第2話 普請事業と応仁の乱

 そんな戦国時代の史実を前述では、大まかに書いてみたが、ここから先は、史実とは異なるお話として見ていただければいいかと思います。

 まあ、簡単にいえば、小説の中でもあるあると言われる、

「パラレルワールドもの」

 と言ってもいいだろう、

 あるいは、

「もしも、歴史にこういう人物がいれば」

 などという、

「時代小説に近い、歴史小説」

 というべきか、

「歴史小説に近い時代小説」

 というべきか、実に難しいところである。

 作者も、あまり深く考えていないので、書いていながら思いついたことを書いていく形になるので、却って面白くなるのでは? と思っています。果たして、どんな作品になることやら。。


 時代背景としては、戦国大名が全国に現れ始めた頃であっただろうか。北条早雲も、毛利元就も、まだまだ現役だった頃だ。

 北海道を除く、全国には、守護大名があり、次第に戦国大名が台頭してきて、下剋上が目立ってくると、それぞれの国の範囲は変わらなくとも、支配者の名前が目まぐるしく変わってくる。

 当時、日本地図があり、時代を把握できる人間がいれば、日本地図に支配者の名前を書かせていけば、結構移り変わりの激しさが、分かってくるのではないだろうか。

 群雄割拠の戦国時代、まだまだ戦闘のやり方も昔ならではで、単純なものだった。

「やあやあ、我こそわ」

 などと名乗りあっての一騎打ちなどもあったのかも知れない。

 そんな頃、一人の若い侍が、街道を使って、北を目指していた。

 戦国時代の入り口とは言っても、まだまだ、地域によっては、守護大名の力も強く、比較的、治安が守られていた。北の方の京から遠ざかれば遠ざかるほど、一人旅をしていても、さほど心配なことはなかった。

 もっとも、この侍は、かなり強いらしく、一度山賊のような連中に襲われかけたが、その首領を一撃のもとに倒して、他の山賊をたじろがせたということである。身の軽さは、剣の腕からすると、

「忍者の出身ではないか?」

 と思わせるほどだった。

 相手が巨漢であっても、相手の力を利用して、それほど苦労せず、相手を倒すすべを知っているのだ。

 だからこそ、街道を一人で旅ができるというものだった。

 彼は、みちのくも通り抜け、津軽までやってきた。そこで、船を雇うのだった。

「蝦夷地へ行きたいのだが」

 というではないか。

「蝦夷地? 結構金はかかるが、あんたに払えるのか?」

 と、少し荒くれを思わせる船頭が、いかにもマウントを取っていうと、

「ああ、金は心配いらない。これでどうだ?」

 と、布を巾着のようにして、腰にぶら下げていたものを外して台の上に、ばら撒くと、そこには見たこともないようにまばゆいばかりの小判が、山吹色に光っているのであった。

「こ、これは」

 と船頭が、腰を抜かしそうになるのを見て、若い侍は、ニヤリと口を歪めて笑みを浮かべると、

「これなら文句あるまい。それでも文句があるというのなら」

 と言って、今度は、巻物のようなものを広げて男に見せた。

 すると船頭は、先ほどの小判を見た時よりもさらにビックリして、侍の顔を見上げると、

「ええ、ここまで揃っていらっしゃるんなら、文句のいいようがありませんわ」

 と言った。

 この船頭は、このあたりで一番の手練れとして、その筋では有名であったが、それはあくまでも、船頭仲間だけのことであって、この男、どうしてそれを死っていたのだろうか?

 この男は他の船頭にはまったく目もくれずに、この船頭のところにやってきたのだ。見る目があるのか、誰かから情報があったのか分からないが、とにかく、得体の知れないおとこであるのは間違いないようだ。

「俺は、確実に北海道へ行きたいんだ。あんたなら安心だと思ったんだよ」

 というではないか。

 見るからに、身なりはシャキッとしていて、若いくせに、身分のある人物であるということは、船頭の目から見ても分かった。

 その筋で極めるくらいになる人間は、それなりに人を見る目も備わっているというもので、ここまで話をしただけで、船頭は、この男を気に入ったのだった。

 年齢からすれば、若造のくせにと言いたくなるくらいなのだろうが、そんなことは、どうでもいいくらいに、相手の技量の底がないという感覚に、初対面でまいってしまったと言ってもいい。

