合戦28日前

第110話 「止めてよ……」半裸のカヤノが呟いた

「す――――…………。す――――…………」


 目を覚ますと、半裸のカヤノが寝台の中に潜り込んでいた。


 眠っていたとは言え、俺に一切の気配を感じさせないとは……。


 やはり神仏の類と申すべきか?


 平生へいぜいならばそこで終わらせても良いのだが、今の姿は目のり場に困ることこの上ない。


 胸は大きくはだけ、太腿は付け根まで丸見えだ。


 身体を離し、少し目を逸らしつつ、カヤノの細い肩を揺らした。


「おい……」


「す――――…………。す――――…………」


「起きんか。おい、カヤノ?」


「す――――……。止めてよ……もう飲めない…………」


「ありきたりな寝言を…………む? な、何だこれは……!?」


 薄暗い室内を見渡してみれば、樽やかめが雑然と並んでいる。


 日ノ本の酒甕も多いが、中には異界の葡萄酒や麦酒の樽の姿もある。


 もしやと思ってカヤノに顔を近付けてみると――――。


「…………酒臭い」


 いや、酒そのものの匂いがすると言っても過言ではない。


 飲んだのではなく、頭から酒を被ったのではあるまいか?


 左様に思わせる程に強烈だ。


 半ば寝ていた頭が一気に覚醒する。


 数日振りに姿を見せたかと思えば、何だこれは?


