第32話 夫と妻

 スマホの電源さえ切ってしまえば、これから起こることは誰にも見られない。


 カイジは金属バットで容赦なく大吾を殴りつけた。

 頭、背中、足。

 バットを振り下ろすたびに聞こえてくる、ぐしゃりという音に快感さえ覚えた。


 声にならない声を上げ、蛮行を止めようと術を繰り出すあずさ。

 しかしカイジはあずさの頭を蹴りつけ、髪を乱暴につかみ、威嚇する。


「なめた真似してくれたな!」


 髪をつかんで引きずって、壁に押しつけた。


「誰のおかげでここまで稼げたと思ってる! お前なんか俺がいなかったら何にもできない底辺のブスだっただろうが!」


 脅されてもカイジから目を反らさないあずさ。

 その強い眼差しがカイジの逆鱗に触れる。


「なんで逆らった! なんで俺をこけにした! なんで俺に恥をかかせた!」


 うずくまって動かない大吾をちらりと見つめるカイジ。

 怒りはさらに増す。


「よりによってこんな弱男となんてお前……、目が腐ってんじゃねえのか……? ええおい、なんとか言えよ!」


 あずさの頭を壁に何度も打ち付けた。


「どいつもこいつもみんな俺を馬鹿にしやがる! なにもできないだと?! ふざけんな! カエデもお前も、みんなそうだ!」


 激しい痛みからだろうか、あずさの体が震え出し、それを見たカイジは狂気めいた笑みを浮かべた。


「謝れ。今すぐ謝罪しろ。そしたら、ここでお前を抱いてやるよ」


 あずさの上着を強引に剥ぎ取ろうとするカイジ。

 しかしあずさはその手をキッパリはねつける。


 額や鼻から血を流しても、あずさの心は決して折れていない。


「触らないで」


「ああ……?」


「私がカエデさんに言うべきだった。あんたなんかと一緒に続けても何の得にもならないから、私とカエデさんの二人だけでやってみませんかって」


「ああ……!?」


「それとひとつだけ」


 震える指先をカイジに突きつけるあずさ。

 慌ててバットを構えるカイジ。


「私のことは何を言ってもいいけど、大吾さんを悪く言うのは絶対に許さない!」


「クソ女が!」


 しかしこの勝負はうやむやに終わる。


 あずさが繰り出そうとしたカマイタチに似た鋭い風は消失し、カイジが振り上げたバットも凍り付いて粉々になってしまった。


「え……?」

「なんだこれ」


 武器がなくなって戸惑うかつての擬似カップル。


「あずさちゃん、こんなの相手にしなくていい」


 大吾がカイジのバットを壊し、


「この男は貴重な道具だ。消されては困る」


 カエデがあずさの術を消した。

 その頭上には、電源を切ったはずのふたつのスマホがふわふわ浮いている。


「おい、お前……、まさか!」


 カイジは震え出した。


「消したっていったよな! おい!」


「確かに申したが、実を言うと今の道具の使い方がわからんのだ。消したつもりが消してなかったらしいのう」


「あ……?」


 震え出すカイジ。

 今までのすべてを見られていたと気づいたのである。


『見たぞ』

『ああ、俺も見た』

『全部見た』

『最低だな』

『これがあいつの本性か』

『あずさ、出て行って当然だ』

『知らなかった。ひどいこと言ってごめん』


「まずい……」


 狼狽するカイジを、雪村カエデの中にいる女は興味深げに見つめている。


「実に貴重だ。ここまでどうしようもない男はそう見られるものではない」


 皮肉を込めて拍手までする。


「よく見ろ。お前が半殺しにしたつもりの保本は無傷だぞ」


「……」


 確かに大吾はピンピンしている。


「お前が殴っていたのは保本が繰り出していた水と氷だ。それすらわからんとはな。ここまで無能だと、お前にこの世の空気を吸って吐くだけの価値があるのかすらわからなくなってくる」


