正当な金網

 細い細い絹糸のような金網の向こうから、だらだら歩く来園客たちが呑気に僕を眺めている。僕は客のいる通路に背を向けて、亀になる呪文を自分にかける。手足も頭も引っ込めて、甲羅で柔らかい肉を守る。


 二人連れの客が立ち止まり、僕の檻に表示された分類名を読み上げる。幾つもの聞きたくない名前と的外れな説明が甲羅の骨を振動させ、内臓を不安に共鳴させる。


「ねぇねぇ、あたしも見てって!」


 明るいオレンジ色の声がして、客が僕の部屋の前から離れた。通路の向かい側の檻にいる子が愛想良く客と談笑し、僕は束の間視線から解放された。


 客足が途切れた生暖かい夕暮れ時、のそのそと水を飲みに出た僕と向かいのあの子の目が合った。昼間とは違う湿った笑顔であの子は小さく手を振った。僕は運動不足で強張った指をぎこちなく振り返した。





「パパ、珍獣がうんこしてる!」


 お下げ髪の幼い子供が叫ぶ。


 向かいのあの子は壁もないむき出しの便器の上で「珍獣だってうんこするんだよー」と笑って手を振る。


 あの子は隠さない。


 あの子は甲羅を持っていない。


 持ちたいとも思わないのか、欲しくても手に入らないのか、持っていたけれど捨てたのか、僕は知らない。


 どうしてあんなに無防備に生きられるのか僕にはわからない。


 僕は隠せるものなら何だって隠す。


 できるだけ通路から死角になる隅でじっとして、本は背表紙を奥にして、食事もトイレも閉園時間まで我慢する。


 飼育員に小言を言われようとも、魂を娯楽として食いちぎられるよりはましだ。


 不意に陽気な音楽が聞こえた。背中を丸めたまま肩越しに窺うと、向かいのあの子が見せつけるように服を着替え、音楽プレイヤーの前で踊り始めた。


「俺たちと変わらないな」


 子供を抱き上げて父親が言う。


「これじゃどっちが檻の中かわからないぞ」


 彼の口から漏れた自然で他愛ない冗談。それが冗談だと、彼の声が届く範囲の全員が知っている。そういう無邪気な残酷さが、檻の外側にいる分類名のない人々には許されている。





 白く霞む真夏の昼下がり。暑さのあまり僕らの展示エリアには一人も客が来ない。


 向かいのあの子は客には見せない真剣な顔で、触れれば薄く指が切れる細い針金を一本一本熱心に千切り、風に揺らぐ金網の裂け目からそっと檻を抜け出した。


 僕の視線に気付いたあの子は僕の檻の前まで来て言った。


「あたし、外の人たちと暮らしてみる。だってなんにも違わないのに、あたしたちだけ檻の中なんておかしいよ。上手くいったらきっとみんなのこと迎えに来るからね」


 あの子の瞳は夏の太陽も押し返すほどの光に満ち、顎から滴り落ちる汗さえ喜びに弾んでいた。


「どうか、元気で」


 声を絞り出した僕に真っ赤な手を振って、あの子は門へ向かって走り去った。





 スピーカーを震わす解像度の低い声が、来園者の避難を促す。脱走、危険、という言葉が、壁に反響して念を押す。


 遠い喧騒が次第に近付いて、長い棒を持った飼育員たちに追い立てられるあの子の姿になる。


 どうして、何がいけないのとあの子が叫ぶ。


 普通に、当たり前に生きたいだけなのに、と。


 何が不満だと飼育員は言う。


 安全な園に保護してやって、衣食住も保証してやって、望みもなるべく叶えてやっているじゃないか。


 お前たちの生態を展示するのは、お前たちのことをみんなに理解してもらうために必要なこと。


 隔離するのは双方が安心して生活するための正当な住み分け。


 そのための金網。


 飼育員たちは棒を構え、丸腰のあの子から距離を取って取り囲んでいる。


 彼らは彼ら自身も正体を知らない怯えに搦め捕られている。


 あの子の声は届かない。


 泣きそうな顔で自分の身体を抱き締めるあの子を、一人が棒で突き倒した。


 確保しろと誰かが叫んで、何人もの大人が無抵抗のあの子に馬乗りになる。


 熱されたコンクリートに押し付けられた顔が、暑さにも関わらず蒼白に変わるのを僕は見ていた。


 僕には何もできないと知っていた。名前を付けられ、魂を自ら解剖して見せ、僕が僕であることを証明し、生きる許しを彼らに乞うことしか僕らには許されていない。


 あの子が押し潰されて殺されていくのを、僕は黙って見ていた。

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