to the END

秋乃晃

キラー・クイーン


 ドラム式洗濯機の中でウサギのぬいぐるみが踊らされている。タオルが首に絡まっていた。いずれ終わりの合図が鳴って、洗濯槽から助け出されるまで、外されることはないのだろう。ぬいぐるみは苦しいのだろうか。オレは苦しくない。その状態から、逃れたいと、そのワタの中で願っているのだろうか。オレはそうは思わない。終わりの合図が鳴るその時が、なるべく遠くであればいい。ぬいぐるみは、今すぐにでも、取り出してほしいだろうか。この後、太陽の下に晒されるのだとしても。


 今の状態が、これまでそうであったように、これからもそうであるように。

 たとえ狭くて暗くて、自分の思い通りに身体を動かせないのだとしても、続いていってほしい。――そう思っている。


 オレは兄貴ぃと、二人で暮らしてきた。兄貴ぃは、オレの九つ上の兄だ。オレが生まれてすぐに母親が亡くなり、父親はテレビの向こう側の、あるいは、毎日の紙面を騒がせるような存在。そんな環境で、親代わりをしてくれたのは父親の親友の作倉さん。大人が対処すべき事項は全て作倉さんが受け持ち、日々過ごしていく上での諸々の家事は兄貴ぃがこなしていた。兄貴ぃはなんでもできる。外で食べるどんな料理も、たとえミシュランのシェフが作ったものであっても兄貴ぃの手料理にはかなわない。兄貴ぃが掃除した場所には塵ひとつ残らないし、シャツもズボンもシワひとつない。オレがテストで悪い点数を取っても「まあまあ、次があるし」と励ましてくれるし、兄貴ぃを手伝おうとしてミスっても「まあまあ、そういうこともあるさ」と慰めてくれる。オレの兄貴ぃは完璧なんだ。

 兄貴ぃはいつでもオレのそばにいてくれる。その場にいなくとも、兄貴ぃの存在はオレを支えてくれていた。困った時は基本的に兄貴ぃがなんとかしてくれて、兄貴ぃに対処しきれないことは作倉さんが解決してくれる。

 オレと兄貴ぃとを引き裂く学校が恨めしかった。土曜日は丸一日休ませてほしい。午前授業なんていらない。平日、毎朝ギリギリに登校して、クラスの誰よりも早く帰る。オレの学生生活は、その繰り返しだった。

 兄貴ぃはオレの意志を尊重してくれたけど、その年の担任によっては「智司さとしくん、部活入ったら?」などとおっしゃる方もいた。三者面談で兄貴ぃが丁重にお断りしてくれていなければ、なんかしらの部活動に入部させられていたかもしれない。学校行事になんとしてでも参加させようとしてくるクラスメイトもいた。いじめと呼ばれるたぐいのものだったのではないかと思しき行為を受けたこともある。

 バレンタインにチョコレートが届いていたこともあるし、下駄箱に怪文書入りの封筒が入っていたこともある。直接女の子から「好きです」と言われた時には「兄貴ぃに聞いてから答えるんで」と返事をした。家に押しかけられたことが中学の時にあったけど、困るんスよねそういうの。兄貴ぃが出たら逃げてったんスけどね。

 オレには兄貴ぃがいた。兄貴ぃさえいれば他に誰もいらない。当たり前のことだけど、他の奴らに兄貴ぃはいないんスよ。オレの兄貴ぃはオレだけの兄貴ぃで、他の奴らがどれだけ羨んでも手に入らない存在。この世の誰かに代わりは務まらない。その兄貴ぃとの時間は、何よりも優先されるものでなくてはならない。オレが学校に、高校までイヤイヤながらも通えていたのは、兄貴ぃの言葉があったからだ。兄貴ぃから「通わなくてもいい」って言われたら、喜んで家に留まっていただろう。高校を卒業してからの現在までのように。

