終の家
白州智也
前日譚 1話
この国に突如として蔓延した謎の奇病。
曰く、20に至らない少年少女にのみ発現する病気で、致死率は100%。
患者は眠りにつくとある日突然目を覚まさなくなり、そのまま生涯を終える。
安らかなその寝顔は、まるで昨夜が最期の瞬間を思わせることがない。
暁を覚えぬ春の朧に
高名な医学者たちはこの病を滅ぼさんべく奮闘したが、その結末は言うまでもない。
未だに解決の糸口は在らず、夢に微睡む。
発症が20以下の子供ということは、裏を返せば、その年を迎えれば以降金輪際発症しないということだ。
人々はわが子の20回目の誕生日を祈るかのように強く胸に留めるようになる。
どうか、知らぬ世界であってほしいと。
この理不尽な病を人々は受け入れることしかできなかった。
いつしかこの国には成人を迎える20の誕生日は盛大に祝う風習のようなものが出来上がる。
私の時も例外ではなく、両親はひたすらに安堵を語る。
どこか他人事のような
私はその時、わずかながら両親に嫌悪感を抱いたものだ。しかし、私にはそれを是正する言葉も身分もない。
抱いた嫌悪が、無感動な自分にも向いていたことを自覚し、無理矢理に目を逸らすことしかできなかった。
一人っ子故に祝いを終えた後は、語る言もなく、次第にそのような奇病も他人事となりゆく。
不謹慎な物言いかもしれないが、次第に私の中でもこの病が薄れていった。私も不埒な一般人ということだ。
長く生きてきたわけではないが、その生涯の中でも決して珍しい病ではない。
平凡に義務教育を修めれば、卒業する小中から10人弱は発症し、姿を見なくなる。
両親や先生に聞いてもその終を語るものはおらず、知る由もなかった。
平凡な子供には、引っ越しで会えなくなるような感覚と大差なかった。私も、同じ教室から姿を消した子に、その程度の感傷しか抱けなかった。
自分がそうならないという確証はない。
が、常に関係ない世界の話だという無知故の欺瞞が、幾つになれど離れることはない。
そんな浅はかに生きていたのは、きっと私だけではないだろう。
だからこそ、彼女との出会いは、私の人生を変えたのであった。
大学の食堂が珍しく混んでいたこともあり、普段悠々と寛いでいたお気に入りの席もその日は両隣が密に埋まる。決して肩が触れ合うなどの距離感ではないが、
トラウマなどないが、生まれつき人付き合いに妙な畏怖を抱く私は、この居心地の悪さに早々に席を立とうとしていた。
そうして身支度を済ませ、空になったお盆に手をかけようとしていた時、ふと隣席の卓上に目が留まる。
青少年特支資格。
見慣れない単語に小首を傾げる。
国家資格の、参考書であろうか。
散見する別書にも目を配ると介護福祉の類でありそうだが。
一冊のパンフレットのようなものに気付く。
朗らかな青少年達のイラストが用いられた……共同生活体を記していた。
そこで私はその見慣れぬ単語群の正体を知る。
──春眠病。
「え……?」
綺麗な黒髪を靡かせ、かの座席の女性は驚き振り向く。
私自身、声に出ていたと思っておらず、驚きに身を震わせる。
邦人とは思えぬ綺麗な青い瞳がこちらを見つめていた。純日本人という整った顔立ちに、僅かな間見惚れてしまう。
すぐに我に帰るが、そもそも口から漏れ出た言葉も自我の手綱を外れていたので、彼女の訝しみにしどろもどろで答える。
──え、えと……、それ。そうだよね……?
