【書籍試し読み増量版】永年雇用は可能でしょうか ~無愛想無口な魔法使いと始める再就職ライフ~1

yokuu/MFブックス

一章 不名誉な解雇と再就職(1)

「この泥棒猫!!」

 バチン、という鈍い音と共にほおが熱くなった。たたかれた、と追って頭が処理をした。

(成敗されるのは、私の方ですか……)

 目の前で上げた手をそのままに、赤い顔をした夫人は息を荒くして私をにらんでいる。夫人の背後では全ての元凶である主人のニゼア様が青い顔で立っていた。そんな私たちを、他の使用人たちが息をんで見守る。

「出ていきなさい!」

 私が口を開く前に夫人が声を高くした。弁明するつもりはないが、もう何を言っても無駄だなと思った。

「……お世話になりました」

 こうなった以上、私だってこの屋敷には居たくないし、居られない。

 私は三年間雇われたニゼア夫妻に頭を下げ、荷物をまとめるために足早に屋根裏部屋へ向かった。同室のメイドが後から入ってきて、悲しそうな顔でアレコレと慰めてくれたが、彼女が私と旦那様とのことを他のメイドと一緒にうわさしていたのを以前聞いてしまったことがあったため、あまり心に響かなかった。

 私がトランクをひとつ持って屋敷を出たのは、夫人に頬を叩かれてからほんの三十分後のことだった。振り返った屋敷の窓からかつての主人がこちらを見ていた。

「さようなら!」

 その忌まわしい視線から逃げる様に、私は駆け足で門を飛び出したのだった。


「お待たせしました」

「ありがとうございます」

 晴れて無職になった私は空腹を満たすために取り急ぎ街のカフェに落ち着いた。国内でも指折りの栄えた都市だけあって、周りはガヤガヤとにぎにぎしい。

「いただきまーす」

 ローストされたチキンとのドレッシング。ザクザクと歯触りの良い葉物が挟まれたサンドイッチは今の私にとっては超ごそうだ。何せ、収入がなくなったのだ。

(次の職場を見つけなくては……)

 口を動かしながら食べかけのサンドイッチを皿に置くと、私はトランクから地図帳を取り出してテーブルの上に広げる。コーヒーを一口すすってため息をいた。

 あんな形で解雇されたのに、この街に居続けるのはきつ過ぎる。あの奥方のことだ、このまま矛先の違う刃物をまたいつどこで向けてくるか分かったものではない。冗談ではなく、本当にモノを持って刺しに来る可能性もある。

 身の安全を考えても、別の場所に移った方が賢明だろう。

「ドニアーズは大きい街だけど、治安が悪いって聞くし。うーん、パッシルもいいけどちょっとここから近過ぎるなあ」

 ブツブツと独り言を言いながら地図帳をめくる。

「穏やかに過ごしたい。どこか静かそうなところは」

 私ももう自立した二十四歳。先程のようなトラブルに見舞われた後ということもあり、賑やかな街よりも落ち着いて生きていける場所を心身が求め始めた。

「この路線の一番果てだと……」

 自然と私の目線は地図の端っこの方へと移る。


 シュポシュポと汽車の蒸気が吐き出され、車輪の音が響く。車窓はさっきから野原や畑ばかり。ひたすらのどかな光景が続く。それだけでも街から離れたことを実感した。

「切符を拝見します」

 車両に現れたしゃしょうに私は切符を差し出した。

「コートデュー、終点ですか」

 車掌は切符に書かれた行先を見て目を大きくした。

「車中で一泊ですが……個室でなくても?」

「あ、はい。大丈夫です」

 返された切符を受け取りながら、私は苦笑いを返した。

 私が目的地に選んだのは元居た街から出ていた線路の一番先。カフェを出た後、書店に駆け込んで街の様子を調べたところ、小さい街だが活気があり、自然に囲まれた住みやすい土地、とのことだった。何やら良さそうではないかと思う。

 ただ、昼から汽車に乗ったのでは本日中に着くことは不可能で、車中で夜を明かすことになる。到着は明日の正午過ぎだろう。もちろん個室を取ることも考えたが、悲しいことに失業中の身である。おかげ様で退職金も出なかった。節約の二文字が脳裏でうごめき、諦めたのだった。

 とはいえ、普通の車両で一人夜を明かすことに不安がない訳でもなく。

(終点に行く人なんてきっと一握りだし、夜にはきっとこの車両に一人になるでしょう。いや、なって)

 半ば呪うような気持ちで私は日が暮れていくのを見守る所存である。

 車掌は私の頼りない笑いを見てあわれんだのか「後で毛布をお持ちしますね」と言って微笑ほほえんだ。

(いい人だ……)

 一礼して次の乗客のところへ向かっていく背中がやけに頼もしく見えた。

 夜、汽車の中は想像以上に真っ暗だった。私の呪いめいた願いはかない、車両には私しか居ない。だが、暗さと不気味さのせいで、かえって自分一人なのが心細くて仕方がない。

 視界を変えるために座席に寝転がって、車掌が持ってきてくれた毛布にくるまった。

(あったかい)

 ゴトゴトと揺られながら、窓の外をあおけに眺める。昼間、通り過ぎていった木々はあんなに速く車窓を流れていったのに、夜空の星や月はいつまでもそこにあるように見える。汽車が速度を落としたのではないかと錯覚しそうになる。

 ぼんやりと夜の空を見ていたら、今日のことがじわじわとよみがえってきた。三年居たが、あまりいい屋敷ではなかった。街一番の名士というから給金だけは良かったが、それだけである。