 カエデがそう言った途端、カイジの体は引きずられて、カエデの足下に転がっていく。

 そして奪われた大吾とあずさのスマホはそれぞれの頭上に戻った。


「助けてくれたのか……?」


 問いただす大吾だったが、


「いいや、私はこの子を救いたかっただけだ」


 カエデは自らの頬を優しく撫でる。


「なにを言ってもこの無能を庇い続ける、哀れで愛おしい愚かな娘を、縛りから解いて自由にさせたかったのだよ」


 奇妙な物言いに視聴者も核心に迫っていく。


『つまりこいつも深尾と一緒か?』

『何かに取り憑かれてたって、そんなアホな』

『いやでも、そうとしか考えられないんだよ、状況的に』


 カエデの中に別の人間がいることをあずさも理解しつつある。


「いったい、何をするつもり……?」


 痛む頭を抑えながら問いただす。


「深尾の言葉に嘘はない。この城の封印を解くのだ。神武石もなく、わしも本調子ではないゆえ自信は無いが、こいつの命が少しは足しになるだろう」


「えっ」


 命という言葉に大吾とあずさはがく然とする。


「人の命はすべての高みにある。ゆえに生け贄ほど時短になるものはない」


 カエデの言葉が合図であったかのように、背後にあった大きな壁が消え、どこまでも果てしなく広がる地平線に古井戸がひとつだけ、という奇妙な空間が姿を現す。


『おいおいおい!』

『なんなんこの場面展開!』

『歌舞伎座もビックリだ』

『そんな冗談言ってる場合じゃないだろ……』

『逃げるのです、旦那様!』

『逃げた方がいい。間違いない』

『逃げろ、今すぐ逃げろ!』

『逃げられるならな……』


 絶望感があふれ出すコメント欄。

 ただただカイジの悲鳴だけが響く。


「ちょ、ちょっと待て。止めてくれ! なあカエデ! 俺が悪かったって!」

 

 浮き上がり、井戸の真上に釣り上げられるカイジ。


 大吾もあずさもそれを見つめることしかできない。

 足に釘が打たれたみたいになって、動かないのである。


 ただ一人自由に動き回れるのがカエデであり、彼女は満足げにカイジを見上げていた。


「こういうとき、今の言葉では、さよなら、と言うそうだな。しかし、お前にはそれも似合わん気がする……」


 短く考えこむと、カエデは言った。


「二度とその顔を見せるな、で、どうだ?」


 そしてカイジは井戸の中に落ちた。


『あー』

『初めて人が死ぬ動画見た……』

『あっけないというか……』

『自衛隊呼べ、もう』

『旦那さま、逃げるのです!』

『そうだ、逃げろ!』

『言いたいことはもうわかったから! 逃げていいって!』


 しかしカエデは笑う。

 スマホもなにも見ていないのに、視聴者の声が聞こえているのだろうか。


「逃げろ逃げろと皆が言うておるが、もすこしつきあえ。危害は加えぬ。お前たちは客だ。丁重に扱うよ」


 カエデは井戸に近づき、何かを振りまく仕草をした。


 井戸から黒い煙がもくもく湧いてきた。

 煙に飲み込まれた井戸がバキバキと音を立てて崩れていく。


「種を撒き、水を与え、育てたところで、人のたどりつく先はいつも同じ」


 カエデは巻き上がる煙を愛おしげに見る。


「殺し合いよ。戦うことこそ人の本能。お前も見てきただろ? ここにいた愚かな連中の無様な姿を」


「……」


 ゴランズに襲われたときのことを思い出す。

 エアガンで撃たれたときの痛みが体をチクチク刺してきた。


「わしはすっかり嫌になってしまってな。気づいたのだ。最初から人なんぞいない方がいいのだと。それゆえ黒く塗りつぶすことにした。あの時は夫に止められたが、もうさえぎるものはない」


