空が綺麗。
人影
空が綺麗。
学校から帰る途中で、木にくっついている白い何かを見つけた。
近づいてそれを良く観察してみると、それは蝉だった。
今は二月で、この前は雪が降っていたくらい寒い冬だった。
生乾きの制服に身を包んでいたから、風が吹いたら寒かった。
二月の蝉。
生まれてくる季節をどうやら間違えてしまったらしい。
私はほんの少し考えたあと、その羽化したての蝉を掴んで家まで持って帰った。珍しいから、売ったりできるかもしれない。
スマホを片手に、蝉を飼育する環境を整えていった。親にばれたくないから、すぐに済ませる必要があった。
幸いにも、庭にあったもので蝉の飼育環境をそろえることができた。一番難しかったのは、やはり止まり木だった。細すぎると、蝉は掴まれないし、太すぎると、虫かごに入らない。
苦労した甲斐あって、かなり完成度の高い虫かごができた。達成感が私の心臓に染みわたっていく。
私はさっそく、砂糖水を浸したティッシュを巻いた止まり木に蝉を掴まらせ、そのまま中に入れた。そのころにはもう、蝉は綺麗な黒色に染まっていた。
けど。
羽が伸びきっていなかった。
どうして体が黒色なのに、羽だけがくにゃっと曲がっているのだろうか。まるで、火で炙ったビニールみたいになっている。
私はまたスマホで調べた。
どうやら、原因は私にあるらしかった。
羽化したての蝉の羽に触ると、体液が全体に行き届かなくなり、不完全な形になってしまうらしい。
私は溜め息をつく。
でもまぁ、大丈夫だ。それに、逃げなくなったんだから、好都合ともいえるだろう。
かまわず蝉の観察を続ける。
お尻の部分を見て、その蝉が雌だということに、初めて気が付いた。やけにおとなしいのはそのせいかもしれない。
ラッキーだ。鳴き声でも、蝉を飼っていることがばれない。
そう言えば、二月の蝉ってどれくらい珍しいのだろうか。
調べると、ギネス世界記録では、十二月の前半が一番遅く蝉がいた季節らしい。
二月に生まれた蝉はこの蝉が初めてということだ。
「お前はすごいね」
私はそう言って虫かごをつついてみる。
歪な形をした羽がどこか愛おしく感じた。
次の日。私は蝉を日の当たる場所に置いて部屋を出た。
昨日濡れていた制服も、もう乾いている。ところどころ汚れていたり、破れていたりするけれど、よく見ないとわからない程度だからまだ買い替える必要はない。
「おはようございます」
私は階段を下り、リビングへのスライド式のドアを開いて言った。
「うるさい!」
お母さんの怒号が私の耳を劈く。
「ごめんなさい」
「だからうるさいって」
「…………」
「なんやその顔は。言いたいことあるんやったら言えや」
リビングの椅子で足を組み、煙草をふかしている。
言いたいことがあるなら言え。言いたいことを言うと逆切れしてくる。何も言わなかったら、文句はないとみなされる。
言われた時点で終わりの魔の一手。
「なにもないです」
私は小さくそう言って、すぐに家を出た。
教室のドアを開けると、一瞬だけ私に視線が集まった。私の顔を見て、うひひと気持ちの悪い笑みを漏らしている集団がいた。
私はそれを無視して、机の上に書いてあった暴言を綺麗に拭き取り、鞄を机の横にかける。
それからゴミ箱を漁る。いつもはここにあるのに、ない。
首だけを動かして私の机の上を見ると、汚くなった上靴が捨てられていた。びちゃびちゃに濡れているせいで、机の上に水が広がっている。
あぁ、もう。
めんどうくさいよ。そういうの。
上靴を足にはめると、靴下に冷たい水が染み込んでいく。
「うわ、アイツまじで履きやがった」
周りから控えめな嘲笑が漏れた。
気にしない、気にしない。
気にしたら負けだ。
授業が終わり、昼休みになった。
「おい、待てよ」
私の肩を、誰かが叩いた。
この人は……、名前なんだっけ?
「なに」
私はなるべく低い声を鳴らした。そんな私を馬鹿にするように、目を細めた後、そいつはいった。
「ちょっと、トイレ付き合ってよ?」
トイレに入った瞬間、私は両腕を拘束された。どうやら、トイレにそいつの仲間がいたようだ。まぁ、いつものことだけど。
「便座の水飲んでみてよ」
まるで今日の天気予報を尋ねるような、なんの感情も籠っていなさそうな声だった。
「飲むわけないじゃん」
「声震えてるけど」
「なんで私が飲まないといけないの」
「面白そうだから」
「いやだ」
「あ、今日は反抗する日なんだ? 最近反抗しなかったから、もう感情なんかなくなってたのかと思った」
そいつは口元に手を当てて、くすりと笑った。
そいつが私に便座の水を飲めなんて言わなかったら、かわいいと思ってしまうような仕草だった。
「も~、もう動画回してるから、早くしてよ。容量もったいないじゃん」
顔を上げると、三つのスマホのカメラが、私をとらえていた。
「だから」
直後、アイツの平手が私の頬を打った。甲高い音が鳴り、弾けるような痛みが走る。
「次は顔面蹴るから」
もう、反抗しても無駄か。まぁ、久しぶりに反抗できたから、それでいいか。
「お、偉いじゃん」
便座の中を覗き込む。見た目は綺麗だけど、排泄物特有の異臭が鼻腔を掠めた。
「早くなめてよ。じゃないと蹴るから」
便座の中に顔を入れる。
「うわ、マジでやる奴やん」
「やばいやばい」
声を抑えながら笑う、嘲笑が頭上から降り注ぐ。
私は息を止める。
舐めたら、解放される。
今日は殴られたり蹴られたりしない。
痛いよりましだよ。
それに私は無理やりに舐めさえられるだけだから、私自身は、汚くなったりなんかしない。
心は屈してない。
だから、大丈夫。
大丈夫。
私はぐっと涙を堪える。
舌を出す。
いつの間にか荒くなった鼻息が、舌にあたる。
嫌だ。
汚い。
怖い。
「早くしろって。チキんな」
そして。
「うっわ! こいつほんまになめやがった!」
「きっしょ」
「言われてもやるやつなんかおらんって普通」
「やばすぎ」
「冗談やんまじでやるとかほんまあほやな」
「この動画クラスLINEに晒す?」
「私やったら恥ずかしくて自殺してるわ」
嘲笑が木霊する。私を囲んで、身体をちぎっていく。
顔が上がらなかった。いつまでも私の頭を便器の中に入れていた。
どんな顔をされている?