「そうって……。あぁ、春眠病。そうですよ。」
彼女は資格参考書を手に取る。
「資格、取りたいなって。貴方も……そうなんですか?」
──僕が? ……いや、そうじゃないけど。
「……?」
言葉に詰まった私を見て、彼女は首を傾げる。
──ごめん。物珍しさに、つい口から出てたみたい。深い意味はないんだ。
私の要領を得ない言に彼女は優しく微笑む。
「そうですね、福祉ってウチの大学じゃ少し縁遠いかも。」
変わったことをしている自覚はあります、と続ける。
気を遣わせてしまったと、居心地の悪い罪悪感から立ち上がった席に今一度腰を据える。彼女は少し驚いたように目を
「ごめんなさい、嫌味なつもりはなかったんです。ただ私の周りじゃ、その認識が‘‘普通’’だったので。」
自虐的な振る舞いに慣れている。彼女の言に、妙に塩らしくなってしまい、まずは謝る。
被虐的になることも、
その様が滑稽だったのか、彼女は気を許したような笑みを見せたので、私は真に感じたことを口にした。
──聞いてもいいかな? どうして、その、資格を…?
彼女は私のその問いに少し陰りをみせ、言葉を濁らせる。聞いてはならぬことを聞いてしまったのか、続く言葉を探していると、ゆっくりと口を開く。
「決して後ろめたいことではないんです。ただ、私が話を纏めるのが苦手で……、どこから話していいものやら。」
──話しにくいことなら無理には……。
「いえ。……まぁ、普段なら話しませんけど。少し、聞いてみてほしくなって。」
こそばゆそうに目を逸らす。
私は笑みを返し、静かに、ゆっくりと促した。
「私には弟がいまして。」
曰く。
二つ下の弟が‘‘いた’’。
彼は春眠病を若くして発症したそうで。
母子家庭で母親が働いているため二人でいることも長く、故に相当応えたそうだ。
なんとかしてあげたいと強く思うが、この病は陰陽の性質が分かれど決して体に異常をきたすものではない。病が原因で苦しんだり、弱っていくこともなく、終わりがくるのを見届ける以外にはなにもできない。
幼いながらに無力に悶えたと。
「春眠病を発症すると、その家庭には結構の助成金が出るんです。それで専用の施設に入れろって。感染したケースは過去ありませんが、どのような不測な事態が起こり得るか誰にも予測できない。そうやって、隔離するんです。」
──施設……って言うと。総合病院のこと? それとも老人ホームとか、介護福祉施設と似たようなものかな?
「はい、後者で、まさしくその通りです。まぁ、知らないのも無理がありません。名目上、国からの手助けはありますが、基本は民間によって経営されているので。」
民間という言葉に引っかかる。
春眠病は難病と指定され、国有の高度医療機関では今現在も治療法を模索されているはずだ。もっとも、その実績は無いに等しく、界隈にも世間にも煙たがられているのが現実である。
治療など不可能であるというのが現代医師の見解であり、実際、病院の各科どこにも春眠病は取り扱われていない。
それ故に治療用の医療施設は国によって運営されているとばかり思っていたが、まさか民間に治療を放任するとは、あまりの体たらくに虫唾さえ走る。
その上に治療という体であるはずなのに“福祉施設”とは。
──民間の医療施設、か。実情は、かなりお粗末なんだな。
界隈の手薄さに愚痴を零すと、彼女は静かに首を横に振った。
「民間の、福祉施設です。そこで医療行為は、行われていません。医療行為を行ってしまえば、春眠病の福祉施設の規定を外れてしまい、援助どころか運営すら許可されません。」
絶句する。語彙の不足などではない。
医療福祉施設ではなく、共同生活援助施設であった。
そこに隔離すると彼女は言った。それが意味することとは。
──それで……、国が援助をしていると……? 名目だけ御立派な、収容施設じゃないか! そんなことにいったい何の意味が?