 カエデは黒い煙に手を突っ込むと満足そうに笑った。


「この煙がこの階層の親玉になる。五秒この中にいると迷宮から強制的に出される仕組みにしておいたが、それではつまらぬ。十秒、煙を浴び続けると体が溶ける仕組みにした」


「そんな……」


 あとずさるあずさ。

 一方、大吾は確信していた。


「あんた、やっぱり……」


 まるでこの迷宮を作ったのが自分であるかのような物言いを聞いて、カエデの中に誰がいるのか、ようやく悟ったのである。


「波は三度来る。第一波は30分逃げ切れば消失する。第二波は60分。第3波は90分だ。すべてくぐり抜けたら戻ってこい」


 カエデ、いや百合若風見は、持っていた鍵とライセンスカードを投げ返してきた。


「以上だ。我が夫とよく話しあうといい」


 煙の中に消えていくカエデ。

 その姿をあずさは見送ることなく、必死の形相で大吾に叫んだ。


「逃げましょう! このままじゃホントに死んじゃう!」


「あずさちゃん。俺はもう少し残る」


「どうして?!」


「ゴランズの残りがいる。あいつらを助けないと」


 一ノ瀬はまだエアガンとよろしくやっているだろうし、徳永も井上も拘束されっぱなしだ。放っておいたら死んでしまう。


「かっこつけて言うんじゃない。多分、俺の術ならそこそこしのげると思うんだ。それに君は病院に行かなきゃ」


「……」


 唖然とするあずさの手に大吾は壱予のライセンスカードを握らせた。


「悪いんだけど、戻ったらそのカードを宮内庁の若村真さんって人に連絡して、渡してほしいんだ。あの人なら壱予に届けてくれる」


「でも私は戻ったら札幌にいるんですよ……?」


「それまで何とか耐えるから」


「……」


 ここでジタバタと問答を続けることこそ時間の浪費だということをあずさはよくわかっている。


「すぐ行きます! だから……」


 ぎゅっと大吾に抱きつくと、すぐさまあずさは自分の鍵を起動させて、ダンジョンを出た。


――――――――――


 いったい何日ぶりの地上だろうか。

 北海道といってもこの時期の札幌は暑い。


 その熱気が、あの公園に戻ってきたと気づかせる。


 しかし目に入った光景にあずさは唖然とした。


 迷宮へのゲートがバリケードで囲まれ、人が入れないようにしてある。

 

 バリケードの外側に大勢の野次馬がいて、皆があずさを撮影していた。

 おそらく配信を見ていたのだろう。


 バリケードがなかったら瞬く間に囲まれて身動きが取れなくなっていたに違いない。


「なんなのこれ……」


 戸惑うあずさに一人の男が近づいた。


「待っていました」


 優しく手を伸ばして名刺を突き出すその男こそ、若村真だった。


「こうなるんではないかと予想しておりまして、準備は万全です」


「準備……?」


「壱予のカードを預けて貰えませんか」


 真の容姿の麗しさに気づいた野次馬が少しずつざわつき始める中、


「ヘリを用意していますので、そこから空港まで飛びます」


「空港に……?」


「専用機を用意しておりますのですぐ飛び立てます。考え得る最速の手段を使って、壱予にカードを届けるつもりです」


 その言葉にあずさの顔は喜びで溢れる。


「羽田まで行ってくれるんですか?!」


 しかし真は首を振った。


「羽田ですと壱予がいる場所を通り過ぎてしまいますので、途中で降ります」


「とちゅうで、おりる……」


 その言葉がなにを意味するか利口なあずさならすぐわかる。

 スカイダイビングである。


「もうその筋のプロも専用機で待機しておりますので」


「すごい……」


 呆気にとられるあずさに真は微笑む。


「あなたも来てください。医者もいます。その怪我を診てもらいましょう」


「あ」


 気づいたら顔のあちこちから血が出ている。 


「わかりました。すぐに……」


 立ち上がろうとしても足がふらつく。

 

 真の後ろにいた二人の男が丁寧に介抱してくれた。

 さあ行きましょうとヘリまで案内してくれる。


「あずさちゃん、頑張って!」

「応援してるぞ!」


 野次馬たちの励ましに何度も頭を下げながら、あずさは公園を出て行った。

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