 作倉さんから在宅でもできる仕事を紹介してもらっているから、ニートではない。兄貴ぃの言葉を信じて高校まで通ってよかった。このオレが読み書きできて、ある程度の社会常識を習得できたのは、我慢してでも学校に通ったおかげだ。学校で最低限のコミュニケーションを取り、授業を受けたおかげで、こうして仕事ができている。兄貴ぃはいつだって正しい。オレは兄貴ぃと一緒に生きていければ、幸せでいられる。これまでそうであったように、これからもそうでなきゃおかしい。


 終わりの合図は不意に鳴った。

 洗濯物が内部で偏ってしまったように、もしくは、ゴミが詰まってしまったかのように。


「ただいまー」


 その日は、兄貴ぃが真新しい服を着て出かけていった。一週間前に『三十代男性のファッション』を調べて、調べて出てきた服装を通販で注文したものをそのまま着ていった。いつものように玄関先で兄貴ぃを「おかえりなさい!」と出迎えたら、兄貴ぃの隣にオレと同い年ぐらいの、小柄な女性がくっついている。


「ほぉん、この子が智司くん?」


 やや関西訛りっぽいイントネーションで、その女の人はオレをまじまじと観察してくる。お団子が二つ乗っかった髪型で、前髪は斜めにカットされていて、上はピンク色のパーカーに、蛍光グリーンのジャケット、腕の部分にハートのワッペンが散らされている。じっと見ていたら目が痛くなりそうだ。下はホットパンツに、ルーズソックス……フォーマルに統一感のある兄貴ぃの服装とわざわざ比べなくとも、単体で、ずいぶんと独創的なファッション……。そのファッションに負けないぐらいに強めの顔をなされていらっしゃるので、チグハグなのに妙にまとまっているような錯覚すらある。


「ちっとも似とらんな」


 兄貴ぃとオレを見比べての感想に「よく言われます」と兄貴ぃが答えて、頭を掻いた。耳にタコができるぐらいには聞き覚えのあるセリフだ。兄貴ぃの顔つきに関しては『平々凡々』だとか『特徴という特徴がない』だとか、悪口みたいなことを言われる。対してオレには『美青年』だとか『端正な顔立ち』だとか、容姿の賛美と捉えられるような言葉を投げかけられる。オレは兄貴ぃを褒めてほしい。兄貴ぃは世界一かっこいい兄貴ぃなのに。兄貴ぃとオレを比較して兄貴ぃを下に見てくるような人間は、眼科に行って精密検査を受けてほしい。どこがいけてないんだ。はっきり言ってみろ。


「智司、この人は天平芦花てんぴょうろかさんね」

「ども! 


 ども、と上に挙げた左手を目の前に差し出される。

 握手しろってことスよね。歯を見せて、にかっと笑いかけてきているところから、敵意は感じられない。先ほどの品定めするような目つきは引っ込んでいる。


「これからうちで一緒に暮らすことになるから」


 兄貴ぃの言葉に、喉がヒュッと鳴った。咄嗟に喉元を隠したけど、勘づかれてはいないか。。オレと兄貴ぃ、たまに作倉さん以外の人間が、この家に住む……?


「え、ええ、え」


 改めて真ん前のファッションモンスターと目が合った。兄貴ぃは「芦花さんは作倉さんから紹介されてね。俺の婚約者だから、智司にも仲良くしてほしいな」次から次へと衝撃の情報を繰り出してくる。仲良くしてほしい。口を開いたら泡を吹き出しそうなオレは、この波に流されないように必死で踏ん張っていた。

 兄貴ぃの言葉なら、オレは遵守したい。オレにとっての兄貴ぃは、絶対に従うべき存在。一生敬い続けるオレの兄貴ぃ。その兄貴ぃの婚約者。つまりはオレの義理の姉にあたる人? なら、仲良くしなければならない。


「これからよろしゅうな」


 天平芦花という女は、同じフレーズを繰り返してから、舌なめずりをした。オレに向けてくる視線が、先ほどとは異なるを帯びていて、オレは一歩引き下がる。肉食動物がエモノを狙っているような、そんな目に見えてしまったから。

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