ヨル ①



 ねえ、アサヒ。


 僕たちは物心のついたときから、何をするにも常に一緒だったよね。

 当たり前に性格なんか少しも似ていなければ、好きなものや苦手なものも違う。幼い頃は、互いに気に食わないことがあるといっては、よく喧嘩をしたのを覚えている?

 最近じゃ喧嘩なんてしなくなったものの、もちろん見解の相違なんてものは、この先も無くなりはしない。けれど、どんなに相容れないことがあっても、これからだって僕はアサヒから離れるつもりはないし、言うなれば決して離れられないのだから、アサヒは観念するしかないんだ。だって、いつかアサヒは僕に言ったよね。

 ずっと一緒だって。

 僕たちは、お腹と背中みたいなものだから何があっても決して離ればなれにはならないって。

 そうでしょう?

 僕はアサヒで、アサヒは僕だ。

 どんなに抗おうとしても僕はアサヒから抜け出すことは出来ないし、誰になんと言われようと僕の世界はアサヒの中にあるんだから。

 いまさらどうして、こんなことを僕が言っているのか分からないっていうのなら、順を追って話をしてあげる。

 

 

 こっちに越して来たのは僕とアサヒが中学三年生になった春を過ぎ夏の少し前、一学期の途中のことだったね。



 鬱陶しい梅雨のさなか、母親の生まれ故郷である閉鎖的なこの田舎町に突然引っ越すことになったのは、いくつかの要因が重なった所為だった。

 多々あるなかでも、一人暮らしをしていた祖父が亡くなったことで、その古い家が残されたことと、母親が恋人と別れたこと、特には、いつもならあるはずの次の寄生先恋人が決まっていなかったことが大きかったのではないかと、僕は勝手に思っている。

 とはいえ、家出同然に実家を飛び出たきりの母親と、亡くなるまでのそのあいだ一切の没交渉だった祖父とに何があったのかなんてのは、知る由もない。

 亡くなった後に祖父の存在と残された家のあることを知らされ、唐突に、住む場所が替わると言われて大抵の人なら気後れしたり尻込みするだろうことに、僕もアサヒも何ら抵抗がなかったのは、いつだって母親の恋人が変わるたび、これまでの男の家から別の男の家への引っ越しを当然の因果として受け入れていたからだ。

 僕たちは好ましい貝殻を見つけるたび家移りする海辺のヤドカリのように、母親に連れられ家を替える。そこにあるのは母親に引っ越すわよ、と言われるか、出て行けと男に怒鳴られるのが先か後かの違いしかなかった。

 

 母親は綺麗な人だけれど、どういうわけか頭の中にも同じように綺麗なものしか詰まっていない。彼女にとって汚いものはいっさい排除され後に残るそれは、たとえそれが他の人には、おがくずに見えたとしても、彼女にとっては何ものにも代え難い綺麗なものだというのだから、何と珍妙なつくりをしているんだろうと変に感心すらしてしまう。

 なので引っ越しを聞かされたときのことを率直に言うならば「ああ、またか」で、驚くべきは母親の中で子供の存在は忘れがちであっても、今回もこれまでと同様に、お綺麗な頭の中から未だに排除されてはいなかったんだな、ということにあった。

 正直、ほっとしたよね。

 捨てられて保護されるのも、路頭に迷うのも勘弁願いたいって、僕だけじゃなくアサヒだって少なからず思っていた筈だから。

 とはいえ母親のことばかり言えやしない。

 比べることでもないけれど、僕とアサヒも、自分がいちばんに可愛いのは母親と似たようなものだ。

 家を移るにあたっては祖父とはいえども顔も知らない老人が孤独死したことは、僕とアサヒの二人の胸を少し痛めたけれど、言ってみれば、まあそれだけだった。

 実際に薄暗い家の中に足を踏み入れたときには、祖父の遺体はとうに荼毘された後で、死に顔を見ることもなかったから何の感慨もなかったし、さらに言えば、幸いにして死体が酷く腐ることもなく臭いもたいして残っていなかったことは僥倖だったな、と僕は考えてさえいたくらいなのだから。

