歴史の傀儡真実

森本 晃次

第1話 封建制度というもの

この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和四年一月時点のものですが、今回の小説は、時代物の架空小説となりますので、存在する人物や事件、架空の人物や事件が混在します。さらに、実在する歴史上の人物であっても、話として架空の話もありあすので、ご了承ください。また、その時代の言葉は、時代考証が分からないので、敢えて現代風に書いています。また、このお話は、架空の物語ですので、事件、時代背景には、若干のずれがありますことをご了承ください。


 日本の歴史というと、原始時代から始まり、古代、中世、近世(近代)、現代という形に分けられてもいいのではないだろうか。

 縄文、弥生時代(ここには、邪馬台国も含む)を原始時代、ここから、聖徳太子(厩戸王)の時代から、律令制度から、平安京のいわゆる藤原摂関時代までを古代、そして、武士の台頭から封建制度の時代を中世、そして、黒船来航による開国から明治維新を経て、大東亜戦争敗北までを近世、そしてそれ以降を現代という区別になるのではないだろうか?

 歴史の好きな人は、自分の好きな時代、あるいは、得意な時代というのがあり、ブラックボックスと祝える時代もあるだろう。

 時代の分岐点となるあたりを好きな人は多い。特に、平安末期の武士のおこりから、平家滅亡にかけて、さらには、下剋上の嵐となる、戦国時代。そして、英雄ともいうべき、明治の元勲や幕末の志士たちなどの物語などは、舞台やドラマにもなり、歴史を好きになれない人でも、英雄を好む人は多く、そこから、歴史を好きになる人も多いことだろう。

 歴史というのは、生き物のようなものである。

 数年前まで、それが正しいと言われていたことが急に、違うと言われるようになったりと、歴史認識というものは、必ずしも不変なものではない。

 いろいろな書物や、歴史的な秘宝の発掘が進むことで、歴史認識が、コロッと変わってしまうことで、それまで歴史上、悪役のような扱いを受けていた人間の汚名返上がなされたりおしている。

 逆に、英雄とされてきた人が悪役に回ったりもする。それが歴史の面白いところであり、今の時代では、女性も歴史に興味を持つ人が増え、

「歴女」

 などと呼ばれたりしているのだ。

 また歴史への見方は、その視点からも違ってくる。

 事件から人物を見るという方法、逆にその人物の動向から事件を見るという見方、それぞれに視点の違いから、逆の発想が生まれてきたりするものだ。

 事件も、人間も時系列で動いていくが、事件と人物を重ねてみた時、必ずしも、歴史というものが、時系列だけで見ていては分からない部分が見えてきたりもするものである。

 さらに、歴史を動かしたとされる、

「時代の分岐点」

 と呼ばれる、事件や戦争、クーデターなどは、それぞれの側から見ることで、まったく違った側面が見えてきて、

「今まで定説と呼ばれていたことは、実は逆だった」

 ということになりかねない。

 例えば、いわゆる「大化の改新」と呼ばれる、

「乙巳の変」

 というのは、

「権力をほしいままにしている蘇我氏が、帝よりも権力を握ろうとしたことで、中大兄皇子、中臣鎌足に討たれた」

 ということで、

「中大兄皇子、中臣鎌足はヒーローで、蘇我入鹿は、悪者」

 とされてきたが、見方を変えると、まったき逆である。

 というのも、そもそも、これを二つの見方から見ることができる。

 まずは、中臣鎌足と中大兄皇子による、単純な蘇我氏憎しによる、憎悪のよる犯行と見ることである。

 下級の豪族であった中臣鎌足は、しょせん、蘇我氏の嫡男であり、さらに頭脳明晰である蘇我入鹿に勝ち目はないという、劣等感、

 さらに、中大兄皇子とすれば、蘇我氏がいる限り、自分が天皇になれる可能性はない。それまでの時代の流れからいけば、蘇我氏ゆかりの、古人皇子、聖徳太子(厩戸王)の息子である、山背大兄王などが、後継の天皇候補であったが、蘇我入鹿によって、山背大兄王が滅ぼされたことによって、自分の身が危ないと感じたのだ。

