蟻の虚栄
坂本名月
第一章
第1話 きっかけ
この会社で働くことに、どんな意味があるのだろう。
そう思ったとき、周りの人や環境が全て敵に思えた。
今日の業務終了に向けて少しざわつく社内で、俺はそんなことを思いながら明日の商談で使う資料の確認をしていた。
いや、確認をしていたというより暇つぶしに近い感覚で、仕事をしている振りをしながら時間が過ぎるのを待っていただけかもしれない。
「おーい田中、ちょっと話がある! こっち来て」
少し離れた席に座る松本課長が俺を呼んだ。その声は少しかすれ気味だが、隣の課まで響き渡るくらいには通る。
お腹がじわりと熱くなって、鋭く痛んだのを感じたが、無理やり立ち上がって松本課長のところまで向かった。
「なあ、もうすぐ月末だけど大丈夫か?」
松本課長は俺ではなく、パソコンの画面を見つめたままそう問いかけてきた。
「はい……。あの、今月末はアポを入れすぎないようにしましたので、伝票チェックを手伝えます」
松本課長はため息をつき、俺を睨みつけながら怒号を飛ばした。
「違うだろ! 予算の話だ! 5課で今月の予算いってないの田中だけだろ!」
俺は何も言い返せなかった。いや、言い返したところで無駄だと分かっていたから、言い返さなかった。予算の達成が無理な理由なんていくらでもある。
つい最近まで太客だった問屋がいきなり倒産してしまった。倒産の理由は新規事業で失敗し、資金繰りができなくなってしまった結果だとか。
「まさかスマイルカンパニーが倒産したから予算達成できません、なんて言うんじゃないだろうな?」
松本課長は俺の考えていることを見透かすかのように詰めてきた。
その不快な声に、思わず眉間に力を入れ目を細くしてしまう。
「なんだその顔は! 言いたいことがあるならはっきり言え! そんな言い訳は通用しないぞ!」
すみません、すみませんとただただ謝るばかりだった。
同じ課の同僚たちは見て見ぬふりをしているが、空気がぴんと張り詰めているのが分かる。
いろいろな事情が、いろいろな視点から複雑に絡み合っているのは分かる。でも、なぜこの人がこんなにも怒鳴り散らすように怒るのかは、分からない。
松本課長から今月の予算を達成するにはどうすればいいか答えを出すまで帰るなと言われてから、1時間が経った。
依然その答えは出ないまま定時の18時を迎えた。
今日は残業か。俺は誰もいない喫煙室でひとり煙草をふかしながら呆けていた。
はぁ……。6月が終わるまであと5日しかないのに、予算達成のためにできることなんてあるわけない。
喫煙所の扉が開く。入ってきたのは後輩の有本だった。彼は新入社員で、入社からようやく3ヶ月を迎えるところだ。
5月いっぱい行われる工場の現場研修を終えて本社に戻ってきた彼の顔からは、入社当初の眩しい輝きが失われていた。
「あ……ども。帰宅前の一服ですか?」
有本は疲れ切った声でそう問いかけてきた。
「いや、今日は長い残業になりそう」
「そうですか……。さっきは凄かったですね」
見て見ぬふりをしてくれた方がありがたいのだが、有本は少し申し訳なさそうに俺が松本課長に怒られた件について触れた。
「まあいつもあんな感じだ。怒られるのは俺がほとんどだけどな」
「自分はちょっと萎縮しちゃいます。まだ入社したばかりで何にも分かってなくて。課長は恐い人なんですか?」
松本課長は厳しい人だと言われている。おそらく本人の耳にも入っているだろうけど、仕事のスタイルは少なくとも俺が入社してから2年と少しの間は変わっていない。
恐い人と厳しい人の違いはよく分からない。俺からしたら松本課長は嫌な人だ。もう頭に思い浮かべるのも嫌になってしまった。
「もし僕が、仕事じゃなくてプライベートであんな風に言われたら、喧嘩になっちゃうかもしれないです」
有本は冗談を交えながら、会話を締めた。彼はお先に失礼しますと言い、軽やかな足取りで喫煙室を後にした。
プライベートなら喧嘩になる。
有本の残した言葉を煙に巻けないまま、俺も喫煙所を後にした。