 ちなみにエアコンを点け放し、電熱を入れっぱなしの炬燵で寝たまま亡くなっていたからだそうで、教えて欲しいと頼んだ訳でもないのに解剖に回された祖父の身体中の水分がどうなっていたのかを聞かされたのは、ここだけの話。

 

 それはさておき、この引っ越しで何より喜ぶべきはこの先、母親が子供を捨ててどんな男のところへ行ったとしても、僕とアサヒには古くても汚くとも、祖父が残してくれた家があるということだ。

 一方で、家さえあれば子供を切り捨てやすいから越してきたのでは? と考えたりもする。

 だがあの母親がそのことに気づいているかどうかは疑わしい。さっきも言ったように、頭の中はお綺麗なものしか詰まってないからだ。出て行ったきり一度も帰ることのなかった田舎へと戻ることにしたのは、単にこれ幸いと飛びついただけで、何かを考えてしたこととは到底思えない。それでももう幼くはない子供を連れて男を渡り歩くのはいい加減、限界だったのも確かだ。となれば今はまだ分かっていないにしても、新しい男が出来れば、すぐにでもそのことに気づくだろうことは想像に難くない。

 そのうえ母親に恋人の切れ目がないというのだから、この先が決して遠くではないことぐらい子供だって考えなくても分かるというものだ。


「自分たちの家が出来て良かったと思ったんだけど、こうなっちゃうと別の意味での心配があるってことだよね」

「どういうこと?」


 つらつらと考え事をしていた所為で、僕は知らず声に出して呟いていたようだ。

 僕に向かって問うアサヒの訝しげな声で我に返る。


「アサヒは気づいてた? あの人はさ、自分を好きになってくれる人なら誰でも良いんだよ」


 母親に、なくてはならない大切な人だと言葉巧みに勘違いさせ、綺麗だ好きだなんだと囁き、彼女のどん底の自己肯定感を少しでも高めてくれる人ならば、結局のところ誰でも良いのだと思う。

 現に歴代の母親の恋人たちには、これといった共通点はなかった。年齢も外見も性格も、つまり、やもめでも学生でもデブでも禿げでも横柄でも謙虚でも構わないらしく、僕たちが押し掛ける家も部屋も、相手によって様々で、そこそこ大きな一軒家で子供部屋を与えられることもあれば、それこそ風呂無し一間の賃貸アパートでの雑魚寝までと幅広かった。


「それはそうと、かなりの人数になるのに変に別れを引きずる相手がいなかったのは、考えてみなくても、ちょっと凄いよね。痴情のもつれっていうの? 刃傷沙汰はちょくちょくあったけど、別れた後は綺麗なものだったじゃない? 追いかけて来るとか、付き纏いとか、なかったでしょ? あの人のことだから、考えてそういった人たちを選んでいるとは到底思えないから動物的な勘が働くのかな。まあ単に、これまでが運に恵まれていたっていうの? そのうえ根無草を良いことに、僕たちは、都合が悪くなれば出て行けば良かったというのもあったし」


 今度は、そうはいかない。

 相手がヒモ男、執着系、束縛系だったら?

 あるいは母親ではなく、アサヒに目をつけたら?


「最悪、もう逃げらんないよね」


 いっそのこと子供を捨てて男に走っても良いから、願わくば、この家に男を入れるのだけはしないで欲しいものだと思う。

 ようやく手に入れた僕たちの貝殻。

 古くて住みにくいところもあるけれど、ここがあれば、母親がいなくとも、何とでもなるのだから。


「それよりさ、ほらまたネクタイ曲がってるんじゃない?」

「え? あ、ホントだ。なかなか慣れないなあ」


 学校へ行く支度をしている途中のアサヒに向かって、鏡越しに僕が声を掛ければ、長い睫毛に縁取られた大きな眼が分かりやすく困惑に揺れる。

 先ほどアサヒが『なかなか慣れない』と言ったのはネクタイなのか新しい学校なのか、おそらくその両方なのだろう。ふっくらと柔らかな唇を、アサヒは真剣な時には決まって噛み締める癖がある。