私はカメラにどんなふうに収まっている?
何も知りたくない。
聞きたくない。
見たくない。
呼吸が荒くなる。
便器の中の水に触れた舌を口の中に入れられなかった。
味も、何も感じなかった。
その瞬間。
冷たい何かが頭から体全体に降りかかった。
「ほら。洗ってやった」
「お前流石にやばすぎ!」
さらに甲高い声が、私の耳を劈く。
「……て」
「あ? なに? 言いたいことがあるなら言いなよ」
私は口を噤む。
水が、私の制服に染み込んでいく。
それはやがて私の肌に触れて、体温を奪っていく。
でも、私は身動き一つとれなかった。
体が動かない、というわけじゃない。
でも。
どうしても動かす気になれない。
もう、ほっといてよ。
一人にしてよ。
もう、全部めんどうくさいよ。
「なんかリアクションしろよ」
耳元で、骨の音が鳴った。
お腹を蹴られて、胃液が逆流する。
腕を踏まれて、痛みが体に走る。腕に力が入らなくなる。
視界がぐらつく。
まともにピントも合わせられない。
痛い。
辛い。
苦しい。
それが全部。それ以上でも、それ以下でもない。
助けてとは言わない。
ほっといてよ。
一人にしてよ。
気持ち悪くて仕方がないよ。
こんな人生、意味あるのかな。
こんな物語に、意味なんてない。
いじめられて、毒親で。なんてのはただの要素。
私は空っぽ。
空っぽ。
空っぽ。
空っぽ。
空っぽ。
空っぽ。
空っぽ。
空っぽ。
涙腺が揺らいだ。震えた。熱を帯びて、痙攣した。
目から、こぼれる。
「みて! 泣いてる!」
カメラが私をとらえる。
泣くな。思い通りになっちゃだめ。
なのに。
止まらない。
「かわいそー」
笑い声が、涙と混ざって、心臓を締め付けた。
私が生まれた意味なんて、なかった。
びしょ濡れの制服のまま、私は帰路を辿った。
授業なんか、何も頭の中に残らなかった。
もう、全部どうでもいい。
蝉のことを考えた。
私みたいに、どこにも行けなくて、羽も歪で、仲間もいなくて、叫ぶこともできなくて。
でも。価値はある。
私には、まだ蝉がいる。
夕陽が横から私を照らした。私から黒い何かが伸びた。空を見ると、雲一つなかった。稜線に太陽が隠れていた。夕陽に拭き取られていく青が、清々しかった。風が吹いた。指先の感覚が消えた。音も何も聞こえなかった。震えた唇から息を吐き出した。白くなって空に浮かんだ。
部屋に入ると、虫かごが消えていた。
「……え?」
あれ、確かにここに置いてきたのに……。
「もう……、やめてよ……」
クローゼットの中を探す。机の下を探す。本棚の中を探す。
ない。
ないよ。
ない!
「お母さん!」
「うるさい!」
リビングに降りると、そいつはいつも通り煙草をふかしていた。
「蝉は」
「きもいから窓から投げたけど」
「……は?」
「何その態度。なんで親にそんな態度できるのか理解できないんだけど」
「……ふざけんな!」
声を絞り出した。
でもその声は弱弱しく、生まれたての小鹿みたいに震えていた。
「お前さ。私と全然似てないね。どこのこ?」
顔が歪む。
「そもそもさ。家で勝手に虫飼うとかきもすぎ。誰が許可したの? 逃げたらどうするの?」
「あの蝉は」
「間違ってることがあるなら言えよ。なあ!」
タバコが私の腕で潰れる。
「でてけよ。お前。あと今までお前にかけた金全部返せ」
「……ね」
「は?」
「しね! しね! しんじゃえ!」
私はそいつを突き飛ばして、家を出た。
蝉。
まだいるはず。
大丈夫。
みつけた。
道路で、潰れていた。
ひしゃげていた。
歪な羽が風にひらひらと揺れていた。
飛べなかったんだ。
私のせいで。
羽化したての蝉を、私が無理やりに掴んでいなかったらこんなことには。
涙腺が震える。
車のクラクションが鳴る。
親の怒号が聞こえる。
嘲笑が聞こえる。
蝉が目の前で死んでいる。
この物語に、意味なんてなかった。
空が綺麗。 人影 @hitokage2023
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