金太郎飴という言葉がある。どこを切っても同じ顔で没個性なことを揶揄している。本当は一人一人個性があるけれど、最大公約数的なものがあまりにも大きいとそれぞれの個性が埋没して見えるだけだ。個性と没個性が両立している。没個性の部分が大きいほどお互いに理解や共感しあうことができる。
でも、その存在が善かれ悪しかれ最大公約数的なものを大きく越えてしまった場合、個性が突出して没個性の部分が少なすぎると、他人から非常に理解や共感されにくく、或いは軽蔑から或いは嫉妬から排斥されてしまう。
ついでに言うと、実は尖った個性の持ち主にとっても、そうでない没個性組のことは理解や共感がしにくい。
ここら辺カクヨムしている皆さんにも思い当たることがあるのではないだろうか。
尖った個性の人ばっかりじゃ社会は維持できない。でも尖った個性の人がいないと社会はつまらないし、進歩や発展もないのだ。人間の社会には両方のタイプとも必要なのだ。
具や海苔だけで、ご飯抜きではおにぎり🍙はできない。ご飯だけでもおにぎりは🍙はできるが、具や海苔がないと味気ない。やはり具や海苔とご飯が揃ってこそ美味しいおにぎり🍙ができる。それと同じだ。
本作の「大海」というフリースクールは学ぶことを通して、変人扱いされる尖った個性の子供たちがそうでない人びとや、社会のことを少しずつ理解しながら自分という尖った個性そのままでどう生かして生きるかをつかみとる場所と言える。
このフリースクールの恩恵は尖った個性の子供たちだけでない。社会全体もまたその恩恵を受ける。
みんなでおいしいおにぎり🍙を食べるために、尖った個性の子供たちが、潰されることなく大事なことを学べる「大海」のような場所がどんどんできて欲しい、そう思う。