 いまも口を真一文字に、白く細い指先は忙しげにもう一度解いて結び直したりと、制服の指定ネクタイを前に暫く腐心していたアサヒだったが、やがて僅かに唇が綻んだ。どうやら小さく笑ったらしい。苦笑い、というやつだ。


「もう、いいかな。納得するまでやってたら遅刻しちゃう」


 ついに諦めたようで溜息を吐く。ほんの少し斜めに傾いだネクタイは、先程となんら変わりがない。


「諦めていいと思うよ。直す前と少しも変わらないから。まあ慰めて欲しいなら言うけど、多分そんな細かいとこまで大概の人は気にしないし、見てないんじゃないかな」

「人の目が気になるんじゃなくて、私的に気持ち悪いの」

「アサヒってそういうところあるよね」

「そういうところって?」

「融通が利かないくせに鈍臭い」

「……ヨルは私に優しいんだか酷いのか分からないところがあると思うの」

「そう? そう感じるのは、僕がいつだってアサヒに対してだけは嘘を吐かないでいようって決めているからじゃない?」

「またそれ? ねえ、ヨル。優しい嘘もあるって知ってる?」

「馬鹿だなあ、アサヒ。嘘っていうのはね。誰かを騙すための嘘も、誰かに優しくするために吐く嘘も、所詮はみんな同じ。一見すればその人の為のようだけど、他人の感情を自分に都合良く動かすために吐いてるんだよ。悲しんだ先にあるものも、喜びの後にくるものも本人にしか分かり得ないのに、なぜ、わざわざ嘘を吐く必要があると思う? 悲しませたくないのは、自分がその相手の辛い姿を見るのが嫌だから。喜ばせたいのは、自分が満足したいから。そうやって突き詰めれば、悲しませたくないっていうのも、喜ばせたいっていうのも、その相手を想っているようでその場しのぎの主観的要素からくるものでしかないってこと。いまだってそう。アサヒがそうやって不機嫌になるのを厭うなら、僕は最初に簡単な嘘をひとつ吐けば良かったんだよ」

「……なんて?」

「鏡の中で不安そうにしているアサヒに向かってひと言、心配することなんて何もないよ、って」

「そんなの……まあ、そうなんだろうけど……ヨルの言ってることは私には難しいから……でも、それって嘘なの?」

「当たり前でしょ。心配することが何もない? あるよね。不安になるのは何があるのか分からないからだし、分からないから心配する。でもまあ、不毛だよね。そんな意味ない心配ごとなんて、考え始めたらキリがないし」


 僕の戯けた声に、姿見鏡の向こうでアサヒは朱い唇を尖らせる。


「ほら、そろそろ出掛けないと本当に遅刻しちゃうよ」

「……あ、ほんとだ」


 部屋から出る前にアサヒが見た時計は、学校へ向かういつもの時間を少し過ぎていた。 


「ねえ、ヨル。ママなんだけど……こっちに来てから眠ってばかりじゃない?」

「僕たちのために時々働いてはいるみたいだけど、まあ言われてみれば、そうだね」

「……」

「あー、なるほど。アサヒがいま何考えているか言ってあげようか?」

「言わないで」

「ふうん? 僕はアサヒのことならなんだって分かるんだけどね」

「ズルい。私はヨルのこと分からないのに」


 家を出て、学校までの不慣れな田舎道の永遠に続くような田圃に目を向けていたアサヒが、転校するならせめて二学期の始めにして欲しかったなと、愚痴をこぼした。

 アサヒの視線の先で青々とした稲の上を柔らかな風が吹き抜ける。草の上を縦横無尽に駆ける軌跡は、まるで見えない蛇が這い回っているかのようだ。

 新しい場所に慣れないのは何もアサヒだけじゃない。車や人のまばらな道も、広々とした空や目の前の開けた空間も、僕をひどく不安にさせる。


「……それでさ、何が変わるの?」

「え? それでって、何? 変わるって?」

「もう。アサヒは自分が言ったこと忘れちゃったの? 転校するなら学期が代わってからのが良かったってやつだよ」


 僕がアサヒに向かって呆れた声を出せば「ああ、うーん。分からないけど、突然の転校生なんていかにも訳アリって感じでしょ? 実際、大きな声なんかで言えない訳アリではあるのだけど。そのせいであれこれ聞かれるし。二学期の始めなら、そんなことなかったんじゃないかなあって……気が、する、から? かな?」と言いながら、目に見えるゴミなんか一つもついていない真新しい制服を軽く払った。目の片隅でボックスプリーツのスカートの裾が揺れる。