魔女狩りと言っても差し支えない。鉄柵がないだけで、まるで監獄だ。
彼女の纏う空気は、鉛のような底知れぬ冷たさを帯びていた。当然だ。もし私が当事者ならば、失望と憎悪に支配されてもおかしくはない。
「体裁です。この国は体裁を持つことにより、この病を論ずることに終止符を打ちました。事実上、人類は春眠病に負けたんです。」
このシステムに罵倒してやりたいことは山のようにある。
しかし、否定をするのは現実が見えていない証拠である。
医学を修めれば、春眠病に関する20年前に記された最新の論文がチリ紙くらいにしか役に立たないことくらい誰でも知っている。
『おまえに何かできるのか』と問われれば、先人達と同様に臭いものに蓋をすることしかできないだろう。
しかし私には───。
「悔しい……じゃないですか。でも、本当になにもできない。頑張って頑張って、医学を切り開こうとこの大学に来たら、嗤われるだけなんです。」
返す言葉は、思い浮かばなかった。信念で救える世界ではないと、神仏さえ怨むのも致し方ない。きっと私なんぞには想像できない悔しさに支配されたのだろう。
「私も……諦めたんです。救うことなんてできやしない。意思の強さは、決して己の強さなんかじゃないんです。」
そんなことない。
しかし、伝うべきでないと奥歯で強く噛み締めた。
彼女がどんな顔をしているか、見ることができなかった。
「弟が亡くなって5年が経って、彼を受け入れてくれた施設から便りが来たんです。」
──どんな?
「写真でした。施設の決まりで、利用者の関連物は退所から5年で廃棄するのですが、当時、死を受け入れられなくて受け取れなかった遺品を、全部遺しておいてくれたんです。」
弟が大切にしていたものや、些細な消耗品も、劣化してしまう
とても優しいホームでした、と落ち着いた声で締め括った。
ホームという言葉に首を傾げる。すぐにそれが件の施設だと理解すると、彼女が思いを馳せるその『ホーム』に興味が湧いてきた。
その意を察してか、彼女は一冊のパンフレットを私の前に滑らせる。
『
そこには丁寧な字体でそう書かれていた。
春眠病患者向けの指定共同生活施設。
老人や障害者などに日常生活の支援を提供される共同生活援助の場をグループホームと呼称されるのが一般的であり、春眠病も特別指定の障害とされているため、例外ではなかった。
9割を超える春眠病患者が各地に点在するグループホームを利用するらしい。
「この‘‘終の家’’が、弟の利用していた施設になります。少し大きめのグループホームで、同じ境遇の子供達が10人ほどいました。」
パンフレットを開くとレトロな外観の洋風建築が大きく載っており、生活風景や、行事案内の写真が散りばめられている。
明日、死んでしまうかもしれない。そんなことを感じさせることがない本物の笑顔が、そこにあった。
「今度、見学させてもらえることになったんです。次は利用案内じゃなくて、研修員として。」
──じゃあ資格っていうのは……たしかに、それ以外に理由なんてないのかもしれないけど。
「私、ここで働きたくて。これが。私なりの“春眠病”への戦いです。」
胸やけのような蟠りを感じた。
ここで彼女を否定するのは痛く独善的で好ましくない。
しかし、胸の奥の嫌なところを撫でられたような気味悪さが体を
それを振り払わんと表に顔を出したのは、悪感情であった。
──……気を悪くしないでほしいんだけれども。君はそれで後悔はしないか?
私は、悔しかったのだ。
先ほどの問答での己が無力が。
むしゃくしゃしたのだ。
彼女の敗北宣言に。
「後悔、ですか?」
──例えば、僕らは医大生だ。その気になれば新薬の研究ができる。生涯全てを賭して、暁を見ようとは思わないか?
諦めを知る傍ら、その上で己には成せると夢見るのは、若さゆえの傲慢か。
しかし、私たちの生涯に結論を出すには些か早すぎる。無謀と蔑むも当然だが、志こそ間違いだと論じてはならない。
──自惚れではない。誰かが、なるべきなんだ。誰もが欲しているんだ。現世の英雄を。英雄を創ることが、僕らの役目のはずだ。
「それこそ、後悔したくないので思いません。」
──なぜ? 眼前のすべてを救うことはできなくても、未来苦しむ子らが一人でも減っていくんだ。
「その眼前の子から、目を背けることはできません。」
──背けていない。背けてはならない。悔やむべきなんだ。己の不甲斐なさを。だからこそ終わりにするんだ。負けてなんかいられないはずなんだ!
