのは本当に久しぶりだ。なぜなら私は今日までずっと、ウィリアムと接点を持つまいと屋敷に引きこもっていたのだから。


 けれど状況は変わってしまった。このまま引きこもっていたらお互いの両親にあっという間に結婚させられてしまうだろう。それだけはどうあっても避けなければならない。


 だから私は夜会に出席することを決めた。ウィリアムが出席するであろうこの夜会に。


「ハンナ……言ったはずよ。彼と結婚するつもりはないと」

「ええ、ええ、わかっています。けれど、けれど……! ファルマス伯爵はお茶会でのお嬢様の態度を見ても縁談を取り下げなかった強者ですよ! あの方はきっとお嬢様の心根のお優しさを見抜かれたのですわ! それなのにお嬢様ときたらこの期に及んでまだあの方のお心を弄ぶつもりだなんて、なんと罪深いことでしょう!」


 ハンナは軽やかなステップで部屋の中をくるくると回り、舞台女優のようにその身体を両手で抱きしめ、切なげに涙を流す振りをしてみせる。


 そんな彼女を見ているとどうも毒気が抜かれてしまうが、ここで反応したら負け。私は椅子に腰かけたまま無言を貫く。


 すると彼女は今度こそ残念そうな顔をしたが、すぐさま身をひるがえしてツカツカと歩み寄ってきた。


「お嬢様! 私は――いいえ、使用人一同は、お嬢様の幸せを心から願っております! ファルマス伯爵なら、きっとお嬢様を幸せにしてくださいます!」

「ハンナ……」


 彼女の表情は真剣そのもの。きっと心からの言葉なのだろう。それがどれほどありがたいことなのか、私はよく理解している。


 けれどやっぱり駄目なのだ。いくら彼女が、そして周りが願ってくれようと、私と彼が一緒になることは許されない。

 本音ではその想いに応えてあげたいと思っても、彼と共に生きることができたらどれほど幸せだろうかと思っても……それでも無理なことは無理なのだ。けれど彼女にそんな事情を話すわけにもいかず……。


 だから私は、せめて彼女の気持ちだけは受け止めようと、彼女に向かって微笑みかける。


「ありがとう、ハンナ。あなたがそう言ってくれて、私はとても嬉しいわ」


 そう、この言葉だけは私の本音。

 私はハンナの両手を取り、ゆっくりと瞼を閉じた。そして再び覚悟を決める。


 今度こそ上手くやってみせる、と。

 決して誰にも気付かれずに、全てを完璧に――彼との縁談を壊してみせる。


「行ってくるわね」


 私は微笑んだ。――できるだけ、穏やかに。


 今日の私は氷の女王ではない。今夜の私は、誰から見ても完璧な淑女でなければならない。可能な限り穏便に、ウィリアムに恥をかかせることなく縁談を断る……そのために。


 部屋を出た私は、しとやかな動作で階段を下った。そこに続く玄関ホールには、既に夜会へ向かう準備を整えた両親の姿があった。


「お父様、お母様」

「――⁉」


 私の声に、二人はいぶかしげに眉をひそめる。


「お前……いったいどうしたんだ。その恰好……まさか夜会に出るつもりか?」

「ええ、そのつもりよ」


 私が答えると、二人は「信じられない」と言いたげに顔を見合わせる。


 私はそんな両親の態度に気付かないふりをして、ドレスの裾を左右に揺らしてみせた。


「お母様、このドレス少し派手じゃないかしら。あまり目立ちすぎるのも良くないわよね。こんなことならウィリアム様の好みをもっとよく聞いておけばよかった」

「……アメリア、あなた熱でもあるんじゃない?」


 母は私の豹変っぷりに声を震わせる。

 だがそれも無理からぬこと。だって朝食のときはいつもどおり愛想の一つもない娘だったのだから。


 それに私は今、ウィリアムのことをあえてファーストネームで呼んだのだ。親しい間柄でなければ、ファルマス伯爵――と敬称で呼ばねばならないことを知りながら。


「ハンナに説得されたの。私、この前のお茶会でウィリアム様に失礼なことをしてしまって。それでもあの方は許してくださって……。そしたらハンナが、そんなに素晴らしい方は他にいないって。そう言われて、本当にそうかもしれないって。……だから、私――」


 私は一呼吸おいて、二人の顔を見据える。


「今夜ウィリアム様にお会いしたら、お伝えしようと思うの。縁談のお話、お受けしますって。……いい、かしら?」


 もちろんこれは嘘である。本当はウィリアムに会ったら縁談の話を取り下げてほしいとお願いするつもりだ。何せ格下のこちらからは断れないのだから。


 だがそんな私の考えなど知る由もない二人は、再び顔を見合わせる。――願ったり叶ったりだ、と。


「いいだろう。今夜はウィンチェスター侯もお見えになる。そこで直接、縁談の申し出を拝受はいじゅするむねをお伝えすればいい。――マリアンヌ、お前もそのつもりでいるように」

「え、ええ……あなた」


 父の瞳がぎらりと光る。

 私はその奥に宿る野心を確かに感じ取り、無邪気に微笑んでみせた。

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