第11話 人魚
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【人魚(にん-ぎょ)】
世界各国でその伝承が伝わるが、日本においては「かいでにん」、「うみでびと」などとも呼ばれ、その肉には妖力がこもるとされる。最も有名な逸話としては八百比丘尼の伝説があり、誤って人魚の肉を食べた女が不老不死となり、全国各地を行脚したとの話が伝わっている。
海はアタシのもんだ。
空が透けるほど浅い海も、光が吸い込まれていくような深い海も、すべてアタシの自由な国だ。
どんな海の生き物だって、アタシに敵う奴はいない。どれだけ狂暴な奴が来ても、アタシを目にすれば尾を巻いて逃げていく。そうしてアタシは静かになった海を一人で好きなだけ泳ぎ回るのさ。
そりゃあ確かに、たまには肌寂しくなる時もあるさ。でもそんな時は、人里近くの海の中から、適当に見繕った男に声をかけるんだ。アタシは海から顔を出して、陸にいる男に向かって叫ぶ。
「兄さん、不老不死に興味はないかい?」
そしてアタシは男に問いかけるんだ。
「老いも死も、兄さんの人生から取っ払ってやるよ。その代わり、たまにこうして岸まで来てアタシと遊んでおくれよ。
なに、そんなに難しいことじゃない。アタシは結構いい女だろう? 好きなようにアタシの体を使ってくれれば、アタシも満足さ」
たまに驚いて逃げ出す甲斐性なしの男もいるけれど、大抵の男はアタシが本物だと気づくと、目を輝かせてアタシの誘いに乗る。
アタシはそうして気まぐれに男を従え、海を我が物にして生きて来た。
だけど、この前変な奴に出会ったんだ。
その時のアタシは、アタシにしては珍しく二百年も男と遊んでいなかった。そこになんだか魅惑的な人間の匂いが漂ってきたから、たまらずアタシは海から顔を出したんだ。
だけどそこにいたのは女だった。
夏なのにパーカーのフードを深く被って、ぼろっちい釣竿を持ってさ。
あたしはガッカリしちまった。アタシは女に興味はないんだ。アタシはとんだ期待外れだと思って、またすぐに海に潜ろうとしたよ。
だけどその時、ちょうど女が垂らしてる釣り針の先が近くに見えた。そうしたら気になって気になって、つい声をかけちまったんだ。
「姉さん」
「ん? 何?」
アタシを見た人間は、最初は多少なりとも驚くもんだ。なのにそいつは当たり前みたいにアタシの問いかけに答えた。後で聞いたら、「幻覚には慣れてるんだ」なんてよくわからないことを言ってたっけ。変わった女だよ。
とにかく、それでアタシは気になってたことを聞いたんだ。
「あんた、一体何をエサにしてんだい?」
姉さんがつけている餌からは、アタシが嗅いだことのない変な臭いがしていた。
「消費期限警察に捨てられそうになった、納豆の粒」
そう言うと、姉さんは疲れた顔で続けた。
「うまいことタダで魚が食べられないかなーとか考えたのが馬鹿だった」
アタシはとりあえず聞くことにした。
「釣れるかい?」
「まったく。もう三時間は粘ってるけど、てんでダメ」
アタシは呆れて答えた。
「だろうね」
なんだか帰る気を削がれちまったアタシは、姉さんが座る岸の近くに肘をついて、尾は海の中にくゆらせながら言った。
「それならちょっと世間話に付き合ってくれよ。普段だったら女と話そうなんて思わないんだけど、手頃な男も周りにいないし、退屈過ぎて死にそうなんだ」
「奇遇だね。ボクも退屈過ぎて死にそうだった」
それから姉さんとアタシはぽつぽつとお互いのことを話し合った。
最初は変な女だと思ったけど、意外と姉さんの話は面白かった。姉さんが言うところの「幻覚」はあらゆるところに現れるらしい。陸の上は、アタシが思ってる以上ににぎやかみたいだ。
「ところで」
世間話もひと段落したところで姉さんが聞いた。
「人魚の肉を食べると不老不死になるって話が有名だけど、あれって本当なの?」
アタシは尾を軽く振って答えた。
「あれま、姉さんも興味があるのかい? 本当だよ。アタシは基本的に男にしか自分の肉を食わせてやらないんだけどさ、姉さんはなかなか面白いし、どうしてもっていうなら食わせてやろうか」
「いや、いい。興味本位で聞いただけだから。ボクは自分が死ぬ選択肢を手放すつもりはないよ」。
「ふうん、つまんないね」
アタシは少しだけむくれて答えた。それでも何となく、姉さんが気にした不老不死について答えてやる。
「そうさ。アタシの肉を食べた人間は不老不死になる。
といっても、アタシだってアタシのこの玉の肌が傷つくのはごめんだ。だからいつも、尾っぽのところの肉をほんの一欠けらだけ食わせてやるんだ。それで十分さ。
それだけ食えば、その男は老いも病気も不慮の死もない、永遠の時を生きられる」
アタシがそう言うと、姉さんは首をかしげて聞いてきた。
「今までに不老不死になった男たちは今どうしてるの?」
姉さんの質問に、アタシは笑って答えてやった。
「人間って言うのは脆いもんさ。
