第103話 「匂いを感じましたの!」ストーカーの叫びに空気は凍った

「むのぐふふふ……! ふいふおふあっ!? ふいふおふあでふのえっ!?」


 蓑虫こと、カロリーネが何事か騒ぎ出した。


 クリストフのいる方に向かって、しきりと首を伸ばそうとしておる。


 これはもしや……この場にクリストフがいる事に気付いた?


「ひいっ……!」


 クリストフはガタガタと震え出し、俺の腰に縋り付いたまま片手を伸ばし、ミナの腕を取って引き寄せた。


「あっ……!」


 クリストフはミナを盾にするつもりで引き寄せたのであろう。


 しかし、あたかも俺がミナを抱き寄せたような体勢になってしまう。


 ミナの髪から、ほのかに甘い香りがフワリと広がった。


「ちょ……! シンクロー!」


「苦情はクリストフに申してくれ」


「だ、だがクリストフ殿は……」


何時いつもながら良い香りだ」


「シンクロー!」


 ミナはなるべく身体を離そうとするが、クリストフが強く腕を掴まれているためか、もぞもぞと動くのみ。


 むしろ余計に身体が密着している気さえする。


 ミナの頬が桃色に色付いた。


 なんとも得をした気分だが、クリストフはそれどころではないらしい。


 小さくなって震えている。


「ところでミナよ」


「何だ!? こんな時に!?」


「『すとうかあ』とか申しておったであろう? 一体何なのだ?」


「え? 異界にはストーカーがいないのか?」


「俺は聞いたことがない。誰か知っておる者は?」


 左馬助や近習衆が首を振る。


「クリストフを何とかするためにも知っておきたいのだ。教えてくれ」


「し、仕方がないか……」


 ミナは諦めた様子で説明を始めた。


「悪質な付き纏い行為を行う者をストーカーと言うんだ。被害に遭うのは、ストーカーから一方的に好意を寄せられた者や逆恨みされた者……。時には被害者の家族や友人、知人が巻き添えになる事もあると聞く」


「迷惑至極よな。左様な連中がこの国の都にはのさばっておるのか?」


「ここ何年か、帝都に住む貴族や富裕な民の間では問題になっている。さる貴族の令嬢と恋仲にあると思い込んだ近衛騎士が、婚約の決まった令嬢を殺害した事件も起こったくらいだ」


「人が死んでおるのか? 只事ではないな……」


 カロリーネが真にストーカーであるならば、クリストフが怯えても仕方があるまい。


 だが、クリストフの怯え方は尋常ではない。


 九州衆にもまれ、初陣も遂げ、胆力が付いたはずのこ奴が、ここまで震えあがるのだ。


 殺された令嬢と同様、さぞかし恐ろしい目に遭ったのではないか?


 ならば致し方なし。


 俺が一肌脱ぐとしよう。


 義兄上あにうえと慕ってくれる者を、捨て置くことなど出来ようはずがない。


「おい、クリストフ? クリストフ? 聞こえておるか?」


「…………はい」


 クリストフの声は掠れ、間近に寄らなければ聞こえぬ程に弱々しい。


「案ずるな。俺が助けてやる」


義兄上あにうえが……?」


「ああ。とりあえずミナは離してやれ」


「は、はい……」


 クリストフはようやくミナの腕から手を離した。


「其方はどうして欲しい? なるべく望み通りにしてやろう」


「……ぼ、僕は……この人が好きじゃありません……。その……性格が……この人の性格、生理的に無理なんです……。父と同で……立場が下の者にひたすら横柄で……。ストーカーじゃなくても願い下げです……。だから、僕の事は諦めて欲しいです……」


「お、おう……。そうか……」


 生理的に合わない、と来たか。


 辛辣な事をサラリと言ってのけたな……。


 だが、あれだけ嫌っていた父親とカロリーネが同類と思うておるのであれば、それも仕方のないことかもしれぬ。


 俺とミナは顔を見合わせて苦笑いし、左馬助達は「致し方なしですな」と首を頷き合っている。


「で、でも……本当に何とかなるでしょうか……?」


「うん? 何か心配があるのか?」


「あの人……異常なんです……。行動も……執念も……。四六時中尾行してくるし、まいたと思っても行き先では必ず待ち伏せているし……。鍵を何重にも掛けた部屋に忍び込まれた事もありました……。ベッドの下や天井裏に隠れていた事も……。食事の中から何かの毛がたくさん出てきたこともありました……。水差しの中から妙な臭いがしたこともありましたし、中の水に妙なとろみがついていることもありました……。あの人の目を逃れて帝都を脱出し、故郷へ帰れたのは奇跡でした……」


「「「「「…………」」」」」


 全員が押し黙った。


 押し黙るしかなかった。


 気まずい沈黙を打ち破るため、何とか言葉を絞り出す。


「な、なんとも恐ろしい娘だな……。領地にいる時からそうだったのか?」


「いえ……。マルバッハ家は、レムスタール公爵家の分家だからと、プライドがものすごく高いんです……。だから、娘の嫁ぎ先は伯爵以上の爵位がなければダメだと……。子爵以下の家の子弟には、会わせていなかったはずです……。僕も帝都で初めて顔を合せました……」


 箱入り娘がクリストフを見て一目惚れ……というところであろうか?


