手負いの軍曹、悪夢を見る
「まあ、お可愛らしい事。左様に怯えて……」
女は楽しそうにクスクスと笑いやがった。
三日月みたいに歪めた口をさらに歪めて……。
こんな暗闇の中なのに、女の口の中が見えた気がした。
血で染めたみたいに真っ赤だったよ。
きっと生き血でも啜っているに違いねぇ。
でなきゃ、あんな真っ赤にはならないだろうよ。
女を見て恐怖を感じたのは、人生の中で二度目だ。
一度目は川向こうに攻め入った時。
サイトーの母親だって名乗る女が俺達の前に現れた時だ。
女の細腕で丸太にしか見えねぇ
二度目は目の前のこの女。
でもな、一度目と二度目とじゃ、感じる恐怖の質がまるで違う。
一度目は抗いようの無い圧倒的な力に対する恐怖だった。
逆らえばあの棍棒で頭をグチャグチャにされる――――そんな有無を言わせぬ暴力に対する恐怖だ。
この女に感じる恐怖はそれとは違う。
とにかくこの女は
底知れない不気味さを感じるんだ。
女の気に障ったが最後、
棍棒で頭を粉砕される方が遥かに幸運だって思えるような、
指一本動かしただけでも、瞬きをしただけでも、息をしただけでも、女は不快の念を抱くかもしれない。
絶対にこの女を不快にさせちゃいけねぇ。
……これが悪夢ってもんかもしれねぇな。
俺は夢見が良い方でな、忘れているだけかもしれんが悪夢ってもんを見た覚えがない。
ただ、悪夢って言葉を使うとしたら、きっと今ほど相応しい場面もない。
これが悪夢なら、頼むから早く覚めてくれ――――!
息も動きも止めて必死で祈った。
「ああ……」
ドサリ……。
腰が抜けたらしいティモがへたり込んだ。
枯れ草がカサカサ鳴る。
途端に女は目を細め、三日月みたいな口を閉じ、酷薄な表情に変わった。
「いけません。いけませんわ。不用意に音を立てるなんて。見つかったら如何なさいます?」
「「…………」」
「ものを知らぬお方には
女が足を踏み出した。
草を踏んでいるはずなのに、どうしてか音一つ立たない。
俺達は死を覚悟――――、
「――――勘弁してやって下さりませ」
思わぬ方向から声が聞こえた。
ロックだ。
奴はあの不気味な女を前に平然と立ち上がりやがった。
「悪ふざけが過ぎますぞ? 姫様?」
「悪ふざけなんて人聞きが悪いわ。ちょっと殺意を当てただけなのに……」
「それが悪ふざけなのでござります」
「心変わりをしていたら困るでしょう? 少しは脅しをかけないと」
「ご案じになる事はありません。手前がしっかと見ておりました故……」
女と気安そうな様子で話すロック。
気付いた時には女の放つ不気味な雰囲気は消えていた。
そこにいたのはちょっと小柄で、可愛らしいとさえ思える女の子だった……。
ロックが腰を落として俺とティモの肩を叩いた。
「二人とも悪かったな。命を取られるような事は無いから安心してくれ。家にも帰れるからな」
「ロ、ロック……お前……」
「ロック? 左様な名を名乗っていたのですか?」
「はい。安直とは思いましたが……」
「元の名とかけ離れてしまえば、
「クリス殿とハンナ殿によりますと、ありふれてはいないが珍しくもない。いることはいる、との事」
「そうでしたか」
「ちょ、ちょっと待てロック!」
世間話でもするみたいな二人を思わず止めた。
「ぎ、偽名だったのか……?」
「そうだ。ブルームハルトの軍勢に潜り込む為には元の名は使えんからな」
「で、でもお前その髪の色……。サイトーの部下は黒髪のはずだろ……!? それに顔立ちも……」
「髪の色は染粉でどうとでもなるさ」
「我々は変装が得意なのです。己とは違う誰かに身をやつす事がね。瞳の色だけはどうにもなりませんでしたけど」
「異界でも黒い瞳が居ない訳ではないんだろう? 案外バレないものだな」
二人は何でもなさそうな口調でそう言った。
まるで掃除のやり方や料理のコツでも話すようにな。
命の危険が去った事を悟ったのか、ティモはあからさまに表情を緩めた。
俺はと言うと、どうしても気になったことがあった。
二人の機嫌を損ねるかもしれないが、尋ねてみようと決心した。
「……ロック、訊いていいか?」
「何だ?」
「俺達を……監視していたのか?」
ロックは「やっぱり気になるよな?」って言いたげに肩をすくめた。
「そんな役目は与えられていないさ。手助けをしてやれ、とは言われていたがな」
「……本当か?」
「本当です。だって若があなた方を信用しろと申されるんですもの」
「若?」
「あんたらが『サイトー』って呼ぶお方さ」
「何だって? サ、サイトーは川向こうの領主なんだろう? 領主なら貴族だ。貴族がどうして俺達みたいな下っ端を気に掛けるんだ? おかしいじゃねぇか」
「左様な事はありません。若は信義を違えぬお方です。エトガル・ブルームハルト殿は
「しょ、小隊長の手紙の事か……?」
「はい。一応は昨日まで味方であった者達を騙すのです。気が咎める御役目でしょう? この御役目を果たした御当人が、あなた方二人を無事に家へ帰してやってくれと懇願するのです。聞き届けぬ道理がありますか?」
