彼の新しい犬
ケーキボックスみたいな紙の箱の中からキャンキャンと甲高い声が聞こえる。
片頬を上げて「買ってきちゃった」と言う彼。全身の筋肉が弛緩して重たい泥のように溶けていく。開きかけた口は貝のように閉ざす。抵抗してももう無駄だ。
箱から取り出したふわふわの子犬を彼は僕の膝に乗せる。君によく似た濃い琥珀色の目と、君に似ていない垂れた耳。覚えのある体温。
君の定位置だったあの窓辺で、君が寝ていた空色のクッションを退けて、彼は新しいクリーム色のクッションを置いた。触らないでと叫ぶ心は声にならない。
泣いている僕を見て彼は満足そうだった。
子犬のいる家は忙しい。
離乳食に遊びに散歩の練習、最低限必要なコマンドの習得。健康診断と予防接種。隙があれば齧られる家具の脚やコードの保護と修繕。茶色い毛玉は眠っている間すら夢の中で走っている。
寝るのが趣味みたいだった君との生活とはあまりに違う。
目を回しながら、それでも昼間家にいるのは僕だけだから、子犬を生かしておくためにずぶ濡れの布団みたいな身体を引きずって世話をする。僕が動かなければ子犬は死ぬ。動かせなくても動かすのだ。
小さく無邪気な命を維持するために自分の命を維持しなければならない切迫感が、僕の食道を開かせた。
彼の思惑通り、僕は食事を摂れるようになり、どうにか生活をこなせるようになった。新しい犬を買って正解だったでしょと彼は得意顔だった。犬がいなくなって不具合が出るなら、新しい犬を与えればいい。単純な論理だ。
楽しそうに転がる子犬の姿に誘われて笑顔を取り戻したのは事実。その事実こそが僕を窒息させる。
僕を見上げる子犬の眼差しが、もういない君の眼差しと重なる。思い出の中の君が徐々に歪んで、腕の中の犬との境界が曖昧にぼやけていく。連続した一匹の犬になっていく。
君を送り出した悲しみが追放され、灰色の喪の時間が原色で塗り潰される。
君が消されていく。
子犬は彼にもよく懐いた。尻尾を振って出迎えて、遊んでくれと激しくせがむ。
君は僕にしか懐かなかった。彼のことは怯えた横目で窺っていた。抱擁という名の拘束を、遊びという名の無意識の嗜虐を、何度訴えてもやめてくれなかったから。
褒美で信頼は買えないのだと、彼を説得できなかった。何年かけても、何百回言っても、無力な僕の言葉は届かなかった。それは君の安らぎを守れなかった僕の汚点。
君は彼が理想とする可愛いぬいぐるみになれるほど我慢強くはなかったから、彼は君に満足しなかった。
命を買い替えて彼は満足だろう。
もう犬は飼いたくないと何度伝えたことだろう。
君がここにいた頃から、君を最後にしたかったんだ。
傷は消えない。血は止まっても薄い皮膚は衝撃で裂ける。新しい傷が古傷を開かせ、ひとつながりの長い裂傷となる。その痛みを知っているから、新しい傷を増やしたくなかった。いずれ失われるものを胸の奥深くに受け入れたくなかった。
犬が死んで落ち込んだって新しい犬が来れば元気になると彼は笑った。やめてくれといくら言っても、そうして元気になった人を知っていると笑った。
僕の言葉には耳を傾ける価値がないと彼の笑みは言っていた。僕の想いに意味はない。僕の悲しみに意味はない。故障したらなるべく早く修理して、仕様書通りに動作すること。それ以上は求められていない。心は厄介な排熱に過ぎない。
心を手放すまいとしても、新しい子犬がいる限り、僕はここから離れられない。君と二重写しの新しい命を捨てられない。いつまでも彼のもののまま。
それでも僕がいなくなったとしたら、新しい君と、新しい僕と、変わらない彼で、君のいた家族を続けていくのだろうか。
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