 メイド用の屋根裏部屋は狭くてほこりっぽく、ネズミの足音がうるさかった。同僚も協力的ではなく、仕事の押し付け合いをするような連中だった。

 そんな中でもとりわけイマイチだったのは雇い主であるニゼア夫妻だ。

 夫人はいつも気が立っていて、機嫌が究極に悪いと物や人に当たった。うたぐぶかく、いつも夫が浮気をしているのではないかと心配していたが、その割に自身は若くて美しい貴族に目がないというなかなかのおてんっぷりであった。

 しかし、それ以上に私に有害だったのは夫の方で、私が雇われて初めの頃はそうでもなかったのだが、いつからかニゼア氏は異様に私に絡むようになった。

「かわいいね」だの「ね、今暇?」だのと、顔を合わせる度に声をかけられた。私はその頃には夫人が嫉妬深く、目をつけられたら厄介なことを知っていたので、全力でやんわりニゼア氏から遠ざかった。そもそも、夫人のことを差し引いてもニゼア氏と懇意になるつもりは毛頭なかった。

 他に助けを求めようにも、そうはいかないのがあの職場のひどいところだと思う。いくら私がニゼア氏の誘いを「仕事がありますので」と一貫して断っていても、日々仕事の中におもしろを探している同僚たちの手にかかれば、私とニゼア氏の仲は「アヤシイ」関係にされてしまう。

 そのせいかどうかは定かではないが、ニゼア氏からの「声かけ」は更に頻繁になったし、ついには手や腰を触られ、酷く不愉快だった。一応雇い主だからと強く言わずに淡々といなし続けていたのだが。

 それがいよいよ夫人の耳に入り、げきこうした彼女が本日声を上げた次第である。

「……爆発したかったのはこっちよ」

 ギュッと目をつぶり、嫌な考えを中断させる。

(忘れてしまおう。これからのことの方が、大事なのだから)

 心身の疲労が臨界に達し、硬い座席に体を預けた。相変わらず人の気配はなく、規則的な汽車の発する音だけが眠りに落ちるまで耳に残り続けた。

   

   ◇◇◇


 グリュワーズの街の真ん中に立つニゼア氏の邸宅は、いつになく騒々しかった。いや、正確に言えば邸宅の一室だけが。

「彼女を連れ戻す!」

「まあ! 何てこと! やっぱりあの子と!」

 昨日は夫人の迫力に圧倒されていたニゼア氏だったが、一夜明けたら気力を取り戻したらしい。夫妻は朝から激しく言い争っていた。

 使用人たちは二人を止めるような蛮勇は見せず、己の仕事に過去一番集中している。言い換えれば、誰も関わりたくないのである。

「大体、君だって若い将校に色目を使っているじゃないか」

「私は旦那様だけです! 酷いおっしゃりよう!」

 二人がやりあっている部屋の前を通りかかったメイドと執事がこっそりと扉に耳をつけて中の声を聞き、そろって肩をすくめた。

「こりゃまだかかりそうだ」

「ですね」

 使用人たちがそそくさと部屋の前から退散しようとしたとき、「とにかく!」と一際大きなニゼア氏の声が響いた。

「彼女を連れ戻す! レイヴン!」

 名を呼ばれた執事は苦虫をつぶしたような顔になり、隣に居たメイドは「あちゃー」と憐れんだ声を漏らすと、無情にも執事を置いて逃げた。

 レイヴンはうつむいて深呼吸をすると、先程まで浮かべていた苦々しい表情の上に薄っぺらな笑顔を貼り付け、部屋のドアをノックした。

「お呼びですか」

 レイヴンがドアを開けて顔を見せるやいなや、ニゼア氏が迫ってきた。

「レイヴン、ルシルを何としても連れ戻せ。いくらかかってもいい。どんな手を使ってもいい」

 まばたきひとつしないニゼア氏の目を見たレイヴンは、主人のお戯れがもはや笑えない域に達していたことを察し、思わず口元を引きつらせた。かつての同僚ルシルのことが心底気の毒に思われた。

 一方、ニゼア氏の言葉で怒りが頂点に達したニゼア夫人はキンキンとする声で叫んだ。

「そんなことしなくていいわ! レイヴン! 旦那様は今気がおかしくなっているの!」

「何と言った!」

 夫妻はまた苛烈に口論を始めた。部屋の中にとどめられたレイヴンは二人の聞くに堪えないやりとりを右から左へ、左から右へと聞き流す。どうして自分はこの家の執事なんてやっているのだろう、と思いながら。


   ◇◇◇


 降り立った駅は閑散としていた。私は街の案内板はないかと、辺りをきょろきょろと見回した。ともかく、本日の宿を確保しなくてはならない。いくら小さな街といっても宿くらいはあるだろう。

(視線が痛い)

 結局案内板を見ても表示されている周辺地図がざっくりとし過ぎていてよく分からなかった。駅を出た私は街をやみくもに歩き始めた。トランク片手に歩いている人は私くらいのもので、街の人々は物珍しそうにこちらを見てくる。

 外の人間はめっに来ないのだろうか。確かに観光地ではなさそうだし、旅行者は少ないのかもしれない。選択を誤っただろうかと胸の中がどんよりし始めたとき、ようやく宿らしい看板を見つけた。

 レンガ屋根の小さな三階建ての宿。正面には植木鉢が並べられ、可愛らしい花が咲いている。

(こういうので、何となく雰囲気分かるよね)

 私は宿の外観に素朴な印象を受けながらドアを開けた。ドアベルが控えめな音で「カラン」と鳴った。

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