 そんな二人の蘇我入鹿に対しての怒りが共有できたことで、蘇我入鹿暗殺計画が練られたのだ。

 史実として残っているような、皇極天皇が、蘇我入鹿を殺害した中大兄皇子に対して、

「これは何事ですか?」

 と言ったところ、

「曽我入鹿は、皇族を滅亡させ、蘇我氏が天下を握ろうとしていた」

 と言った理由は明らかにおかしいといえるだろう、

 特に当時は、外交的に、鎌足が中大兄皇子らが進める、

「百済一辺倒」

 の政策と、蘇我氏が進める、

「新羅、高句麗などども病状に振興を深めるというやり方での対立」

 さらには、昔からの国教を押し進める鎌足たちの考え方と、仏教の信仰も許すという、蘇我氏の考え方は、ことごとく対立していたのである。

 そういう意味からも、乙巳の変においての中大兄皇子の言葉は、言い訳にしか聞こえないと言ってもいいだろう。

 この時の外交と、平家と源氏の政策の違いからも見えてくる問題で、平家は、宋との貿易を推し進め、世界に目を向ける政治体制を作ろうとしたのに対し、源氏は、土地の確保を基準にして、家臣に土地を保証することで、上下関係が決まってくるという封建制度を推し進めたこと、のちの時代の、織田信長や、坂本龍馬のように、

「古いものを壊し、世界に目を向ける」

 という革新的な考えの人たちが、暗殺されるというのは、蘇我氏、平家と同じで、

「新しい時代を世界に目を向けることで切り開こうとする考え方」

 を、逆行させることになるのだった。

 歴史の専門家がいうには、

「乙巳の変、平家の滅亡、本能寺の変、竜馬暗殺」

 などは、それぞれに、歴史を百年学校させたと言ってもいいのではないかと言われている。

 歴史が証明しているのは、かつての日本は、世界に目を向けようとすると、討たれてしまうということであった。

 そんな時代の分岐点を見ていると実に面白い。

 歴史に、

「もしも」

 というのは、タブーであるが、

「もしも、歴史の分岐点で別の結果になっていたら?」

 果たして、現在はどうなっていたのだろう?

 そういう発想を考えな原発掘が進められ、出土したものに対して、専門家が研究を進める。

 その時、それまで定説とされていた話がありえないことであったり、ウソだったということも今では普通に絵リエルことなのだ。

 何と言っても、

「鎌倉幕府の成立が何年か?」

 という話が、ここ十数年くらいで言われていて、

「いいくにつくろう鎌倉幕府」

 という語呂合わせではないというのだ。

「いいくにつくろう」

 は、頼朝が征夷大将軍に任じられた時であり、この時に幕府を開くと宣言しているわけではない。鎌倉政権という形はあるが、それを誰が幕府と言ったのだろう。どうやら、のちの時代に、

「源氏の政権を、鎌倉幕府といった」

 ということになるのだろう。

 源氏は三代で滅亡しているが、それ以降の北条氏における執権政治が、鎌倉幕府の政治だとすると、征夷大将軍はお飾りであって、執権が政権のトップだという、少し歪な政権になっている。

 元寇という予期せぬ事態によって、幕府の滅亡が早まってしまったが、少なくとも、封建制度が確立されたのは、間違いなく、初代将軍の頼朝の時代であり、それがそのまま武家政治ということになるのだった。

 元々鎌倉幕府というのは、一種の、

「烏合の衆」

 であった。

 平家が都で権勢をふるっている時、平家以外の公家も武家も、平家に取り入っている連中以外は、いろいろ覆うところがあっただろう。平時忠の、

「平家にあらずんば人にあらず」

 と言ったなどというエピソードがそれを示している。

 藤原摂関政治の時も、不満を抱いている人もいたであろうが、何しろ、藤原氏は貴族である。昨日今日出てきた武士とは違うという意識があるのだろう。

 しかも、武士たちからすれば、平家が公家化していくのを見るのも嫌だったに違いない。貴族や公家が本来ならなるポストに上がって行って、そこで権勢をふるう。しかも、親族を皇族に嫁がせて、皇族と親戚関係を結ぶ。自分が帝の祖父などというと、もう、平家に逆らうものはいなくなるという計算だった。

 これも、以前から行われていることであり、藤原氏などの常套手段ではないか。藤原氏としても、たまったものではないだろう。

 もっとも、清盛としては、自分の父である忠盛が、清涼殿に上るようになるまでに、貴族から蔑まれてきているのを見ているので、

「今度は自分が」

 と考えたとしても、無理もないことだ。

 とにかく、自分の目の黒いうちは、平家の栄華を盤石なものにしないといけないと思ったはずだ。

 清盛は、義母の命乞いがあったからと言って、頼朝や義経などを処刑しなかったこと。そして、平家を貴族化させてしまい、戦もまともにできない後継者しかいなかったこと。

 そのあたりが、平家の命とりになったのだろう。

 そういう意味では、源氏も平家を滅亡させてから、三十年もしない間に、滅亡してしまうのだから、歴史というのは、実に面白いものである。

 頼朝は、清盛の失敗を繰り返さない。決して都に上ろうとせず、関東の足場を固めた。

 だが、清盛と同じことになってしまったという皮肉は、

「自分の死後、ロクな後継者がいなかった」

 ということであろうか?