「代金は、そんなにはいらないが、蝦夷地に渡るには、何か理由があるんじゃないのかい? よかったら教えてはもらえないかい?」

 と船頭がいうと、

「いや、それはできない。申し訳ないが」

 ということであった。

 今までの船頭であれば、武器を突き付けてでも、聞き出そうとするのだろうが、まったく怯むことのない男を見ていて、却って、こっちの方がタジタジになっているのを感じると、それ以上は聞けなくなった。

――この男、只者ではない――

 と、話をするうちに、どんどんその思いは強くなっていったのだった。

「今の時期、海も荒れることが多いので、慎重にいかなければいけないので、すぐにといわけにはいかないが、それでもいいかい?」

 と言われた男は、

「ああ、任せた以上、そちらに従うだけさ」

 と、男の性根は座っているようだった。

「そうか、今のところ、四、五日くらいはかかるだろうと思っているが、様子が変わってくれば、教えるとしよう」

 と船頭は言った。

「ところで、船頭の連中は、こうやって船がさせない時は、どうしているんだい?」

 と言われると、船頭は、

「俺たちの本職は確かに船頭なのだが、それだけではやっていけない。農家を手伝ったり、武士のところで、剣術を教えてもらったりしているんだ」

 というではないか。

「ここの殿様は誰なのかな?」

 と言われて、

「中江弘忠様です」

 と答えたのを聞いて。

「そうか、中江氏というと、鎌倉時代に、幕府を支えた御家人の中の一人だな。確か歴史上は、北条氏に滅ぼされたことになっているが、やはり、やはり、北国に一族は逃れて行ったのだな」

 と侍がいうと、

「お侍さんは詳しいですね。確かにその通りだということを、私どもも聞かされていたんですが、知っているのはそこまでで、それ以上のことは知りません」

 という。

 この時代であれば、庶民がここまで知っているというのは、結構開けているということで、

「それだけ、領主の器が大きい」

 ということなのか、それとも、

「この男の器が大きいことで、領主も、の男だったらということで、それくらいの話」

 といいうことで伝えたのかも知れない。

 それを思うと、この男、あるいは領主のどちらか、いやそのどちらもが、しっかりしているという土地なのだろうと、侍は思った。

 確かに、こちらに来る時、

「北の方の土地の人間は、こちらの人間よりも、人間ができている人が多いということを聞いたことがあったが、そのことを確かめてくるといいかも知れない」

 と言われたのを思い出した。

 津軽というと、なかなか関東の人間であっても、みちのくの人間は。分かりにくいと言われている。

「一般的には閉鎖的だ」

 とi言われているが、果たしてどうなのだろうか?

 西国の、田舎などにいくと、閉鎖的なところは多い。しかしよほど気を付けておかなければ、あい手に欺かれることがあるとも教えてもらった。実際に西国に行くt、そんな連中が多いのも間違いないようで、痛い目に遭いかけたこともあったのを思い出した。

 西国でも、あれは、九州の豊後地方に行った時のことだった。(豊後地方とは、今でいう大分県のことである)

 そこを収めている守護大名に、

「謀反の動きがある」

 という情報が寄せられた。

 それを聞きつけて、実際に行ってみたのだが、その土地で、いろいろな情報をまず聞きつけるところから始めた。

 ここでこの男の素性を晒すと、彼は名前を、門脇上総守重光という。

 元々は、三河の国の守護大名の御曹司であったが、門脇家の次男ということもあり、領主になることはできないということで、父親の勧めもあり、足利幕府の役人として派遣することにした。

 守護大名の次男を役人に取り立てなければいけないほど、幕府の衰退はひどいものだったのだ。

 父親の目論見は、

「戦国時代を乗り切っていくには、幕府の内部から、政治というものを見ることができる人物が必要だ」

 というところにあったのだ。

 そんな状態で送り出したのだったが、次第に世の中がどんどん変わっていった。応仁の乱からあとは、何となく群雄割拠になるということは分かっていたのだが、その場合においても、いろいろな見方ができる人物が必要になるというのは必然であり、どちらにしても、重光を幕府に派遣することに悪いことはないのだった。

