第一章

第2話 春咲うらら、始まりの夏

 時刻は16時35分。


 帰宅ラッシュの時間までもう少し余裕があるはずだと思っていたのに名古屋駅まで向かう地下鉄東山線はとても混雑していて、なおかつ桜通線も加わる今池駅いまいけえきでは足早に行き交う人達が流れるように通り過ぎていく。


 初めて降り立ったわけではないけど、平日になかなか降りることのないこの地におりたち、緊張が入り混じった状態で十番出口を目指す。


 制服で行っても問題ないと母は言っていたけど、本当に大丈夫だろうか。


 不安いっぱいでガチガチになりながらもゆったり下る地下通路はずいぶん長く感じられた。


 頭上に記された文字のとおりに目的地を目指して足を進める。


 ずいぶん離れた場所にあるのか、先を進むごとに本当にこちらで合っているのか心配になってくる。


 人の流れが徐々に減り始め、ついにはわたしだけになる。


 最果てとも思われた場所で『今池ビル内』と記されたすぐ隣にに十番出口へ続く矢印が見えた。


 どうやらここはビル内に繋がっているようだ。


 母が書いてくれたメモの通りビルに入ってすぐのエスカレーターを上がり、左手に見えるエレベーターの前で足を止め、大きく深呼吸をする。


(本当にこんなところに本屋さんなんてあるのかしら?)


 どう見ても母がいつも話している奥ゆかしい雰囲気の古本屋さんがあるようには思えない。


 どちらかというと立ち寄り難いオフィスの入ったビルの印象だ。


(間違えて……ないわよね?)


 何度目かになる疑問で胸をいっぱいにしながら肩に下げた鞄をギュッと握る。


 アルバイトをするのは初めてだ。


 緊張と不安で心臓が口から飛び出してきそうなのをこらえ、今すぐにも逃げ出したい感覚と闘っている真っ最中なのである。


 幼いときからアニメや舞台、物語など非日常的な世界観が大好きだったわたしは秋から声優の卵が集う養成所に通いたいと思っている。


 自分にはない世界にいるキャラクターたちに自分の声を通して命を吹き込む職業に憧れを持ち始めたのは中学生の頃。


 ようやく養成所に通える年齢になり、そのため自分でレッスン料を貯めるため、今日から夏休みを通して、母の代わりに彼女が長年勤めていた古本屋さんでアルバイトを行うことになったのだった。

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