【書籍試し読み増量版】永年雇用は可能でしょうか ~無愛想無口な魔法使いと始める再就職ライフ~1
yokuu/MFブックス
一章 不名誉な解雇と再就職(1)
「この泥棒猫!!」
バチン、という鈍い音と共に
(成敗されるのは、私の方ですか……)
目の前で上げた手をそのままに、赤い顔をした夫人は息を荒くして私を
「出ていきなさい!」
私が口を開く前に夫人が声を高くした。弁明するつもりはないが、もう何を言っても無駄だなと思った。
「……お世話になりました」
こうなった以上、私だってこの屋敷には居たくないし、居られない。
私は三年間雇われたニゼア夫妻に頭を下げ、荷物をまとめるために足早に屋根裏部屋へ向かった。同室のメイドが後から入ってきて、悲しそうな顔でアレコレと慰めてくれたが、彼女が私と旦那様とのことを他のメイドと一緒に
私がトランクをひとつ持って屋敷を出たのは、夫人に頬を叩かれてからほんの三十分後のことだった。振り返った屋敷の窓からかつての主人がこちらを見ていた。
「さようなら!」
その忌まわしい視線から逃げる様に、私は駆け足で門を飛び出したのだった。
「お待たせしました」
「ありがとうございます」
晴れて無職になった私は空腹を満たすために取り急ぎ街のカフェに落ち着いた。国内でも指折りの栄えた都市だけあって、周りはガヤガヤと
「いただきまーす」
ローストされたチキンと
(次の職場を見つけなくては……)
口を動かしながら食べかけのサンドイッチを皿に置くと、私はトランクから地図帳を取り出してテーブルの上に広げる。コーヒーを一口
あんな形で解雇されたのに、この街に居続けるのはきつ過ぎる。あの奥方のことだ、このまま矛先の違う刃物をまたいつどこで向けてくるか分かったものではない。冗談ではなく、本当にモノを持って刺しに来る可能性もある。
身の安全を考えても、別の場所に移った方が賢明だろう。
「ドニアーズは大きい街だけど、治安が悪いって聞くし。うーん、パッシルもいいけどちょっとここから近過ぎるなあ」
ブツブツと独り言を言いながら地図帳をめくる。
「穏やかに過ごしたい。どこか静かそうなところは」
私ももう自立した二十四歳。先程のようなトラブルに見舞われた後ということもあり、賑やかな街よりも落ち着いて生きていける場所を心身が求め始めた。
「この路線の一番果てだと……」
自然と私の目線は地図の端っこの方へと移る。
シュポシュポと汽車の蒸気が吐き出され、車輪の音が響く。車窓はさっきから野原や畑ばかり。ひたすらのどかな光景が続く。それだけでも街から離れたことを実感した。
「切符を拝見します」
車両に現れた
「コートデュー、終点ですか」
車掌は切符に書かれた行先を見て目を大きくした。
「車中で一泊ですが……個室でなくても?」
「あ、はい。大丈夫です」
返された切符を受け取りながら、私は苦笑いを返した。
私が目的地に選んだのは元居た街から出ていた線路の一番先。カフェを出た後、書店に駆け込んで街の様子を調べたところ、小さい街だが活気があり、自然に囲まれた住みやすい土地、とのことだった。何やら良さそうではないかと思う。
ただ、昼から汽車に乗ったのでは本日中に着くことは不可能で、車中で夜を明かすことになる。到着は明日の正午過ぎだろう。
とはいえ、普通の車両で一人夜を明かすことに不安がない訳でもなく。
(終点に行く人なんてきっと一握りだし、夜にはきっとこの車両に一人になるでしょう。いや、なって)
半ば呪うような気持ちで私は日が暮れていくのを見守る所存である。
車掌は私の頼りない笑いを見て
(いい人だ……)
一礼して次の乗客のところへ向かっていく背中がやけに頼もしく見えた。
夜、汽車の中は想像以上に真っ暗だった。私の呪いめいた願いは
視界を変えるために座席に寝転がって、車掌が持ってきてくれた毛布にくるまった。