 重光は、幕府内部で、その実力をいかんなく発揮していた。

 そして、

――ここまで、幕府が腐り切っているとは思ってもみなかった――

 とも感じた。

 しかし、だからと言って、ここで態度を変えるのもおかしな話で、重光は、心の奥を隠して、幕府の仕事をコツコツとこなしていた。

 最初は、応仁の乱で廃墟になった京都の町をいかに再建するかということが先決であった。

 彼は、土木の知識もそれなりにあり、ちょうど、当時の幕府の普請工事のプロと呼ばれる人がいたことであった。

 その男の下で、重光は、普請事業のノウハウを勉強した。

 実はこの時の男は、その後、有力な戦国大名の家臣となり、

「城づくりにかけては、右に出る者はいない」

 とまで言われるようになったのだが、それは、まだ少し先の話だった。

 だが、時代は思ったよりも早く進んでいて、実際に、天守閣を持った城が築かれるようになるまで、それから、数十年くらいのことだった。

 実際の史実よりも、少し時間が進むのは早いようである。この人物や、重光の存在が絵歴史に大きな作用を与えたのか、それとも、ここからが歴史の分岐点であり、実際の歴史とはどっちが本当なのか、難しいところであった。

 京都の街が、廃墟になってから、なかなか普請事業もうまく行っていなかった。

 何しろ、平安京という、一国の首都が、ほぼ焼野原になったのである。再建するには、プロジェクトのようなものを作って、計画通りに進めなければいけないのだろうが、幕府にそんな力もない。

 再建に要する人員は、実際の十分の一もいないくらいで、実際に、

「何をどこから手を付ければいいのか?」

 と、途方に暮れるのが普通ではないだろうか。

 それを考えた時、

「私のような、田舎からの人間を、こんな大切な部署に配属させるというのは、どういうことなのだろうか?」

 と思った。

 最初は、それだけ期待をしてくれているのかとも思ったが、幕府を見ていると、そこまではない、

 ということは、とりあえず、人がいりそうなところに、配属したという、人材に関しては何も考えていないということではないかと考えたのだった。

 だから、最初から彼は幕府に対して、そこまで期待はしていなかったので、逆に、自分のやりたいようにできるというのが、気が楽だと思ったのだ。

――時代はまもなく幕府の力が地に落ちて、群雄割拠の時代になるんだ――

 ということも分かっていた。

 自分の祖国である三河の国が天下を取るかどうか、最初は父親から言われて、幕府に派遣された時は、

「三河のため、家のため」

 と思っていたが、次第に、そんな意識も薄れていった。

 それまでは、三河から出たこともなく、当たり前に、

「兄が家督をついで、私が、その補佐役をやることになるんだ」

 と信じて疑わなかった。

 何にしても、兄が中心であり、私はわき役でしかないんだ」

 ということを、どこか理不尽だと思っていたのだろう。

 三河にいる間には見えなかったものが、一歩三河を離れたことで見えてくるものが、ここまでたくさんあろうとは。

 自分でもびっくりするほど、違って見えてくるから不思議だった。

 それだけに、理不尽に感じる自分に嫌悪感を感じていた。

 三河からは、三人の家臣とともに、都に向かった。いかにも、

「商人の仕入れのための旅か、何かの行商ではないか?」

 と思うような感じであった。

 実際に、薬をかなりの数持っていた。

「途中の関所などで、何か怪しいと思われても、薬を持っていれば、行商だと思って怪しまれない」

 と言っていた。

 しかも、薬のような、緊急性のあるものであれば、怪しまれることもないというのが、作戦だったのだ。

 まだ、三河を離れる時は、自分が世間知らずの御曹司であるということを分かっていなかった。

 だが、初めて見る、領地の外の世界は、ここまで違って見えるものかと思うと、新鮮であった。

 三河から、尾張を抜けて、美濃に入り、そこから、近江、京へと向かう道で、いろいろな光景も見た。

 特にビックリしたのは、近江に入ってからすぐ、

「ここはなんじゃ? まるで海ではないか?」

 と、頭の中に地図は入っていたので、ひょっとしてとは思ったが、素直な直感として、「あるはずのない海が見えた」

 ということで。そこにあるのが、琵琶湖だということが分かっているにも関わらず、驚いたのだ。

 なぜなら、三河というところは、浜名湖がある。

 自分も領内にある浜名湖というものを見て知っていただけに、琵琶湖の方が広いとは分かっていても、ここまですごいとは思っていなかったので、ビックリと言う言葉を通り越していた。