時刻は午後22時。梅雨の湿った空気に満ちた地下鉄を乗り継ぎ、ようやく家に帰って来れた。幸いにも家から最寄りの上前津駅の周りには飲食店が多いため、食事には困らない。
自炊は嫌いではないが、時間がないときにはもっぱら外食に頼ってばかりだ。
「ただいま」
帰ってくるはずのない返事を頭の中で唱えながら鞄をソファに放り投げると、そのままお風呂へ向かった。
少し熱めのシャワーを頭から全身に浴びる。
仕事のことは考えたくなかったが勝手に頭に浮かび、暴れたくなる衝動を声に出して誤魔化した。
結局、今月中に予算を達成する方法など思いつかなかった。
俺は魔法使いではない。何百万もの売上を、スマイルカンパニーが倒産してから1ヶ月も経たないうちに取り戻せるわけがない。
松本課長は俺に話しかけることすらせず、19時に帰っていった。真面目に遅くまで悩んでいた自分が馬鹿馬鹿しくさえ思えてくる。
最近の俺の楽しみはベッドに入ってから眠りにつくまでの間、スマートフォンを使いYouTubeを見ること。今夜も欠かさず面白そうな動画を探そう。
アプリのトップに表示されるおすすめ動画をスクロールしながら流し見していると、普段は見ないような黄昏という名前の、視聴者の相談に答えることが売りのYouTuberの配信が目に止まった。
視聴者がどんな相談をしているのか気になり、おすすめに表示されたのも何かの縁だと思い配信を開いた。
視聴者がコメントに書いた相談に対して回答をしていくという内容の配信だった。
視聴者はそれほど多くないけれど、中には答えられることなく流れてしまう質問もあった。スーパーチャットというお金を払ってコメントする機能を使えば確実に相談を読んでもらうことができるようだ。
「えっと……次の相談は、こちらですね。夜の鳥さんからの相談です」
黄昏の少し低めの声が心地よい。彼はピックアップしたコメントを画面に映し出した。
「私の働く部署では飲み会への参加が強制されます。一応飲み会へ参加するかどうかは確認されるのですが、かたちばかりの確認で断ることができません。飲み会は嫌いではないのですが、他の用事がある時も飲み会を優先させられます。断るにはどうしたらいいでしょうか」
黄昏が質問者に代って読み上げる。コメントには質問者の会社を非難するコメントが溢れ返った。
そして黄昏は少し考えた後、すらすらと質問に答え始めた。
「なぜ確認された時に断ることができいないのでしょうか。おそらく、断ったらその場で怒られる、あるいは後から小言を言われるからじゃないですか。もし飲み会に参加しないことで、仕事上不都合なことが起きるのであれば会社に相談してください。どうしても強制されるのであれば残業代を請求してみてください。あ、でも、夜の鳥さんは断りたいんでしたよね。それならもう断るしかないです。怒られても小言を言われても、飲み会に参加したくなければ断って参加しないという行動を起こすしかないんですよ」
果たして質問者の意図に沿った回答か分からないが、断るには断るしかないという至極当然のシンプルな答えを突きつけられた。
確かにその通りだが、夜の鳥はきっとこの後も飲み会に参加し続けるだろう。なぜなら、飲み会を断る、その選択によって今まで保ってきた現状が変わり、脆い心が崩壊してしまう恐れがあるからだ。
「さて……お次の方は……」
その後も黄昏は淡々と質問への回答を繰り返していた。
質問の内容は仕事に関することが半分以上を占めているような気がする。ちょうど寝る前に見ている社会人が多いということか。
自分の周りには平気で働いている人しかいなくて孤独を感じていたが、仕事のことで悩んでいる人が他にもたくさんいることを知り安心した。
ふと、考える。黄昏ならどうやって倒産した会社分の売上を補うのだろうか。
俺は、夜の鳥とは違う。もしこの質問に答えてもらえたのなら、その内容を実行しよう。
気がつくと、俺はスーパーチャットの書き込みを始めていた。
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