女王がいた部屋
ふと疑いが過る。
私が見ているものは現実だろうか。
向かっている先は本当に知っている場所だろうか。
手に持っているものは本当に鞄だろうか。
横を通り過ぎていくのは本当に人間だろうか。
私は本当に私だろうか。
冷たい血液が全身を逆流して、胃が金属でできているみたいに存在を主張する。春の終わりの日差しをはねつけて凍え切った指先が震える。一定の電子音が耳を塞ぎ、暗くなった視界に光の粒が舞う。
思考へのアクセスがブロックされて、意識は脳の表面を駆け回る。
このままわけがわからなくなって、一番してはいけないことをしてしまうかもしれない。自分の命を失うよりも恐ろしいこと。例えば、そう、お母さんを——
背中に何かが当たった。少し遅れてじわりと温かい。
「あなた、魂が離れてるわよ」
道端に机を置いて営業していた黒ずくめの占い師が、私を抱き寄せるように顔を覗き込んでいる。
私は思わず口走る。
「私、頭がおかしいんです」
奥の部屋には近付かないようにしている。怖いものがいるから。物心ついた時から、ずっと。
お母さんは「それ」を恐れない。お母さんには「それ」が見えない。お母さんは「それ」の真ん前に布団を敷いて寝る。だから私は早々に親の添い寝を卒業して居間で寝るようになった。
「それ」は低いベッドの縁にもたれるように身を横たえている。埃っぽいネグリジェを着た、人のような形をしたもの。顔に当たる部分は革のような質感の皺で覆われ、目鼻があるようなないような、こちらを見ているようないないような、この世のものとも思えない形をしている。
じっと見つめていると「それ」はゆっくりと滑るように動いているように見えた。寝台から流れ落ち、こちらに手を伸ばそうとしているように。
私が恐怖を訴えてもお母さんは取り合ってくれなかった。
「そんなものどこにもない。あんたは狂ってる」
その言葉を否定できるだけの根拠を私は持っていなかった。
一般家庭の寝室にあるものとして「それ」は不気味過ぎたし、異様過ぎた。私にだけ見えている、私が作り出した妄想だと考えたほうが筋が通っていた。
道端のスツールに座らされ、机の上の水晶玉を眺めながら、問われるがままにそんなことを話した。
「もしかしたら、その方は影の女王かもしれないわ」
占い師は「それ」に興味を示し、ぜひ訪問したいと言い出した。私以外には見えないかもしれないと説明したが、霊的な存在なら自分には気配が感じられるから、と。
「それ」が幻覚ではなく、他の人には見えない高次の存在なのだという考えは、私にとっては咄嗟に縋りたくなる藁のようなものだった。
お母さんがいたら家には入らないという約束で、そのまま占い師を連れて帰ることにした。
玄関の鍵を開けて中を覗く。
「ただいま」
……返事はない。私は金属の扉を大きく開き、占い師をアパートの部屋に招き入れた。
閉め切られたカーテンの隙間から漏れる光に、散らかった日用品やチューハイの空き缶のシルエットが浮かび上がる。畳に染み込んだ食物と人間の匂い。占い師がどんな顔をしているのかは見えない。見たくない。
奥の部屋に通じる襖を細く開ける。凝った薄闇の中に「それ」はいた。いつもと同じように、こちらを向いて横臥している。
「あなた、これ……」
占い師が困惑の声を出す。
「影の女王どころじゃないわよ」
それから色々なことがあった。本当に色々なことが。
「それ」はどこかへ運ばれていった。警察官が大勢入ってきて写真を撮った後で。
母は死体遺棄容疑で警察に連れて行かれた。保護責任者遺棄致死、または殺人の疑いもかけられているらしい。
「それ」は母の母親、つまり私の祖母の、ミイラ化した遺体だった。
「言いにくいですが、おかしいのはあなたではなくお母さんですよ」
私に事情を聞いた警察官は言った。
私の目に映っていたものは、紛れもなく現実だったのだ。
それから私はあのアパートを離れて占いの勉強を始めた。
事件発覚のきっかけを作ったあの占い師の助手として、それぞれの人の抱えるそれぞれの現実に耳を傾ける。
遺体などなかったと母は主張し続けているらしい。それでも母は狂ってはいなかったのだと私は考えるようになった。死体などない部屋が、母にとっての現実だったのだ。見えているのに見えていないふりをして、攻撃的な嘘を塗り重ねて、必死にしがみついた現実だったのだ。
師匠の占い師は、バランスを崩しかけている相談者の現実をほんの少しずらして、より安定した現実を作り直している。相談者は新しくなった現実に満足して帰っていく。
多くの人が行き交う街は、多層の現実が重なり玉虫色に揺らいでいる。
私はもう不安の発作を起こさない。死を連想させる虚血にも、狂気に引きずり込むような目眩にも襲われることはない。私は、紛れもなく確かな、私の現実を生きているから。
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