異世界に立つ

桐枝

第1話 田中良子35歳、異世界に立つ

 夢見たことがある。剣と魔法の世界、精霊やエルフやドワーフ、おとぎ話の生き物たちと協力し、海渡り空駆ける冒険を繰り広げ、魔物たちの王を討伐する。少女らしい、かわいらしい夢。

 だがそれは今じゃない、遥か昔の幻想だ。

「勘弁してくれよ……」

 田中良子(たなか りょうこ)35歳、スーパー勤務の正社員。異世界での第一声であった。


 田中は地方チェーンのスーパーに勤務する、ごく普通の独身女性だ。大学進学で実家を出て、そのままその地域で就職した。仕事がよくできるでもなくできないでもなく、それなりに失敗もするしほどほどに上手く処理もできる、そんな人間だった。家族は両親と兄夫婦が居るが、あまり気が合わないのでやや疎遠になっていた。

 恋人は居ない。なんなら友人もほぼ居ない。かつての恋人とは大学生活の終わりを機にお別れしたきりで、お付き合いというものには縁がない。同じタイミングで友人たちともほとんど縁が切れてしまい、結婚ラッシュも終わった今ではスマートフォンが鳴ることもない。それを寂しいなとは思うが、日々を過ごすことに精一杯で別段何か行動を起こそうという気力もなかった。

 今日も田中は閉店したスーパーの事務所でひとり残業し、報告書を書きながら最近険悪な空気を出しているパートたちについて頭を痛めていた。最古参の酒巻さんは仕事が早いが雑で、少々物言いがきつい。最近入ってきた吉田さんは他店での勤務経験がある故にそちらのやり方で仕事を進めようとするため、ベテランのパートたちとぶつかりやすい。二人の仲はそこまで悪くないのだが、周囲の人間たちが酒巻派、吉田派に別れてしまい無駄にギスギスしている。今のところ業務上のミスには繋がっていないが、このまま放置しても関係性は悪化していくばかりだろう。

「勘弁してくれよ……」

 スーパーは人間が多く集まる場所だ。それは客だけではなく従業員も同じこと。多少の揉め事は日常茶飯事ではあるが、わざわざ小火を焚きつけて大火事にしようとしないでほしい。田中はボールペンをカチリと押してペン先をしまい、大きなため息をつく。なんだかひどく疲れた、目を閉じれば眠ってしまいそうだ。少しだけ、と机に伏せると――強烈な光が田中の身体を包み込んだ。


「召喚成功だ!!」

 ワァ、と周囲で歓声が上がった。田中が目を開けば、小柄な田中よりも一回りは小さな老人が杖を振り回している。男も女もみんな小さく、見慣れない服を着ている。そう、まるでファンタジーに出てくる小人族のように。彼らはそれぞれに抱き合って涙を流し、喜びを分かち合っている。

「いらっしゃいませ、勇者さま!!」

 杖を振り回していた老人が涙を拭い、恭しく田中に頭を下げた。すぅ、と田中の頭から血の気が引く。勘弁してくれよ、私が何をしたっていうんだ。田中の目には涙が浮かんでいた。

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