「いや道理って……。捨て駒にされてもおかしくは……」
「若に約定を破れと? 故無く約定を破っては天道に
女が鋭く目を細めた。
答え次第では許さないと目が語っている。
俺は何とか声を絞り出した。
「し、してない……」
「ならばよろしいではありませぬか?」
こいつらの理屈は分からない。
『テンドー』とか言われても、何の事やらサッパリだ。
分からない事だらけだが、一つだけ確かな事がある。
サイトー達は一度結んだ約束は必ず守るらしい。
身分に関係なくな。
何となく偏執的なまでの拘りがあるように感じる。
それだけにホッとした。
もしも俺とティモがサイトーを裏切っていたら、想像を絶する報復が待っていただろうな。
血まみれでグチャグチャになった女房と子ども、小隊長の姿が浮かぶ。
尋ねはしなかったが、俺はそう確信した。
「……変な事を訊いて悪かったな」
「構わん。俺があんたの身なら、当然気に掛かっただろう」
「あんたの役目ってのは……陣内を混乱させることだったのか?」
「すまん。さすがにそこまでは――――」
「良いではないですか」
「姫様?」
「この方々は味方も同然。恐がらせたお詫びに教えてあげましょう」
言い淀んだロックに変わって女が前に出た。
「この者は『風』が得意なのですよ」
「か、風?」
「『
「虚偽の……風説……?」
「言葉一つで人を惑わせ、心を乱し、判断を狂わせるのです。
「有難し……」
「お、おい……。それならロックから聞かされた話は全部デタラメって事なのか?」
「そんな事はない。真実の中にほんの少しだけ嘘を含ませるさ。例えばそうだな。鉄砲で狙撃された人数が百人以上だって言っただろ?」
「ああ……」
「鉄砲で撃たれた奴がいたのは事実だが、本当の人数は精々三十人って所だ」
「三十人!? 全然違うじゃねぇか……!」
「百と三十じゃ受ける印象が全く違うだろ?」
「そ、そうだな……。百って聞くと何となく深刻に思える……。だが、そんな簡単な話に皆が騙されたのか?」
「そうだ。簡単な話だ。ただし、どうやって真実を知る? 撃たれた人数を数えるかい? 撃たれた時も所も、てんでバラバラなんだぞ? 手当てに担ぎ込まれた者もいれば、味方が逃げて見捨てられた者もいる」
「……無理だな。時間を掛ければ出来んこともないだろうが……」
「混乱が広がり、正確な話が分からなくなれば、もっと質の悪い話も簡単に広がる。三百メートル先から狙い撃たれるって話も何の疑いも無く受け入れられる」
「そいつも嘘だったのか……」
「鉄砲を撃っているのは本当だぞ? ただし狙い撃っている訳じゃない。人の群れに向かって撃っているだけだ。当たれば儲けもの。当たらずとも、銃声は敵を脅し、動きを止める。何せ撃たれている側は、狙い撃ちか、まぐれ当たりなのか、撃っている側の考えなんて分からんからな」
「……俺もきっと騙されただろうな」
「これが積み重なれば、木の伐り出しを放り出して、陣の中へ戻ろうって扇動されても受け入れてしまう」
「おいおい……。陣門の騒ぎもお前の
「まあな。とは言え今回はこうなるまで早かった。戦を
「――――お待ちなさい」
女が話を止めた瞬間、俺達の周囲に四、五人の人影が唐突に現れた。
もしかしたら、闇の中にもっといたのかもしれない。
人影の一つが言葉を発した。
「
「分かりました。では御二方、参りましょうか?」
女が俺を手招きする。
ところが、ロックの奴はその場から動こうとはしなかった。
「お前はいかないのか?」
「ああ。まだ御役目が残ってるんでな。陣へ戻るよ」
「そうか……。なあ、最後に一つ教えてくれよ」
「何だ?」
「本当の名前は何て言うんだ? 命の恩人の名前くらい知っておきたい。もし今度会うことがあったら礼がしたい」
「…………」
「俺達にだって信義ってやつがある。そうだろティモ?」
「えっ!? あ、はい! 信義はあります!」
ずっと黙っていたのに急に話を振られたティモは目を白黒させている。
すまんがちょっと手伝ってくれ。
命の恩人の名前さえ知らずに別れたとあっちゃ、女房に何を言われるかわからねぇからな。
ロックは困り果てた顔で女を見た。
すると女はクスリと笑った。
「八千代と申します」
「は?」
「わたくしの名にござります。望月八千代と申します。あなたも名乗りなさい」
「……忍びが名乗るのは如何かと思いますが、姫様にさせておいて己がせぬでは道理が通りませぬな」
ロックが俺とティモの真正面に立った。
「
「ロクロー……だからロックかい?」
「まあな。安直な名前だろう?」
「かもな。だが覚えやすいぜ。ティモも覚えていろよ? 後から礼をするんだからな」
「はいっ!」
ロック――――ロクローが闇の中へ消えて行った。
「そうでした。一つ、言い忘れておりました」
「え?」
「六郎が言の葉を武器としたように、我らに武器と出来ぬものはござりません。斎藤の御家は武威のみの家に
例の三日月形の口で笑いながら、ヤチヨはそう言った。
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