明日はドラゴンとなり、ところによりにわかあめが降るでしょう

秋乃晃

ドラゴニックノンフィクション

 ある日の朝、右ひじにがあった。

 その白い部分はツルツルとしている。


 確かに自分のひじらしい。

 触れている感覚はある。


「こういうのって、皮膚科でいいんかな」


 まさにヘビの表皮のようになっているその箇所を見せながら、オレは嫁のキサキに聞いてみる。キサキは眉をひそめて「なあにこれ」と呟いて、ウロコを指でそっとなぞった。妙にくすぐったい。やはり自分の肉体の一部であるらしい。明らかに異物だが。


「今日、病院やってるんかな」

「どっかしらはやってるんじゃん?」


 とはいえ一部分だから、オレもその時は大して気に留めなかった。いくらでも隠せる。病院がやっていなかったらやっていなかったで、明日行けばいいかなと思っていた。


 今日行くんだとしたら、いちばん近くて隣町。

 行ったこともないクリニックが見つかる。


 これだけのために高い初診料を払うのはアホらしい、って考えもなくはなかったので、結局午前中は放っておくことにした。


 正午を過ぎて、尾てい骨がうずき始める。

 両足が鉛のように重い。

 家の中を思うように歩けなくなった。


「……病院に行きたくなってきた」


 キサキに訴えかける。さっき調べたクリニックは午前中しかやっていない。となるとより遠くの場所にある病院にまで移動しなくてはならなくて、オレは気が遠くなった。この歩きにくい状況でそんな遠くまで行かないといけないのか。病院がこっちに来いよ。


「救急車、呼ぶ?」


 そんな提案に、オレは逡巡する。なんて言えばいいんだろうか。自分の身に起こっている出来事は、果たして現代医療で解決できる問題なのか。怪しくないか。警察呼ばれない? オレは暴れないが、オレの姿を見た警察が暴れてえらい大騒ぎになるかもだ。


 右ひじを見ると、ウロコの面積がじわじわと増えて、腕全体を覆ってしまっている。長袖を着ていたぶん、気付くのが遅れてしまっていた。


「なんだよこれ」


 今度はケツがスースーする。

 サイズは合っているはずなのに、ズボンがずり落ちていた。


「……

「しっぽ?」


 言われて、聞き返して、左手で尾てい骨の辺りを、おそるおそるさわる。あるはずのないものにれて、オレは短い悲鳴を上げた。オレのからだから何か生えてきている。

 壁伝いに、おぼつかない足取りで鏡の前に移動し、その全容を目視でも確認した。トカゲの尻尾のようなモノがある。普通の人間には存在し得ないものがある。


 やがて右手が変化し始めた。手首から徐々に、指先に向かって、ウロコがみっちりと埋めていく。指の第二関節で変化が止まり、そこから先は、のようになってしまった。一分もかかっていない。


 キサキもいよいよ青ざめて「どうしよう、こういうときに、どこを頼ればいいのかわかんない」と右往左往している。オレだってわからない。


 とにかく救急車を呼んでくれ、と言おうとして、声が喉で突っかかった。


「が、ぁぁああ」


 出てきたのは意味のある声ではなくて、音。


 足が痛いのにソファーに座ろうとするとしっぽが邪魔になる。オレはリビングに腹ばいになって、自らの身体がヒトではなくなっていくことに怯えた。身体のあちこちが軋むように痛いのに、その痛みを伝えようとすると「ぐるるるるるるるる……」と唸り声のようなものを出してしまって、キサキをさらに震え上がらせてしまう。


 怖がらせるつもりはないのに。


「ねえさん! あの! あの!」


 キサキは自分の姉に電話しているようだった。

 両親がすでに他界している彼女にとっての、信頼できる肉親。


 ねえさん。オレにとっての義理の姉――オレより年下だから、と言うのに違和感はある――は、どっかの研究所でなんだか難しい研究に携わっているらしい。詳しいことは聞いてない。まあともかく、今このタイミングで電話をかける人間として適切かどうかはさておいて、頼りになる人物ではあった。別の人に繋いでもらえる可能性はある。

 ここでキサキがあたふたしているだけよりは、まだいい。


明日みらいが! 明日がドラゴンになっちゃって! 今! ……そう、今!」


 人語は発せないが聞き取れるし、理解はできる。ただ、こちらから自分の意志を伝える手段がない。筆談しようにも、この手じゃペンを握れない。利き手の右も、左手と同じような状態になってしまった。スマホもこの爪では、画面を潰してしまう。キーボードなら、先端でポチポチ押せばいけるかもしれない。力加減をコントロールすれば、まあ……。


「前に言ってたよね? 明日を検査した時に、って!」


 一体何を言ってんだこの子は、と思われてんだろな。滅多に電話してこない(普段のやりとりはテキストメッセージな)妹から急に電話がかかってきて、出てみたら妹の旦那がドラゴンになったって言われんの。信じてもらえんのかな。姉妹仲いいからいけるか?


「今から来る? わかった。え、……それはダメ! !」


 なんて言われたんだか、キサキは噛み付かんばかりの勢いで「来ないで!」と繰り返した。そんで通話を切る。

 切ってから「明日を捕まえに来るって」そのクリーム色のラウンドボブを掻きむしった。


 ねえさんに電話したの、悪手だったみたいだ。


「どうしよう……捕まったら、何されるかわかんないよ……!」


 元々キサキは150cmなくて、街を歩いていても小学生と間違えられるぐらいの童顔だが、この短時間でますます小さくなったような? ――ああ、違うな、


 電源の入れていないテレビに自分の今の姿が映る。


 そこには頭部があった。

 金色の目をした、龍の頭があった。


「明日、逃げて」


 ベランダの鍵を開ける。

 ねえさんはもちろんここの住所を知っているから、そのうちオレを捕まえに来るだろう。


「ここではないどこか、ねえさんに見つからなさそうな場所に」


 キサキが、オレに捕まってほしくない。ってのはわかる。今までのように二人で暮らすことはできなくなるだろう。こんなドラゴンが隣の家に住んでいたら誰だって嫌でしょ。隣の家の奴どんな顔してるか知らんが。


 きっと檻に入れられて、一日中監視され続ける。前に一度、義姉さんのところで検査を受けた時もそんな感じだった。そんときに目をつけられてるから、キサキの話もすぐに飲み込んでもらえて、じゃあドラゴン捕獲作戦すっか、ってなってんのかもな。


 治せるんなら治してほしいが、治るもんなのかわからない。オレの記憶にない、オレの両親なら治し方を知ってんのかもしれねぇが、なにぶんこの世界にはいないから。


 この世界ではない別の世界に、オレの両親はいる。オレはその世界からこちらにっぽい。親代わりの親切な人たちに育てられたオレは、紆余曲折あってキサキと結婚して、幸せには暮らしていたんだ。


 けど、なんだかうまくいかなかった。

 いずれこうなる運命だったんだろう。


「あとで必ず見つける。だから、今は逃げて」


 でも。


 彼女なら、オレを見捨てないだろう。

 この約束通り、オレを見つけてくれる。


 そう信じているから、五階の窓を飛び出した。

 もはや人間ではなくなったオレは、空を飛んでいる。

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