(あったかい)
ゴトゴトと揺られながら、窓の外を
ぼんやりと夜の空を見ていたら、今日のことがじわじわと
メイド用の屋根裏部屋は狭くて
そんな中でもとりわけイマイチだったのは雇い主であるニゼア夫妻だ。
夫人はいつも気が立っていて、機嫌が究極に悪いと物や人に当たった。
しかし、それ以上に私に有害だったのは夫の方で、私が雇われて初めの頃はそうでもなかったのだが、いつからかニゼア氏は異様に私に絡むようになった。
「かわいいね」だの「ね、今暇?」だのと、顔を合わせる度に声をかけられた。私はその頃には夫人が嫉妬深く、目をつけられたら厄介なことを知っていたので、全力でやんわりニゼア氏から遠ざかった。そもそも、夫人のことを差し引いてもニゼア氏と懇意になるつもりは毛頭なかった。
他に助けを求めようにも、そうはいかないのがあの職場の
そのせいかどうかは定かではないが、ニゼア氏からの「声かけ」は更に頻繁になったし、ついには手や腰を触られ、酷く不愉快だった。一応雇い主だからと強く言わずに淡々といなし続けていたのだが。
それがいよいよ夫人の耳に入り、
「……爆発したかったのはこっちよ」
ギュッと目を
(忘れてしまおう。これからのことの方が、大事なのだから)
心身の疲労が臨界に達し、硬い座席に体を預けた。相変わらず人の気配はなく、規則的な汽車の発する音だけが眠りに落ちるまで耳に残り続けた。
◇◇◇
グリュワーズの街の真ん中に立つニゼア氏の邸宅は、いつになく騒々しかった。いや、正確に言えば邸宅の一室だけが。
「彼女を連れ戻す!」
「まあ! 何てこと! やっぱりあの子と!」
昨日は夫人の迫力に圧倒されていたニゼア氏だったが、一夜明けたら気力を取り戻したらしい。夫妻は朝から激しく言い争っていた。
使用人たちは二人を止めるような蛮勇は見せず、己の仕事に過去一番集中している。言い換えれば、誰も関わりたくないのである。
「大体、君だって若い将校に色目を使っているじゃないか」
「私は旦那様だけです! 酷いおっしゃりよう!」
二人がやりあっている部屋の前を通りかかったメイドと執事がこっそりと扉に耳をつけて中の声を聞き、
「こりゃまだかかりそうだ」
「ですね」
使用人たちがそそくさと部屋の前から退散しようとしたとき、「とにかく!」と一際大きなニゼア氏の声が響いた。
「彼女を連れ戻す! レイヴン!」
名を呼ばれた執事は苦虫を
レイヴンは
「お呼びですか」
レイヴンがドアを開けて顔を見せるやいなや、ニゼア氏が迫ってきた。
「レイヴン、ルシルを何としても連れ戻せ。いくらかかってもいい。どんな手を使ってもいい」
一方、ニゼア氏の言葉で怒りが頂点に達したニゼア夫人はキンキンとする声で叫んだ。
「そんなことしなくていいわ! レイヴン! 旦那様は今気がおかしくなっているの!」
「何と言った!」
夫妻はまた苛烈に口論を始めた。部屋の中に
◇◇◇
降り立った駅は閑散としていた。私は街の案内板はないかと、辺りをきょろきょろと見回した。ともかく、本日の宿を確保しなくてはならない。いくら小さな街といっても宿くらいはあるだろう。
(視線が痛い)
結局案内板を見ても表示されている周辺地図がざっくりとし過ぎていてよく分からなかった。駅を出た私は街をやみくもに歩き始めた。トランク片手に歩いている人は私くらいのもので、街の人々は物珍しそうにこちらを見てくる。
外の人間は
レンガ屋根の小さな三階建ての宿。正面には植木鉢が並べられ、可愛らしい花が咲いている。
(こういうので、何となく雰囲気分かるよね)
私は宿の外観に素朴な印象を受けながらドアを開けた。ドアベルが控えめな音で「カラン」と鳴った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます