第36話 「良し。では、やるか」新九郎は戦を始めた
「聞いていない聞いてない聞いてない聞いてない!」
辺境伯家の客間で、ミナが顔を真っ赤に染めて俺を殴ろうとする。
「待て待て待たんか! 落ち着け!」
「こ、これが落ち着いていられるか! わ、私とシンクローが……! 一発殴らせろ!」
「だから落ち着けと言うに」
「むぎゅ!」
仕方がないので両手を捻り上げて鼻を摘まんでやった。
「ふぁ、ふぁなへ!」
「わっはっは。何を言っておるのかさっぱり分からん」
「むふうううううう! ふりふ! ひゃすけてふえ!」
「あははははは! 何よその顔ぉ!」
「ふりふ!」
クリスは助ける素振りも無く、ミナの顔を見て笑い転げていた。
「サイトー殿……」
奥方とベンノ殿が疲れた表情で客間にやって来た。
「ゲルトとパスカルは帰りましたかな?」
「はい……それはもう、ただ――――」
「ん?」
「尻尾を巻いて逃げ帰るとはあのことね! ざまぁ見ろ!」
「胸のすく思いが致します……」
二人共、ミナを見向きもせずに感慨に浸っている。
「ひゃひゃうえ! ひぇんの!」
「え? あ、ああ、ごめんなさい。あんまりにも傑作だったからすっかり忘れていたわ」
「失礼いたしました」
ミナの抗議で奥方とベンノ殿が俺に向き直った。
ようやく暴れるのを止めたミナも離してやったが、顔は赤いままで唇を噛んでいる。
「サイトー殿、あの書状はどういうことなのです? 私は夫から何も聞かされていませんよ?」
「わたくしも同様に……」
「私もだ!」
「奇遇でござりますな。俺も辺境伯からは具体的な話は何も聞かされておりません」
「な、何!? シンクロー! 貴様! 真面目に答えろ!」
「冗談は言っておらん。辺境伯からいただいたあの巻物、ご署名以外は白紙だったのでな」
「「「「…………はあ!?」」」」
「俺が聞かされたのは、辺境伯の身に何か起こった時に好きに使え。それだけだ」
「で、では誓約の内容は!?」
「俺が書いた。辺境伯がお倒れになったと聞いた時にな。ゲルトめがしゃしゃり出てくるとは予想したが、まさか
「き……貴様っ! 何てことをしてくれたんだ! 私に断りもなく勝手に……勝手に結婚のことを書くなんて!」
「ん? その言い方だと……勝手に書いた事が嫌だったのか? 婚儀自体は嫌ではないと?」
「ち、違……そうじゃなくて……」
「いや、すまなかった。お主の気持ちに気付いてやれず」
「う、ううう……ク、クリス~!」
ミナは頭か心の許容量が限界に達したらしく、隣にいたクリスに泣き付いた。
クリスが「はいはい。よしよし」とあやしている。
ううむ……あの凛々しかった
これはこれで良いものだ。
イカン。クセになりそうだ。
「ちょっとシンクロー! ヴィルヘルミナをあんまりイジメないであげて!」
「すまぬすまぬ。少し調子に乗ってしまった。許してくれ」
「もういいわぁ……。ところで誓約書はどうするのぉ? 本当にシンクローが書いたとおりにするつもりぃ?」
「まさか。ミナを無理に結婚させる気など毛頭ない」
俺がそう答えると、奥方とベンノがとてつもなく残念そうな顔をし、ミナもどこか詰まらなそうな顔をした。
触れると先が長くなりそうなので放っておく。
「誓約書を書いた目的は、辺境伯がお倒れになった急場を凌ぐこと。そして、ゲルトとカスパルをさらに焦らせることだ」
俺がそう言うと、皆が不思議そうな顔をした。
奥方が尋ねる。
「サイトー殿? ゲルトは辺境伯の地位を諦めていないように聞こえるのですが?」
「左様。奴は諦めておりませぬ。今頃、俺を亡き者にする算段を立てているはず。戦になりますぞ」
「戦……あの時、斬っておけば良かったわね……」
奥方がサラリと物騒なことを口にした。
「お気持ちは分かりますが、さすがに無理というもの。俺は連中を責め立てましたが、こじつけだ、言い掛かりだと強弁されてしまえばそれまで。斬り捨てるだけの理由にはなりませぬ。結局のところ、戦で
「でも戦になるくらいなら……」
「故無く斬っては、辺境伯家が余計なそしりを受けましょう。悪名はいつ
「それは……」
「だからこそ、戦に備えて連中を焦らせたのです。辺境伯のご署名がある以上、誓約書の真偽は問題にはなりませぬ。これを日和見の家臣や寄騎貴族にこれを見せればどうなりますか?」
「あ……! 日和見だから勝ち馬に乗るはず……! ゲルトの味方をする者がいなくなるのね!」
「然り。全てとはいかずとも、ゲルトの算段を狂わせる事態となるは
ゲルトは行商人を使って戦の為に情報収集をしていた。
当然、戦の準備はしておろう。
だが、辺境伯がお倒れになった当日に、しかも間を置かずにやって来たのは、早く決着を付けたいという心の焦りがあったのではないか?
さらには、辺境伯の暗殺だけで事が成ると油断していたのではないか?
少々都合の良過ぎる解釈だが、左様ならば
戦はより雑になるはずだ。
奴にはより多くの隙が生まれ、俺達が勝つ目はますます増える。
「……サイトー殿はそれを狙っておられたのですか? どうせ戦になるなら、まともな戦が出来ないように……」
「あくまで上手く事が運べば、でござります」
「失敗した時は?」
「ご安心を。策は
「……ヴィルヘルミナはサイトー殿を
「は?」
「私には
「……褒め言葉と思っておきましょう」
「ええ。頼もしくて素敵だわ。私が未亡人になったらもらっていただけます?」
「お母様!」
「冗談ですよ――――」
「し、失礼します!」
またもシュテファンが駆け込んで来た。
「どうかしましたかシュテファン? また来客ですか?」
「あ、いえ……モチヅキ様がお戻りに……」
「モチヅキ殿? なら早くお通ししなさい。モチヅキ殿はサイトー殿の家臣。私達の味方なのですから」
「は、はあ……」
どことなく困惑しているように見える。
シュテファンが下がってから間もなく、ガチャガチャと金属がこすれる音が聞こえた。
「
姿を現した
いつもの小袖姿ではなく、赤備えの
「お召しにより馳せ参じましてござります」
「首尾は?」
「
「良し。では、やるか」
戦が始まった。
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