 連れの連中も、このリアクションは、想定内だったようで、ビックリして立ちすくんでいる重光を見ながら、ニンマリと笑っていた。

 彼らからは、期待していたリアクションだったのだろう。

 それだけ、重光は純粋だった。

 今はかなりそれから成長もしているので、それだけ、一皮も二皮も剥けたのだろうが、重光の純粋さは変わっていなかったのだ。

 重光は京に入って、廃墟になった街を見て、先ほど見た琵琶湖の感動とは正反対の思いに至ったことだろう。

 その時に何を感じるかということが重要であり、重光のお供の人たちには、その時の落胆ではあるが、目の輝きを失っているわけではない重光の目を見た時、

「これなら大丈夫だ」

 と感じたものだった。

 そして、その役目が、この廃墟の復興だというのも、お供の人たちから見れば、

「ケガの功名だ」

 というくらいに思っていた。

 彼らは、もし、他のところに配属になるようだったら、一言進言してみようとまで思っていたようだ。

 今の幕府の勢いからしたら、言ってみれば、簡単に覆るくらいではないだろうかと思うのだった。

 どうしても、最初は田舎から出てきたという意識もあってか、京の町の大きさにびっくりさせられ、どうしていいのか分からなくなってしまったが、考えてみれば、最初から全体を見るのではなく、できる範囲に細分化して、できるところから対処していけばいいだけのことだ。

 実際に細分化してみれば、どこが復旧に時間がかかりようで、どこが掛かりにくいかということが分かってきた、手を付けやすい場所から片付けていけば、次第にそれまで難しいと思っていた遠いところも、すぐ横が復旧しているのだから、その流れでできるというものだ。

 まずが、細分化が必要だった。

 この作業は、自分と、自分のお供として三河から来た家臣とでやることになった。補佐としていてくれたが、この男、算術にはかなりの才能があるようだった。

 彼は名前を、三上頼経という武将で、重光より、五歳ほど年上だが、たえず、重光をサポートする役目で、一番頼りにしている家臣だった。

 三上家というのは、三河の国主の家老としては、一番手であり、先々代から、門倉家の家老として仕えていたのである。

 その中でも、頼経は、才能に溢れていることで、重光も、家臣とはいえ、一定の尊敬の念を抱いていて、いつでも、そばにおいておきたかった。

 今回も都に行くということで、お供の一人が頼経であってほしいと思っていたのだが、頼経であったことで、

「おお、小兵六と一緒というのはありがたう」

 と言って喜んだものだ。

 小兵六というのは、頼経の通称で、子供の頃から、そう言って、一緒にいた証拠であった。

「普請工事というのは、算術ができないと、何もできませんからね。私が算術を学んだというのは、御曹司が殿となった時、私が普請事業でお役に立ちたいと思ったからなんですよ」

 という。

 確かに頼経は、算術に関しての知識と発想力には感服するものがあるのだが、それ以上に、頼経の武術には頭が下がる。

 領内でも、なかなか頼経と武勇を競っても、勝る相手はいないのではないか?

