7
八月十日。
彼は私に嘘をついている。彼と私の関係性の中でそれだけははっきりとしていた。
なぜ、彼は知りえるはずのない「夢幻」について虚偽の回答をしたのか。
なぜ、私はそんな彼を誘い、時間を共にしているのか。
先生に倣うだけの自分を変えたかった?
最高の小説を書きたかった?
理由なんてどうでもいい。本当にそう?
教室へ向かう道すがら、私は必死に思案する。だけど、腑に落ちる結果を得る事は出来ずに、むしろ考える度に抑え込んでいた自問自答が加速していく。
玄関口のスリッパを履いて、木のスロープを掴みながら階段を上る。
青色の自販機を横切って、生ぬるい水道を後にして、白い扉の前に立つ。
すると、扉のプラスチックの透明な四角形から、空を眺める彼が見えた。
相変わらず、彼の背中は痩せていて、触れるとひんやりしていそうな肌の色をしていた。
彼は何を思って、空を見ているんだろう。
次に私はなぞる様に視線を背中から首へ、そして長髪気味の頭に向ける。髪の毛がさらさらしていて、撫でると気持ちよさそうだ。
無意識の内に手が伸びる。
そしてガンと扉に手がぶつかり、少しの痛みと音が響いた。
そしたら彼が気が付いて、席から立ち上がり、こちらに歩を進めてくる。
私は自分の行動ながらに驚愕した。
彼に触れようとしたのか、扉を開けたかったのか。
伸ばした手の手首をつかんで、呆然とする。
「......入らないんですか?」
戸の滑る音が聞こえ、馴染んできたような聞きなれない様な声が耳に届く。
「......遅れて、ごめん」
「いいえ、大丈夫ですよ。約束していた時間ちょうどですから」
教室に足を踏み入れ、彼の後に続く。冷房の風の中に知らない匂いがした。
「今日はここで」
私は窓際に向かう背中を呼び止め、中心の机と席に互いが向かい合う様に座る。
鞄から「想実」を取り出して、原稿の半分を彼にもう半分を自分の机上に置く。
彼は静かにそんな私の一挙一動を見つめ、配られた用紙を捲り始めた。
まもなくして、手を止めた彼は用紙を注視しながら質問をした。
「あの、白紙になっている部分が多いんですけど、これって......」
そう、これが「君の見ている世界を譲ってほしい」っていう事。
彼の問いに私は正直に伝えようと思った。
「──私と、一緒に小説を書いてください」
想いを告げるセリフにしてはあまりにも、婀娜(あだ)っぽくない表現だと後々理解した。
彼女らしくない。
俺は浅い交流の日々を思い返しながら、声を震わす彼女を見上げていた。
「俺なんて、足手まといにしかなりませんよ」
再びブランクな状態の用紙に視線を落とし、自嘲気味に呟く。
「......あの時言った、君の見ている世界を譲ってほしいって言葉は売れない作家の妄言でも冗談でもない。私は和泉湊という人間の世界が知りたい。この思いは事実だよ」
彼女は恥ずかしげもなく、物語の世界の住人の様なセリフを語る。
俺は答えに悩んで黙り込む。
彼女の決意と俺の迷いが混ざり合い、そして幾ばくかの時が伝っていく。
うすうす俺は気が付いていた。
ほんの少しずつ、この未来の香りに酔い始めていたことに。
「......俺で良ければ、一緒に紡ぎましょう。この想実を」
もう邪な感覚なんて、抱かなくなった。
「──はい」
この時の彼女の「はい」は世界で一番意味のある返事だと俺は信じることにした。
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