再び出会うまでの二百億年
星宮獏
二人の少女
老いて消えゆく意識の中で、私が最後に思い出していたのは、ノェルとのサナトリウムでの日々だった。それらの日々の中にあった草木の匂いや、サナトリウムの廊下の板が軋む音、教室で朝日を浴びて幸せそうに輝く机や椅子まで、全ての詳細が昨日のことのようにありありと心に浮かんだ。私はゆっくりと目を閉じた。あれはもう70年近くも前のこと……。
******
「ねぇミャハ、キスしてみない?」
「そうすれば、神様がどんなものか分かるかも」
ノェルは甘い声でそう囁いた。私たちは初夏の草いきれの中にいた。私は期待と微かな不安が入り混じって、ちょっと震えながら振り向いた。ノェルの顔が真正面にあった。ノェルの顔が近づいてきて、彼女の長い金色のまつ毛が一瞬、流れ星のように光った。私たちはそっと唇を重ねた。それが最初のキスだった。
「どう?何か分かった?」
「何も分からない。でもなんか、安心する……」
そう、安心する。神様なんていなくても、ノェルさえいれば、それでいい。
「でも、女の子同士でこんなことしてたら、それこそ神様に怒られちゃうかもよ」
「大丈夫だよ。神様なんていないから」
ノェルの言葉に、私はくすりと笑った。
私たちは神を信じられない病気、いわゆる無神症だった。無神症は脳の神覚野という、神や魂、死後の存在を知覚する部位の障害で起こる、とサナトリウムの医師たちは言っていた。そういう脳疾患の人は、人口の1%ほどいるらしい。
「ねぇ、その傷どうしたの?」
私は気になってノェルに尋ねた。ノェルの顔に小さな痣ができていた。
「何でもない。ただ転んだだけ」
「それより、もうすぐ物理の授業が始まるよ」
「戻らなくちゃ」
ノェルはそう呟くと、早歩きでサナトリウムに戻った。私もノェルの後を追った。
******
……
「外部から力が加わらない限り、運動している物体は神が等速で真っ直ぐ動かし続ける」
「これが運動の第1法則だ」
物理の教師はそう述べた。その教師は枯れ枝のように痩せた老人で、いかにも頭が硬そうだった。
私は、教師の言っている『運動している物体は神が等速でまっすぐ動かし続ける』という説明の『神が』の部分は不要なのではないか、と疑問に思った。この部分を削ぎ落とせば、法則は『運動している物体は等速でまっすぐ動き続ける』となり、よりシンプルになる。しかし、この無神症治療のサナトリウムで、そのようなことを教師に聞くのがご法度なことは明らかだった。私は、後でこっそりノェルに聞いてみよう、と思った。
「それで、神が動かしている、っていう仮定は不要だと思ったんだ……」
私たちはノェルの部屋で、ひそひそ話をしていた。別に個室だから声を抑える必要もないのだけれど、小声ならノェルと顔を近づけて話せるから、私はわざとそうしていた。
「それはオッカムの剃刀っていう考え方だね」
「オッカムの剃刀は、物事を説明するのに必要以上の仮定をするべきではない、って考え方で」
「昔、オッカムっていう無神症だった哲学者が言っていたことなんだ」
ノェルは、私に色んなことを教えてくれた。勉強のことから、おしゃれな服、キスの仕方、そして唯物論や無神論まで。ノェルと私は同い年だったけれど、ノェルは私にとってまるで年上のお姉さんみたいだった。
私たち以外のほとんどの人間は、神を信じている。無神症でない健常者は、毎晩レム睡眠中にけいれん発作を起こし、そのときに神や魂、死後の存在を強烈に知覚する。しかし、私たち無神症者は、そのような神秘経験をすることがなかった。私たちは、学校や親から教わるそれらの神秘に、ずっと違和感を感じて生きてきた。私たちはそれぞれの人生で、ずっと一人ぼっちだった。それが今では二人ぼっちになった。私はそのことが嬉しかった。
「ノェルは神様なんて信じたりしないよね」
「ミャハの方こそ」
******
その日は創造論の授業があった。
「宇宙はビッグバンという大爆発で無から生まれた」
「ではなぜ無から有である宇宙が生まれたのか?」
「通常、何もない場所からひとりでに物質やエネルギーが生まれたりすることはない」
「したがって、無から有への創造は、時間と空間の外側にいる超越的存在、いわゆる神の意図があってのことだ」
物理の教師はそう説明した。私たちはモヤモヤした。その日の昼休み、私たちは机をくっつけて話し込んだ。
「ねぇノェル。宇宙に始まりがあるってことは、やっぱり神様っているのかな」
「分からない。でも私は、いないと思う」
ノェルは続けた。
「例えばこんなのはどう?これから先、この宇宙は重力で縮むの。つまりビッグバンの逆」
「そして宇宙は高温高密度状態に戻って、そこからもう一回ビッグバンが起こる」
「宇宙には始まりも終りもなくて、それを永遠に繰り返してる」
「だから神様による宇宙創造なんてなかったの」
ノェルの説はとても魅力的だった。私たちはそれを二人だけの秘密にして、それが絆の証であるかのように、何度もこっそり確かめあった。
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