 と言われたほどに、頼経の武勇は、知れ渡っていた。

 ある日、隣国の同盟を結んでいるという領主が、表敬訪問に来た時、

「三上頼経という家臣がいると聞いてきたにだが」

 と切り出した。

「はい、おります。今は息子に仕えてくれておろのだが、まだ元服してすぐなので、まだまだこれからだと思っております」

 と、父親が、若さを強調したいというのと、

「そんな若い人間をあなたが指名したというのはどういうことなのか?」

 という含みのような思いを持って、言ったようだ。

「そうか、わしが見て、使えると思えば、わしのところに連れて帰りたいと思ってな」

 というと、父親の表情は、まるで敵でも見るかのように、一瞬こわばってしまったが、

「いやいや、これは、悪い冗談であったな」

 と言われたので、一気に緊張の糸が切れたようだった。

 事なきを得ることができたが、

「まあ、もう少し時間が経ってから、もう一度見たいものですな」

 と言って高笑いをしたことから、まさか、父親が頼経を手放そうなどと思っていないことを百も承知で窯を掛けたのだった。

 もし、窯を掛けられて、それに乗るようでは、頼経という男も大した人物ではないということだろう。

 と、相手は思ったに違いない。

「ただ、わしは、彼のように聡明で、武勇に長けていながら、普請作業をさせれば、右に出ることのないと言われる才能を、戦にも生かせないかと思ってな」

 というのだった。

 きっと、自分の右腕になるような参謀役ということで、欲しかったに違いない。

 ただ、簡単に乗るようでは、安心して家臣として使えない。今回のように、しっかりとガードを張るくらいでないと、家臣は守れないし、まわりに対して信憑性もないだろう。

 それを思うと、隣国の殿様は、しっかりと見極めることができたのだろうと思った。

 最近は会っていないが、最近はよく都にも来ているということなので、

「そのうちに、会えることもあるだろう」

 と考えていた。

 この時代から、参勤交代というのが行われていて、それは、三代将軍の義満の時代からだったが、応仁の乱の前あたりから、参勤交代をする大名はいなくなった。

 目的は、江戸時代と同じで、

「大名に金を使わせて、幕府に歯向かう力をつけさせない」

 という理由だった。

 しかし、この当時は、大名行列というものはなく、質素なものだった。確かに大名の財政をひっ迫させるというのが大きな目的だったが、それ以上に、

「将軍警護であったり、幕府の仕事の一旦を担わせる」

 などという目的もあった。

 いくら、幕府の力が弱まったとはいえ、腐っても幕府である。江戸時代のような、幕藩制度が確立されているわけではないので、それぞれの大名もそれほど強い立場というわけではない。

 庶民派、大名よりも地頭の方が怖いくらいで、

「泣く子と地頭には勝てない」

 という言葉があるが、まさにその通りである。

 だが、応仁の乱で参勤交代などありえない状態になった。

 というのも、東軍と西軍に別れて、戦をしているが、それぞれの兵というのは、守護大名が京都に来て、戦をしていたのである。

 だから、応仁の乱の最後の方では、

「自分の国の家老などが、反乱を起こし、足元が危なくなってきた」

 というのは、

「鬼の居ぬ間に、クーデターを起こそう」

 という、いわゆる、

「下剋上」

 だったのだ。

 したがって、自国が危ないのに、いつ終わるとも知れない。中央での戦争など、やっていられないのも同じだった。

 もちろん、東軍も西軍も、その主導者から、

「勝った暁には、所領を倍にしてやろう」

 などという条件を持ちかけられたことでの、参戦だったのだろうが、うかうかしていると、現存の領地が危なくなり、下手をすると、追放されることになってしまっては、本末転倒である。

 そんなバカげたことをしてはいけないということで、急いで所領に帰って、自国領を平定しなければいけない。

 その時、領主は、

「もう幕府に従うことなどない。自分たちの土地は自分たちで守るんだ」

 という気概を持つようになったのだろう。

 それが群雄割拠というもので、ほとんど、幕府など、有名無実だった。

 それでも、中には応仁の乱に参加していない中立だった大名もいて、三河や、隣国の駿河の大名も同じだったので、参勤交代を行ったり、京都の町を少しでも復興させようと考えていたりもしていた。

 だが、今でこそ幕府にしたがっているが、心の中では、

「室町幕府もこれで終わりだ」

 と思っている大名も多いことだろう。

 この時、実は中立だった近隣の大名たちがひそかに同盟を結んでいた。

 政略結婚もそうだが、

「同盟国が他から侵略を受けたり、戦闘状態に入った時は、同盟国にしたがって、兵を出す」

 という取り決めになっていた。

 この時代は、それぞれの国が、利害関係に基づいて、同盟関係を結んでいた。その際に、人質や、政略結婚などという取り決めも取られている。このあたりは、どの時代の、どの世界の戦争でも、同じことのようだ。

「人間、考えることは、いつでも、どこでも、基本的には同じなんだろうな」

 ということであった。

 したがって、普請事業も、幕府に対しての奉仕も、計算ずくでなければやらない。応仁の乱の一番の原因は、日野富子による、

「将軍後継問題」

 だったのだ。

 一人の女の野望による損害は、あまりにも大きかったといえるのではないだろうか。

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