 頼朝の死後は、まだ、十歳代の長男の頼家が、二代将軍になったが、その嫁の実家にあたる比企氏ばかりを重宝し、他の御家人の怒りを買い、幕府成立に貢献した十三人の御家人たちによる合議制が敷かれたのだ。

 しかし、頼家は、グレてしまい、母親の政子から、幽閉され、最後は殺されてしまった。そして、比企氏も滅ぼされた。

 そして、その次に将軍になったのは、まだ十三歳の実朝だったが、彼は和歌や文化人としては優れていたが、政治にはまったく興味がなかった。

 その頃になると、十三人の合議である御家人たちは、権力争いや謀略によって、次々に滅んできた。

 そして、最後に残った北条氏が、幕府の権力を一手に握ることになるのだが、その北条氏に一泡吹かせようと、最後に残った有力御家人の三浦氏が二代将軍だった頼家の息子に対して、

「父親を殺したのは実朝だ」

 と吹き込んで、実朝暗殺をほのめかしたが、本当の殺害目的は、二代目執権の北条義時であった。義時は難を逃れたが、実朝は殺され、そして、実行犯である頼家の息子も、北条氏に滅ぼされた。

 これで、源氏の将軍家血筋は耐えてしまったのだ。

 ここから先は、北条氏の天下であったが、アジアを全体を統合し、大帝国を作り上げた中国の王朝である元が、日本に対して攻撃を加えてきたのだ。日本は苦戦したが、

「神風が吹いた」

 という言い伝えで、何とか侵略から逃れることができたが、戦争に参加した武士に対して、論功行賞をしようとも、敵から奪った土地もないので、何もできなかった。

 封建制度の仕組みとして、家臣が領主である主君に、

「有事の際は、戦争に参加する」

 という兵役を追うが、それはあくまでも、論功行賞を含むものとしての兵役である。

 借金をしてまで、国防に参加したのに、恩賞がないのであれば、兵役に対しての球菌がないのと同じで、生活できない事態に追い込まれる。幕府も土地を奪ったわけではないので、与える土地はないのだ。これが、鎌倉幕府滅王への第一歩だったのである。各地で幕府に不満を持つ武士が、一揆を起こすのも、無理のないことであった。

 鎌倉幕府は、確かに外敵から攻められたことで、国家が不安定になったのも仕方のかいことではあったが、そもそも、幕府に対しての不満というのも、当然あったことだろう。

 何といっても、鎌倉幕府は、北条氏の独裁だった。元々は、坂東武者が朝廷とは違う、

「武士の世の中」

 を作り出したということで、

「いざ鎌倉」

 などという言葉があるように、封建制度のつながりをあらわした言葉である。

 将軍は、御家人に「恩恵」としての土地を与え、御家人は「奉公」として、有事の際には、将軍のために戦うことを誓う。

 それが証明されたのが、鎌倉幕府最初の危機だった、

「承久の変」

 であろう。

 源氏が三代で滅亡sたことで、幕府が公家から、将軍になれるような人物を探そうとした時、朝廷の方でも、

「今なら、鎌倉幕府を倒すことができる」

 として、遠征軍を差し向けることにしたのだ。

 ここで困ったのが、御家人たちである。

 本来なら、鎌倉幕府との間に形成された封建制度で、

「いざ鎌倉」

 の精神にのっとり、

「遠征軍を我々で迎え撃つのだ」

 というくらいの気概があっても当然である。

 何しろそれが武士というものだからである。

 しかし、ここで一番の問題は、

「相手が、朝廷の遠征軍だ」

 ということである。

「ここで戦ってしまうと、自分たちは朝敵になってしまう」

 ということであった。

 いくら、幕府ができて、武家政治が確立されたとはいえ、日本で一番偉いとされるのは、帝である。

 帝に弓を弾くということは、末代まで、

「朝敵」

 という汚名を着せられるということであった。

 自分はもちろん、家族、子孫にまでその汚名は残ってしまう。それは、あってはいけないことである。

 ということになると、御家人の士気は完全に下がってしまう。

 そこで、北条雅子が御家人の前で演説をする、

「初代将軍の頼朝公は、皆の土地を守り、武家政治を確立し、武士が朝廷や公家から、虐げられることのない世界を作った。この御恩は、海よりも深いものである。今こそ、その恩に報いるように、坂東武者の力を、見せつけようぞ」