「学期途中だろうとなんだろうと、どっちでも同じだと思うよ? そもそもここ過疎地域っていうの? 学校だけじゃなくて、この町自体、転入者は珍しいみたいだし。別の意味でもアサヒは目立つから、あれこれ詮索されるのは変わらないんじゃない? でも僕としては夏休み前で良かったけどな」

「なぜ?」

「いくら前の学校が墓場だったとはいえ、休みの間は逃げ場の選択肢が少なくなるから、だよ。全部言わなくたって分かるでしょ」

「……でも」

「でも? でも、ってなに? ここ最近のアサヒは母親の男達からどんなふうに見られていたのか、もう忘れちゃったの? あの尻軽の母親の子供だからってことだけじゃない。アサヒの見た目は……」

「ヨルから悪口は聞きたくない……」

「嗜虐心を擽り、加虐心を煽るんだよ」

「そんなの私、知らないもの」


 片方の手で、もう一方の手首を強く握りしめ、黙ってしまったアサヒの心の裡を探る。

 その視線を落とした先にある、ほんの少し触れただけでも赤くなるその柔らかな薄い皮膚には、随分まえの太い指の痕が黄色くなってまだ残っていた。

 蛹から羽化したばかりの蝉のように、薄青に瑞々しく透明な少女がアサヒだとしたら、美しく柔らかなうちにと手で握りつぶしてしまいたくなるのは仕方のないことなのかもしれない。

 柔らかな稲を靡かせ田圃を抜ける緑色に燦く風が、アサヒの黒く艶のある長い髪をも掬い、背後へ流す。

 恐ろしいことがあれば庇われ、嫌なことには蓋をしてしまう、美しく綺麗なアサヒ。

 アサヒは覚えていないのだろうか。

 この引っ越しを前に、そこがどんなに田舎で今の場所より不便だったとしても、家移りするたびに怯えるよりは、ずっと良いに違いないと二人で話しあったのに。

 母親が恋人と別れる気配を感じる度に、いったい次はどんな男の家だろうかと、想像に震え眠れない夜がいくつもあったというのに。若いのか年寄りなのか、金持ちか貧乏か、アサヒという存在を知って母親から興味を移したりしないか、当りなのか外れなのか。それすらも、もう忘れてしまったのだろうか。


「それより今日、二限目数学なの。三限目は体育だし……ああ、もう。ヨルに代わって欲しい……」


 分かりやすく話題を逸らしたアサヒに、僕はそれ以上のことを言うのをやめた。


「二限目? ふうん? 数学の良さが分からないなんて勿体無いなあ」

「体育も嫌い」

「あー、それは分かるかも」 


 暫く物思いに耽りながら歩いていたアサヒだったが、何を考えているかといえば慣れない学校のことというよりも、結局は、その原因をつくった母親のことだった。


「ねえ、なんで戻って来たんだろう? だってここが嫌だから家出したんでしょ?」

「さあ? なんだろ。気まぐれ? 珍しく次の相手がいなかったから? だいたい終わりが見える頃には次の人を探してるのに、今度ばっかりは何の偶然か……あの人の考えてることはよく分かんないけど、でもまあ」


 多分、と僕が続きを口にしようとしたとき、中学校の正門が見えて言葉を飲み込んだ。不用意なことを言って、ただでさえ注目を浴びているアサヒが不審な目で見られたり、あらぬ噂を広められるのを怖れたからだ。

 僕たちは互いに黙ったまま、次々と昇降口に吸い込まれるように消える生徒のなかに何食わぬ顔で混じる。

 制服は便利で不便だ。

 外から見れば多勢に混じり個を消すことが出来ても、その実、内にあれば個々の差異は残酷なほどに明確であるのだから。









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