この黒い海の底で

和菓子辞典

死に浸る星

 その風が吹くと帝都は忽ちに斃れた。逃げるいとまもない全滅であったと聞く。報が各領へ渡るとき、"死風"と云われることになったが、いかにするか知れたものではない。

 帝都の直上から吹き降ろした死風は放射状に外縁へとうち広がっていく。近郊街を吞み殺して、死屍累々を片付ける人もない。


 死風は黒いということだけは、遠見の者が見ている。神罰のように異様で正しき光景と思われたそうだ。

 帝都のはるか上空、雲もない空から、霧のような黒が垂れ流している。これは遠見でなくとも見えた。

 遠見はそれが地にぶちまけられて滞留している様を見たのだ。深さは十数メートルか、背の高い木や建物だけがのぞく。


 帝都あたりは盆地であるため、しばらくは広がるまい。なれど、死風は今日もかさを増している。周する山の高さを超えれば、たちまち死風は山肌から全国へと滑り落ちるだろう。


 忠臣たちよ。これをいかに処する。


「私は薬を作りましょう。

 木も建物も無事というのなら、病の類でありましょう」

「私は山をあえて切り開きましょう。

 数か所、死風が流れ出すための川を地下に作るのです。地よりあふれださぬよう、堅固な管を通すのです」

「私は山に壁を立てましょう。

 滅びを先のべにして、先の人々がよきに計らうを待つのです」

「私は地下壕や密閉住居を作りましょう。

 大地はもはや諦める他ありません」


 薬は出来なかった。

 川の方策も死風の増えかたに追いつかない。


 かくして壁が立ち、170年後、増築限界に至った。

 人々はこの壁の中に空洞を設け、住居を築いて狭く暮らしている。

 その60年後、ついに死風は壁を越えた。


 壁の外面に乱れるそれを、死風の滝と云う。

 帝国の民はもう壁を出ることが出来ない。






 事はさらに87年後であった。


 リョド=ロン・40歳、ぶ厚いガラス窓を覗いたが、黒々と死風が満ちているばかり。うつうつと息をついて、デスクに手を置くとカップをかすった。危ない危ない、包むように取ってグイっと飲み干す。ぬるいコーヒーは甘くするとうまい。


「さて、こりゃ、いかんするかね」


 リョドが論じたいのは曰く、


『死風はすでに世を満たしている。

 旧帝都盆地をあふれた死風は、盆地の外を這い、海を這い渡った。各国はどのようにしたか、知れないが、少なくとも死風に呑まれただろう。

 さて、どうなるか想像してほしい。試しにビーカーを用意しよう。これが我らの住居だ。シンクに置いて、蛇口を封切ってみる。いま多くの人は、ビーカーがいっぱいになって外にあふれ出したくらいに思っている。だが今や、シンクに水が張るほどになっているのだ。

 さらに思うのではなかろうか。いずれビーカーがシンクの水に浸るほどになろうと。私の主張は、これがもう起こっているというものだ』


 彼は明後日、その根拠を見るべく壁内最高地点の観測所に赴くはずだった。

 もしすでに浸っているなら、壁の上の死風はぶ厚いはずである、また今見ているような、壁の外側の死風もぶ厚いことだろうと。


 かくしていやな書状が届いた。

 それを軽く振って広げてみる。


『貴殿の観測参加申請を却下する。また、今後永年、その申請・参加権を停止する』


 ケッといって後ろに投げた。

 永年?


「15年くらいで十分だろうよ」


 とかくリョドは天井を見上げた。照明がまぶしいだけだ。それで、目を閉じる。

 真っ暗だ。

 いやになり、目を開けて、明るさに目をしばつかせる。もう一度、窓のほうを向いた。こちらも真っ暗だ。


 おや。

 いま、外から声が聞こえたような。


 追って「ビシリ」窓にヒビが入る。

 

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