 なにせ男も目が眩むほどに、見目の好い男子おのこであるからな。


 稚児ちごや小姓となれば、血で血を洗う闘争が幕を開けておったやも知れぬ。


 思えば、九州衆はよくぞ正気を失わずに済んだものよ……。


 ……いや待て。真に正気を保っておるか、念のために調べて置いた方が良いかもしれん。そう、念のためにな……。


 それはさて置き、如何にするかのう――――。


「ぐむんっ!」


「「「「「……!」」」」」


 妙な掛け声が室内に響く。


 振り返ってみれば、カロリーネの猿轡は噛み千切られ、目隠しはずれ、耳栓は床に落ちていた。


「クリストフ様っ!? 嗚呼ああっ! わたくしの天使! クリストフ様ですのねっ!?」


クリストフが「ひいっ!」とさらに身体を小さくして俺の陰に隠れる。


「……ミナよ、『てんし』……とは何だ?」


「……天上に御座おわす神の御使いだな。穢れを知らない、清浄で無垢な存在だ」


「左様に尊きものと同じだと……?」


「自分の恋人や子ども……。大切な者を天使と例えて呼ぶことは珍しくない……。珍しくはないんだが……」


「うむ……。あれは些か常軌を逸しておる気がするのう……」


 そこはかとない恐れを抱きつつカロリーネに目を遣ると、あ奴はまだとんでもない事を抜かしおった。


「クリストフ様の匂いを感じましたの! これも愛の力、ですわね!?」


 我が耳を疑った。


 こ奴、匂いと申したか?


 匂いでクリストフがいる事に気付いたのか!?


 ……ゾッとした。


 背中に冷たいものが流れ落ちる。


 戦場でも感じたことのない、奇妙な悪寒が身体を駆け巡った。


 恋慕の情は、過ぎればくも人を狂わせるものなのか?


 これではもはや、悪鬼羅刹の類ではあるまいか?


 いや……いやいや! 負けてはならん! 俺は武士ぞ! かの斎藤道三が孫ぞ!


 心を強く持つのだ!


 頭を軽く振り、弱気を打ち払った。


 斯様な小娘に命を取られる訳もなし!


 改めてカロリーネに目を遣ると、先程までの明るい声はいつの間にか消え、暗い瞳でクリストフ――いや、クリストフが縋り付く俺を見詰めていた。


「……クリストフ様? 何を……なさっているのです? どうしてそんな男に抱き着いているのですか? どこの馬の骨とも知れない下賤な者なのですよ!? それに……その赤い鎧はその男達と同じものではありませんの!?」


 半狂乱の体で叫ぶカロリーネ。


 クリストフが「あ、義兄上あにうえ……」とか細い声で呟くと、さらに目の色を変えた。


「あ……に……? どういうことですの? あに……とは何ですの? まさか……!」


 カロリーネはが唇を噛む。


「クリストフ様……その男に汚されたのですね!?」


「はあ!?」


「許しませんわ! クリストフ様の柔肌を弄ぶだなんて……! クリストフ様の身も心もわたくしのものですのに!」


 荒縄を引き千切らんばかりに暴れ回るカロリーネ。


 左馬助らが直ちに押さえにかかるが……おい、何だその目は? どうして疑いの目で俺を見る!?


 こらっ! 何が「若が衆道しゅどうに御目覚めになられた……」だ!


 源五郎! 甚太郎! 左馬助の妄言を信じるでない!


 待ってくれミナ! どうして其方までそんな汚い物でも見るような目を……!


 くそっ……!


 だが待てよ?


 これは好機ではないか?


 カロリーネの怒りの念が俺に向けられているのだ。


 これを上手く用いてクリストフから狙いを逸らす事が出来るなら……!


 …………武士たるもの、犬とも言え、畜生とも言え、勝つ事こそほんなり!


 一度助けると申しておきながら、道半ばで見捨てるなど、武士の沽券こけんに関わると申すもの!


 たとえ汚辱にまみれようと、この戦いには勝たねばならぬ!


「……くっくっく」


「何がおかしいのです!?」


「これが笑わずにいられようか? 貴様は負けたのだぞ? 俺にな」


 カロリーネを傲然と見下ろす。


「クリストフは俺がいただいた! 貴様にはやらん!」


 嘘は言っておらん! 決して嘘は言っておらんぞ!


 クリストフは俺の下に付いておるのだ!


 「いただいた」と申しても決して間違いではあるまい!


 だからミナに左馬助! 源五郎も甚太郎も! その目はやめい!


 一方、カロリーネは怒りを抑え切れない様子で「ふう……! ふう……!」と、えらく呼吸が荒くなっていた。


「クリストフが欲しければ俺を倒してみせよ! だが覚悟しておけよ? 俺に刃を向けるなら、女だろうと容赦なく叩っ斬る! ゆめゆめ忘れるなっ!」


「きぃ――――――――っ!」


 カロリーネは俺の喉元へ食らい付かんばかりに首を伸ばす。。


 顔は真っ赤に染まり、瞳も充血している。


 あたかも人を喰らう鬼女きじょの如き形相だ。


「――――難儀しておられますね?」


「ぐふっ!」


 どこからか声が降って来たかと思えば、音もなく姿を現す八千代。


 当て身一つであっさりとカロリーネを気絶させた。


「呼ばれておらぬにも関わらず、出過ぎた真似を致しました……」


「い、いや……助かったぞ……。流石は八千代……。鬼女を相手に見事な胆力だ……」


「うふふふ……。お褒めいただき嬉しゅうござります。ですが……いけませんね?」


「何?」


「若への無礼の数々、八千代は許せません。ですので、この娘は八千代が預かります」


「待て! 何をする気だ!?」


「ナニを、でござります。ご安心を、五体満足で返しますので……」


 八千代はカロリーネをヒョイと担ぐと、何事もなかったかのように部屋を後にした。


 俺達は呆然と見送るしかなかった。

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