 と言ったことで、朝敵になることを恐れていた御家人たちは、覚悟が決まり、一枚岩になった。

 幕府軍は、役二十万近くの軍勢で、京に攻め上った。数の上でも郵政だったので、朝廷軍はひとたまりもなかっただろう。

 そこで、初めて、本当の意味での幕府政権が出来上がったと言ってもいいだろう。

 最初の幕府政権とは違う形であったが、北条氏にとっては、独裁政権が築けたと言っておいいだろう。

 そこから少し安定した時代があったのだが、そこで訪れた元寇襲来事件。追い払ったとはいえ、攻め込んでの領地を得たわけではないので、与える恩賞な何もない。

 こうなると、幕府の骨組みは根底から狂ってくる。

 そこで、鎌倉で反乱がおこり、さらに、後醍醐天皇による、倒幕が始まるのだ。

 鎌倉幕府に不満を持つ武士が、朝廷側につく。しかも、朝廷弾圧に向かったはずの足利尊氏が、朝廷側に寝返った。

 幕府の崩壊は時間の問題だった。

 崩壊した幕府に変わって、今度は、後醍醐天皇が、

「建武の親政」

 を敷いた。

 これは、今までの武家政治から、完全に朝廷主導の政権になっていた。

 平安時代までの公家や貴族中心の政治であり、ないがしろにされた武士は、尊氏を慕って、今度は天皇に弓を弾くことになる。

 そんなこんなで出来上がった室町幕府であったが、朝廷が南北に別れるという南北朝という時代を作ってしまった。

 三代将軍、義満の時代には、室町幕府最大の勢力と権威を持つに至ったが、そこから先は、ずたずたであった。

 何と言っても、十五代歴代将軍のうち、二人が暗殺されていて、一人がくじ引きによってえらばれた将軍であった。さらに一人は、将軍とは名ばかりで、一度も御所に入ったことのない将軍もいたという。

 特に義満からあとは悲惨なもので、幕府の財政を顧みることがなかったり、何と言っても八代将軍、義政の時に起こった応仁の乱はひどいものであった。

 義政の正室であった、日野富子に子供ができなかったことで、出家していた弟を将軍後継にすると言ったことから問題が起こった。

 その後皮肉にも、富子に男の子が生まれ、義政は困ったが、どうしても、自分の子供を将軍にしたい富子が、山名持豊に助けを求めた、将軍の補佐役としての細川勝元と犬猿の仲であった山名は、これをいい機会と捉え、さらには、有力御家人の畠山氏のお家騒動も絡んできて、京都は東西に分かれて、大きな戦になったのだった。

 これが応仁の乱であり、全国から大名が招集されて、十一年にも及ぶ戦が起こったのだった。

 ただ、最後は、山名持豊も、細川勝元も死去し、さらに、戦争に駆り出された守護大名のお膝元である自分の領地で、家臣たちが謀反を起こしたりして、足元に火が付きだしたことで、続々と、兵が諸国に帰っていった。

 もうこうなったら、戦争などできる状態ではないということで、結局、どっちが勝ったというわけでもない状態で、京都が廃墟になっただけとなり、結局、室町幕府の権威は、完全に地に落ちてしまったといえるだろう。

 そこから、ちょくちょくと、小競り合いのようなものが起こるようになったが、もう、幕府に抑える力はない。

 そこで起こってきたのが、

「各地における守護大名の力の増大」

 であった。

 ここから、突入する戦国時代というのは、幕府から眠名された守護大名がそのまま、戦国大名になるというパターンもあれば、守護大名の家来が、守護大名に対して謀反を起こし、とってかわることで戦国大名んなるというパターン、さらに、国人と呼ばれるその土地にもとからいた、有力豪族が、守護大名を滅ぼして、自分が大名になるというパターンである。