言葉を誤ったと自覚はある。まるで彼女は敗北者であるが如く罵ってしまった。
私の意地は、とても複雑に、そしてか弱く反りたっていた。
しかしここで折れるわけにはいかなかった。
彼女の瞳をまっすぐ見つめる。
とても綺麗な色をしていた。
褪せぬ強い意志が、そこに嫌悪がないことに驚きを隠せなかった。
「ごめんなさい。そんな立派には、なれません。私はただ、20歳を迎えることができない弟に、幸せになってもらいたかっただけだから。」
──じゃあ……それこそ何のために……!
死んだ人の為だなんて、すでに意味のないことを。
口が裂けても言えるわけがない。適切な言葉が思い浮かばず吃る。
彼女は、きっと頭がいいのだろう。私が言い淀んだことは、全て察しているようだった。あるいは、散々なほど聞いてきた文句なのかもしれない。
「やっぱり……不純、ですかね……?」
少し、悲しそうな顔をした。
冷えた頭が正義を問う。
──……わからない。僕に至れない思考に、排他的だけにはなってはいけないと思っている。
「……?」
──自分ばかり正しいと思うのは、それこそ誤ちだということだ。
彼女の微笑みはまるで聖母のように全てを包み込む。対して、自尊心を曝け出してしまったことが痛く恥ずかしい。
「変わった人ってよく言われませんか?」
──君もそう思うかい?
「良い意味で。短絡的な思考を拒む。すぐには結論を出したがらないというのは美徳だと思います。」
──そうかな? 優柔不断だと思うけど。
「今だって、私のことを労わって論ずるのを拒んだ。それは、優しさだと思いますよ。」
──それが建前というものなんじゃないかな。
「卑屈なのは結構ですが、それでも、心を感じました。」
──心……?
「はい。心です。」
妙な懐かしさのようなものが香る。
「理屈ではありません。理屈なんかより、ずっとずっと大事なものです。」
不思議な心地よさが胸の深いところに湧き上がり、足元を涼しげに浸すかのように
「貴方は、英雄になりたいのですか?」
──……あるいは、そうだったのかもしれない。それこそが、正しかったのだと、思い込みたかったのかも。
普遍への猜疑心の正体が、なんともお粗末な自己愛だと自覚し嫌気がさす。
「英雄にはなれそうですか?」
──君も大概なことを聞くね。
「ふふふっ、私ももしかしたら、ちょっとムッとしちゃったのかもしれません。」
どうしてだろうか、彼女の言葉は、不思議と素直な心を露わにさせていく。惨めな傲慢も知ってほしくなってしまう。
──……僕にはなれないだろうね。散々嫌なことを聞いたみたいだ。ごめん。
彼女はどことなくソワソワした反応を示したが、深く息を吐き、私に向き直る。
促されるように私も居住まいを正すと、彼女は力強く言葉を綴る。
「貴方も、一緒に来ませんか? “終の家”に。」
──僕が……?
「はい。貴方の目指すところはきっと違うかもしれません。でも、知ってほしいんです。英雄のいない世界を。そこに、生きている人たちがいることを。」
なんと返すのが正しいか。
着飾っては悔やむ。
繕っては思い悩む。
心に真を問わねばならない。
彼女は称した。
“英雄のいない世界”。
自身は無力だと断言する悲観。
私には現実逃避に見えたそれを、彼女はそれこそ現実だと見る。
きっとどちらか一方が正しいなんてことはないのだろう。
この選択は、
当時、無知な私でも、それだけは直感した。
私は。
──よろしくお願いします。僕は……もっと、眼前の人の力になりたかった。
英雄であることを拒んでいた。
信仰は、臆病な内奥を隠すための建前でしかなかった。
彼女は嬉しそうに微笑んだ。つい先程会ったばかりの私だが、さも親友を絆したかのような高揚を現す。
「まだ、名乗っていませんでしたね。」
私も微笑みを返す。
微笑みが、安寧に変わっていく。
まるで、この決断をずっと追い求めていたかのように。
「
懐かしい謳が、胸の奥を掠めた。
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