「おい! 近習衆! 誰かある!?」


「はっ……」


 呼ばわると、宿直とのいをしていた春日源五郎が、なんとも申し訳なさそうな様子で顔を出した。


 頬や額には生々しい引っ掻き傷がいくつもある……。


「むう……。昨晩も壮絶だったようだな……」


「矮小な人の身で、神仏の行く手を阻む事など出来ようはずもござりませんでした……」


「俺を起こしてもよかったのだぞ?」


「若は日々の仕置でお疲れにござります。お起しするなど出来ませぬ」


「無言無音で戦ったのか? 器用な事をする……」


「恐れ入りまする」


「ところでこの樽や甕は何だ? 匂いだけで酔いそうだぞ?」


「カヤノ様がどこからともなく持ち込まれたのです」


「屋敷の酒ではないのか?」


「はっ。手前も気になり源三郎に確かめさせております。今のところ、辺境伯邸の台所も酒蔵も無事とのこと。今は家人けにん用の台所を調べさせておりまする」


「左様か……」


 これは本人に尋ねるしかあるまいと、再びカヤノを揺すってみるが、「もう飲めない……」と例の寝言を繰り返すばかりで一向に起きない。


 頬をつねってもダメだ。


 最後の手段と鼻を摘まんでみたが、即座に手を払われてしまった。


 なんと恐るべき剛力か……。


「致し方ない。起きるまで放っておくとしよう」


「樽や甕の出所は如何に致しましょう?」


「人から盗んではいまい。酒意地は張っておるが飲む前には必ず断りを入れる奴だからな。まあ、止めたところで飲むのだろうが……」


「案外行儀のよろしい御方にござりますな……」


「案外? カヤノに聞かれたら捻り潰されるぞ?」


「お忘れください……」


 特に恐れる様子も見せずに頭を下げる源五郎。


 瞳がギラリと光っている。


 どうせそのときこそ雪辱を……とでも思っておるに違いない。


 我が家中は血の気が多い者ばかりよな。


 神仏相手でもこのザマよ。くっくっく…………。


「さて、半端なとことで目が覚めたかと思うたが、そろそろ日が昇りそうだのう?」


「はっ」


「身支度をする。準備せい」


「隣室に整えてございます」


「用意が良い奴よ」


 隣室に移ると、洗顔用の水から着替えまで、万事恙無く整っていた。


 さすがに酒樽と酒甕で足の踏み場もない部屋では着替え一つ碌には出来ぬ。


 出来た近習は有難きものよ。


 顔を洗い、口をゆすいでいると、秋山源三郎が戻って来た。


 家人用の台所にも変わりはないらしい。


「酒の出所がますます分からんのは気になるが……。まあよい。見回りに出るぞ」


「「はっ!」」


 源五郎と源三郎を供に屋敷の庭に出る。


 途端に初冬の冷え切った空気に包まれた。


 薄暗く、もやで視界は白く濁っている。


 日は昇っておらず、東の空がようやく白み始めたところであろう。


 足元に気を払いつつ、庭に変わったところがないか見て回り、屋敷を囲む石塀に壊れたところがないか確かめる。


 辺境伯の別邸とは申しても、さほど広い屋敷ではない。


 ネッカーの町自体が大きくはないからな。


 ゆっくりと見て回っても、さほどの時は掛からぬ。


 母屋の周囲を回り、厩の辺りまでやって来ると、薄靄うすもやの向こうから馬の口を引く人影が近付いて来た。


「おはようございます。サイトー様はいつもお早いですな」


 馬丁頭のシュテファンだ。


 口を引かれた黒金くろがねが「ぶふふふっ!」と嬉しそうにいなないた。


「黒金の散歩か?」


「ええ。ちょっと町の中を一回りしてきますよ」


「世話を掛けるのう」


「何を仰います! サイトー様には大事なお仕事があるんです! クロガネの世話の一つや二つ、あっしら馬丁に任せておいて下さい!」


 シュテファンは笑顔で答えると、黒金を引いて町の方へ向かった。


 しかし、辺境伯家の馬丁は誰も彼も優れた者ばかりだ。


 黒金は気難しい性格で、なかなか他の者に懐かぬ。


 背に乗せることなど滅多にないし、口を取らせるのも嫌がるのだが……。


 ここの馬丁達も始めの内こそ苦労していたようだが、いつの間にか黒金との付き合い方に覚えてしまった。


 どうやら異界では、日ノ本以上に馬の数が多く、馬の扱いに手慣れた者も多いらしい。


 故に、優れた馬丁も多い。


 蹄鉄の件と言い、当家でも異界の馬丁を雇い入れるべきかもしれぬ――――。


――――と、その時、再び薄靄うすもやの向こうに人影が見えた。


「おおい! シンクロー!」


 俺を呼ぶ声に近付くと、簡素で動きやすそうな服を着たミナが待ち構えていた。


 手には木で作った剣を握り、長い銀の髪は後ろで一つにまとめている。


「待たせたか?」


「いいや。私も来たばかりだ。シンクローはまた屋敷の見回りか?」


「うむ」


「当家の警備に任せてくれてもいいんだぞ?」


「朝夕の屋敷の見回りは武士のならい。欠かすと調子が狂う」


「そうか? それならいいんだが……」


「それはそうと、稽古を始めるとしよう」


「ああっ!」


 嬉々として素振りを始めたミナの横で、俺も刀を抜いて素振りを始めた。


 起床した後に行う屋敷の見回りと武術の稽古は武士のならい


 辺境伯邸で寝泊まりしている時も、欠かさずに続けている。


 俺の日課に何故ミナが付き合っておるのか?


 あれはゲルトとの戦の直後。


 早朝、庭先で刀を振っているところをミナに見付かった。


 そして何と申したと思う?


「シンクローだけズルい!」だ。


 何が「ズルい」のかサッパリ分からんが、曰く、「稽古をするなら自分も誘うべき」なのだそうだ。


 女子おなごの身で騎士なんぞやっているだけのことはあり、剣術の上達に余念が無いらしい。


 日ノ本の武術にも並々ならぬ興味があるようだしな。


 ちなみに、稽古のついでに何度も勝負を挑まれている。


 初めて会った時、徒手の俺に負けたことが余程悔しかったらしく、何度負けても再戦を挑んでくる。


 今のところ、俺の二十三勝・負け無しだ。


 これだけ負けが込んでも、ミナはへこたれることも、諦めることもしない。


 さて、今朝は挑んでくるかのう?