体は不老不死になっても、心は追いつかないらしい。
大体が親しい人間を何人か見送ったあたりかな。揃いも揃って、暗い目をしてアタシのところにやってきては言うんだ。『俺を殺してくれ』って」
アタシの肉を食べた人間は、老いも病気も不慮の死も無縁になる。
だけど、その人間が死ぬ方法が一つだけあるんだ。
アタシに食われることさ。
でもさ、失礼な話だと思わないかい? 同じ人間じゃないかもしれないけどさ、アタシも不老不死になった男と同じ時間を生きてるじゃないか。それなのに、そいつらはアタシだけじゃ駄目だって言うんだ。
まあ、それでもアタシだって鬼じゃない。アイツらが望んだら、アタシはすぐにアイツらを喰らってやるよ。頭からバリバリとね」
そう言ってアタシは腹のあたり、人間の体と魚の体の境目当たりを撫でながら言った。。
「だからアタシの腹ん中には、これまで喰ったたくさんの男が積み重なってる」
それからアタシは意地悪く姉さんに聞いてみた。
「どうだい? アタシのことが怖くなったかい?」
だけどアタシの期待は外れて、姉さんは小さく首を振った。それから姉さんはアタシに聞いた。。
「気になってたんだけどさ」
「なにさ」
「君は死ねないの?」
予想していなかった質問に、アタシは少しだけ虚を突かれた。だけどそれを悟られるなんて格好悪いじゃないか。アタシはすぐに言い返した。
「さあね。そんなこと、想像したこともないからわかんないよ。どうせこれからも、今までと同じでずっとこの海を自由に泳ぎ回るんだろうさ」
そんなアタシに向かって、姉さんはぽつりと呟いた。
「かわいそうに」
アタシは戸惑った。アタシはこの海の王者だ。これまで一度たりとも憐れまれたことなんてない。それなのに、姉さんはそのアタシに向かって言うんだ。
「死は誰にでも訪れる平等な権利だ。君もそうあるべきなのに、どういうわけかそのルールからあぶれてしまったんだね」
アタシは何も言えず、姉さんの顔を見た。
「君だってその辛さが分かってるから、男が望めば、すぐに食い殺してあげたんだろう?」
それから姉さんは水の中に浸かったアタシの尾のあたりをじっと見つめた。
「君はいつも尾っぽのところの肉を食わせるって言ったね」
「そうだけど」
アタシはつっけんどんに答えた。何となく姉さんの言いそうなことが分かったからさ。
「君の尾はあちこち欠けて、いびつな形をしている。それだけ数えきれないほど沢山の男に君の肉を食べさせてきたんだろう? 少しの間でも一緒の時を生きてもらうために」
アタシは尾でぴしゃっと水面をはじいて、姉さんの頭から水をかけてやった。
「嫌なところばっかり気が付く女だよ」
水浸しになった姉さんが肩をすくめる。それを見ながら、アタシは自分の目から、きっと数百年ぶりに違いない涙が流れるのを感じた。
アタシはその涙を隠すため、急いで水の中に体を沈めた。
海水越しに姉さんの声が響く。
「さっきも言ったけど、ボクは不老不死を望まない。死の権利を失いたくないからね。
でも、君には面白い話をしてもらったから、ちゃんとお礼をしたい。君と一緒にいるのは男じゃなきゃだめなの?」
アタシは海の中から答えた。
「だって、男以外の誰がアタシに長々と構ってくれるのさ。男は簡単だよ。ちょっと体を与えればいいだけだからね」
「ふーん。それはなかなか、大人な世界だ」
平坦な声で言って、それから姉さんは続けた。
「ボクは親族が多くてね。今度、ボクの姪や甥が東京に来るんだ。上京してわざわざ釣りってのも変だけど、今度そいつらを連れてまたここに来ようと思う。その時に君のことを紹介するよ。
それから、ボクが子供を持つかは怪しいけど、ボクのたくさんいる親族のうち誰かは子供を持つと思う。そしたら、ボクはその子たちに、また君に会いに来るように伝えるよ。そしてそのまた子供にも、そうするように伝えてもらう。
もちろん、一人一人の命の長さは君からしたらあっという間だ。だけど、ボクの親族の子孫たちが、誰か絶えずに君のことを覚えている。
人間は君が言った通り脆いよ。でもそう考えると強い面もあると思わない?」
それから姉さんは体を海の上に乗りだして、アタシを覗き込むようにして言った。
「どう? ちょっとは君の孤独の慰めになる?」
アタシは目から上だけを水の上に出して、あぶくとともに言った。
「馬鹿馬鹿しいね」
それからアタシは尾を大きく翻し、水面の上を跳ねながら言った。
「まあ、考えておいてやってもいい。でももし本当にまた釣りに来るなら、今度はちゃんとした餌を用意しときな」
アタシは静かな海の中を真っ二つに割りながら泳いだ。
海はアタシの王国だ。この王国では、アタシは自分のためだけに生きていく。
だけど、もし気が向いたら今度、子供が喜びそうな綺麗な貝でも集めておこうかしら。
―第11話 人魚 【完】
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