 これらのクーデターを、下の者が上の者に成り代わるということで、

「下剋上」

 と呼ばれたのだ。

 そうなってくると、室町幕府は、有名無実ということになり、将軍の権威などあってないようなものだった。

 初期の戦国大名は、京都から離れたところから出てきた。

 関東の伊勢新九郎。彼が、関東を平定し、北条氏を名乗った。

 いわゆる、戦国大名、

「北条早雲」

 である。

 彼の築いた北条氏のよる天下は、秀吉の関東征伐で滅亡するまで、五代の栄華を誇った。北条早雲のことを、戦国大名のさきがけと呼んでいいであろう。

 さらに、西国では、大内氏が収めていた今の中国地方で、大内氏に対して謀反を企て、成功した相手を、

「三大奇襲」

 と呼ばれる戦である、

「厳島の合戦」

 で打ち破り、中国地方平定に名乗りを上げた毛利元就であろう。

 ちなみに、三大奇襲と言われる戦のもう一つは、前述の北条氏三代目である氏康による、

「河越夜戦」

 と呼ばれるものであった。

 さらに、もう一つは、世にも有名な、織田信長における、

「桶狭間の戦い」

 であった。

 いずれも、相手の兵力が自分たちよりも相手が圧倒的に勝っていることで言われた戦であるが、毛利元就の。

「厳島の合戦」

 では、寡兵であるほど有効な作戦を取った。相手の大群を、身動きも取れないほどの狭いところに追い込んで、周りから攻撃するという、実にうまい作戦だったのだ。

 島津氏が得意とした、

「釣り野伏せ」

 などと同じで、寡兵に対しての戦法としてうまい方法もあることを証明したのだ。

 戦国大名がどんどん出てくると、まずは、自国の統一を終えた戦国大名は次第に、近隣の土地を侵略するようになる。

 いわゆる、

「群雄割拠の戦国時代」

 というわけだ。

 そんな時代において、武勇に秀でた戦国武将が勢力を拡大していくのは当たり前のことだが、領有している土地を収めるのも、戦国大名にとっては大切なことだった。

 何しろ、自分が下剋上で上り詰めたのだから、油断すると、今度は自分が下の者からやられてしまう。敵は外にも内にもいるという覚悟が必要だ。

 そういうこともあり、戦国大名は、それぞれに、自分の領地と立場を守るためには、まわりの国に攻め込むだけではなく、同盟を結ぼことも辞さなかった。

 たとえば、自分の家族にあたる人間を、隣国の大名に嫁がせるという、

「政略結婚」

 や、人質を差し出させることで、下剋上ができないようにするなどということもしたりしていた。

 群雄割拠の下剋上の時代である。戦以外にも、頭を使わないと生き残ることはできない時代だったのだ。

 さらに、戦国時代は戦ばかりをしていたわけではない。領地でコメが取れなければ、戦をしようにも兵糧などもない。

 水害に見舞われるところであれば、大名が堤防を作らせたり、人工の運河を作り、水路を確保したりという、土木工事も大切だった。

 それが、城づくりにも生かされるようんなり、何といっても、攻められた時のかなめである城は大切であった。

 今残っているような、天守閣を持った優雅で壮大な城というのは、戦国時代には存在しなかった。

 ほとんどが山城で、堀などというものも簡素なもので、まるで櫓や砦と言った形のものを、一般的に、城と言っていたのだ。

 だから、実際に多い時には、宣告に数万もあったという。今でいうコンビニの数よりも多かったというのだから、すごいものである。

 それが、次第に、城に天守閣などが築かれるようになり、それが、権威になってきた。信長という男の存在感が現れてきたのが、この時代だったのだ。

 天下統一と言われているが、戦国時代の天下統一は、別に、

「全国統一」

 という感覚ではなかった。

 いわゆる、

「機内統一」

 というのが天下だったのだ。

 京都を中心に、丹後、摂津、河内、伊勢、尾張、美濃、三河、敦賀などと言われるような地域を統一できればいいというくらいだったのだ。

 だから、尾張から、都から離れていて、足利十五代将軍の足利義明を奉じて、京に凱旋したことで、信長の天下統一はなったと言ってもいいのではないだろうか。

 その後、本能寺の変が起こったとしても、それは、あくまでも後で起こったことであり、信長が、安土城を築き、岐阜で行った城下町をさらに発展させたことで作り上げた世界が、実際の天下統一の形だったわけだからである。

 信長の天下は、本当はここから先があったはずなのだが、本能寺の変から、山崎の合戦を経て、秀吉に委ねられることになった。

 これも、前述の、歴史における

「もしも」

 ではないが、

「この時、信長が死んでしまったことで、日本の歴史が、百年逆行したといえるのではないか?」

 と言われているが、まさにその通りではないだろうか。

 ただ、あくまでも、

「もしも」

 ということであって、本当のところは分からない。

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