「シンクロー」


「お? 何だ? 勝負か?」


「今日はいい。それより、ちょっと打ち込みを見てくれないか?」


 左様に申すと、ミナは人の背丈ほどある木杭の前に立った。


 四、五寸ばかりの太さがあり、根本は土に深く差し込まれている。


 異界の稽古道具の一つで『ペル』と申すらしい。


 これに向かって剣を打ち込むことで、剣の正しい振り方を学び、剣を振るのに必要な筋肉を鍛えるのだ。


 全力で打ち込みを続ければ、如何に精強な騎士であっても四半刻ももたずに疲労困憊となる。


 俺も試してみたが、後に控える仕事なぞ放り出したくなるほどに疲れた。


 戦場で手柄を立てるには――――いや、戦い抜くには、まず体力がなければ如何ともし難い。


 そして、単調で過酷な稽古を淡々と続けるには、心を強く持つことも欠かせぬ。


 『ペル』の打ち込みは幾重にも役に立つ稽古と言えよう。


 さて、ミナが剣を振り始めた。


 脇見をする事は無く、無駄口も叩かず、一心不乱に剣を振る。


 剣が『ペル』を打つ小気味よい音が、薄靄うすもやを切り裂いて鳴り響く。


 源五郎と源三郎が「ほう……」と感心した様子で声を漏らした。


 真っ直ぐな、良い剣筋だ。


 剣は吸い込まれるようにして『ペル』へと向かう。


 『ペル』に目を遣ってみれば、人の頭から肩辺り高さにかけて大きくへこんでいるのがよく分かる。


 左右共に、一寸ばかりはへこんでいようか?


 内側に向かって綺麗な弧を描いてな。


 その表面は、つるつるとして滑らか。


 同じ箇所に、幾度も剣を打ち込んだ証だ。


 生半可な打ち込み数では、木杭もこうはなるまい。


 ミナは疲れた様子も見せず、五十、百、百五十、二百と数を重ねていく。


 …………やはりこの娘、強い。


 自分で申すのもなんだが、俺に負けたのは相手が悪かったとしか言えんと思うんだがな……。


 そこまで悔しがらずとも……………………いや、左様に慰めてもミナの心には響くまい。


 心の奥底から剣術に打ち込むが故に、勝利を得ずして悔しさが晴れる事はないのだ。


 俺もきっとそうするであろう…………。


 ミナの打ち込みが三百に達した。


 頬は上気して桃色に染まり、髪をまとめて露わになったうなじを汗が流れ落ちていく。


 源五郎と源三郎が「ほう……」と、先程とは別の意味で声を漏らした。


「おい…………」


「「失敬……」」


 とりあえず睨みつけると、二人はそれぞれ別の方向へ目を逸らした。


 ………………いや、気持ちはな? 気持ちは分かるんだぞ?


 あの姿を目にして、美しい、艶っぽい、なまめかしい、そそる…………などと思う気持ちは痛いほど分かるんだぞ?


 いつもの堅苦しい騎士服と違い、薄手の動きやすそうな服だ。


 汗で張り付き浮き上がった身体の線――――。


 上下に激しく揺れる胸のふくらみ――――。


 ――――心躍る気持ちは、それはもう痛いほどに分かるのだぞ?


 ただし、其方らには見せてやらん。


 俺だけがミナを見ておればそれで良い。


「シ、シンクロー……?」


 俺の心中を見透かしたが如き頃合で、ミナが俺を呼んだ。


 慌てず騒がず、動揺を表に出さず、真面目に見ていた風を装う。


「……何か?」


「いや……打ち込む姿勢は……崩れていないか……?」


 ふう……危ない危ない……。


 一つ頷き、さも一振りも見落としていないかの如く答えた。


「オホン……。打ち込む力は多少弱くはなっておるが、姿勢は保っておるぞ」


「分かった……。千振り目指して……続けるぞ……!」


 打ち込む剣に再び力がこもった。


 この様子なら……千振りは十分に望めそうだ――――。


「――――きゃああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!!!!」


「な、何だ!?」


 絹を裂くかの如き悲鳴に、ミナが思わず手を止める。


 源五郎と源三郎が腰の刀に手を掛けた。


「あの悲鳴……幼い女子おなごのものに相違あるまい!」


「正門の方から聞こえたぞ!」


「朝も早くから剣呑な事よ! 参るぞ!」


「ああっ!」


 俺達は屋敷の正門に向けて走り出した。

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