プロローグ 用意周到 (2)

「お待たせしました」

 テーブルに置かれたのはれたての熱いコーヒー、ジュウジュウと音を立てている焦げ目のついたソーセージ、湯気を立てているパンケーキには溶けて染み込み始めているバター。

 目玉焼きは半熟だ。小さなガラスのピッチャーにはメイプルシロップがたっぷり入っている。

 シロップを全部パンケーキにかけてからナイフとフォークを手に私は旺盛な食欲でそれらを口に運んだ。組織から抜ける用意をしてから一年。そのうち食事を制限したのが八ヶ月。

「はぁ。美味おいしい。これからは食べたいように食べられるわ」

 失恋に苦しむ姿を印象づけるために食事の量を減らしていた間、私は常に空腹だった。途中からは心配したランコムに食欲増進の薬まで飲まされていたから飢餓感はひどかったが、必死に耐えた。体重は普段より八キロも落ちていた。

 やっと好きなだけ食べられる。

 男でも満腹しそうな量の食事を時間をかけて完食し、ホテルを目指して王都の街を歩くことにした。これからは落ちてしまった筋肉を取り戻さなければ。


 やがて大通りにある大きなホテルに入り、カウンターに向かう。

「手紙で予約していたビクトリア・セラーズです」

「セラーズ様、お待ちしておりました。お部屋は三階です。ご要望どおり角部屋をご用意しております」

 当分はこのホテルを拠点にして今後の生活の準備をしていくつもりだ。使える手札は多いのだ。のんびりいこう。私はベッドにポフン、と飛び込んだ。


 室長のランコムは私の捜索を続けるだろうか。二つ先の国のアシュベリー王国まで捜索の手を伸ばすだろうか。それともすぐに見切りをつけるだろうか。

「やめやめ。ここで心配しても時間の無駄よ」

 これからは誰にも縛られずに自由に生きていきたい。


 私が移住先に選んだアシュベリー王国を導く王家は優秀らしく、何代にもわたって侵略目的の戦争には手を染めず防衛戦のみ。

 商人の流入が多く、人種的にも多様だ。私のような見知らぬ人間がある日突然街に住み着いても目立たない。それがこの国を選んだ理由だ。

「何をして働こうかな」

 私は八歳の時、まだ若手だったランコムに拾われた。初仕事は十五歳。二十七歳までひたすら働いてきた。ランコムはその間に室長に昇進していた。

 私は家族のために毎月ちょっとした品物を買い、お金と一緒にランコムに頼んで送ってもらっていた。ランコムは手紙が入ってないかを調べてから実家にそれを送ってくれていた。

 家族との連絡を取ってはいけない規則だったからだ。

「私の仕送りを両親と妹のエミリーが喜んでくれているだろう」という思いが仕事をする私の心の支えだった。連絡は取れなくても家族の死だけは教えてもらえるはずだった。それは何度も確認していた。

「なのにみんな死んでしまっていたなんて」

 私はランコムを兄のように慕い、上司としても尊敬していた。そのランコムが私の家族の死を二年も隠していたとは。

 それを知ったのは今から一年前のこと。

 仕事のあとに十八年ぶりに実家のある町に足を延ばした。遠くからひと目だけでも家を、いや、家族を見たかった。変装をして実家の近くに行ったら、家があった場所はさらになっていた。

 驚いて調べたら家は火事で燃えたそうだ。火事は二年も前のことだった。

 地区の役人は、私の書類上の雇い主である貴族にすぐ連絡したはずだ。

 連絡を受けた貴族は組織に私の家族の死を知らせただろう。そういう規則だからランコムが知らないはずはない。他の工作員も親の死だけは知らせてもらっていた。

(そうか。そういうことするの)

 彼は私がどれだけ家族を大切に思っていたかを知っていた。私が誰のために働いているか、十八年ものあいだ繰り返し彼に話していたのだから。


 その後、私は何事もなかったように働き、給料日の後はいつもどおり実家に送る木箱をランコムに渡した。そして彼の退勤時に尾行した。その日の夕方、木箱を抱えたランコムは王都の荷物集配所には向かわなかった。

 私の尾行にも気づかなかった。彼の腕が落ちてることに心底がっかりした。

 ランコムが入ったのは管理職用の宿舎ではなく、立派な制服の守衛がいるような高級な集合住宅の一室だった。三階のカーテンと窓が開き、空気を入れ替えるランコムが見えた。

(あそこか)

 彼が建物から出てくるのを待った。夜の闇に紛れて二階のテラスやちょっとした壁の出っぱりを足がかりにして三階まで登る。まずあかりがついていない別の部屋に忍び込んで、そこから彼の部屋に向かった。

 ドアの鍵を道具で開けて部屋に入ると、生活感のない部屋の隅に私が彼に渡した小さな木箱が二十五個、積まれていた。

 積まれた木箱を見た途端に感情が爆発しかけたが、すぐに気持ちを抑えた。

 そこにあった全部の箱を開け、中に忍ばせたお金を一枚の硬貨も残さず回収した。台所の銀のカトラリーと金のしょくだいも盗んだ。泥棒の仕業だと思ってもらおう。ランコムの物は帰り道、途中の川に全部放り込んだ。

(私、勘違いしてた。あの人は、工作員の組織で出世するような人だったのに)


 翌日以降も私は以前と変わらずに仕事をした。

 毎月給料日の翌日には家族への贈り物を彼に頼んだ。生活は以前と変わらなかったが、私の心は変わった。もう家族はこの世におらずランコムへの信頼もない。

 仕事の合間に彼の情報を探り始めた。その結果わかったのが、ランコムは私の同僚の女と結婚することが決まっていることだった。ならそれを使わせてもらおう。

「私、室長みたいな男性が理想なの」

 ランコムに異性としての興味は全くなかったが、少しずつ他の同僚にランコムへの恋心を切なそうに漏らした。いずれランコムの結婚話は公になる。それにショックを受けて命を絶ったと思わせるための準備だ。

 ランコムとメアリーの結婚が発表された日から食事の量を減らした。二ヶ月後には誰の目にも私はやつれて見えたはずだ。

 理由を聞かれても暗い顔で目を潤ませて「なんでもない」と答えれば、皆が同情のにじむ顔をした。もっとも結婚相手であるメアリーだけは勝ち誇ったような表情を隠すのに苦労していたようだが。


 なぜこんな面倒な手間をかけて組織から抜けたか。

 それは私の成績が優秀だったからだ。

 ハグル王国の工作員の中で私は長年の間、成績トップを保っていた。そんな私が「仕事を辞めたい」と言って「はいそうですか」と辞めさせてもらえないのは明白だった。

 私は自分の将来を『結婚せずに四十代まで現場で仕事をして、その後は後輩の育成に携わる』と計画していた。ランコムにそれを勧められていた。

 だが両親と妹のエミリーを失った今となっては、組織にそこまで人生をささげる気持ちも義理もない。ランコムに認めてもらうことなんか、もうどうでもいい。


 なのに失踪の準備をしながらも、当日の朝までランコムから「クロエに知らせるのが遅くなったが、実は……」と家族の死を知らせてもらうことを待つ自分がいた。

 でも計画を実行する日までランコムは私に家族の死を伝えてはくれなかった。家族が死んでからもう三年だ。途中いくらでもその事実を告げる機会はあっただろうに。

 ランコムにとって私は妹でも大切な部下でもなく、使い勝手の良い道具でしかなかったのだ。自分の一方的な思い込みが滑稽でむなしかった。

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