アイを唄う人魚と鏡の魔法 ⅩⅧ

 それは―――一本の『糸』。

 演奏をする彼方さんの頭頂から一本の黄金の糸が天井から伸びていた。まるで人形パペツトのように、彼女の演奏する動きにつられるように糸もまた揺れている。


「???」


 霧が晴れるにしたがって視界が明瞭になっていくと糸が一本だけではないことに気がつく。左手の小指から、右手の突き刺し指から、背中から、肩から、足から…………。

 とにかく一本どころではない。無数の『糸』が彼方さんから伸びている。そして、そのうちの一本は横にいる白亜さんと繋がっていた。


「―――これが彼方の魔法よ」


 そう言うと白亜さんは左手の指に結ばれた糸を愛おしそうに撫でる。糸の色は雪原を舞うダイヤモンドダストのような銀色。キラキラと煌めく地上の宝石の欠片。

 彼方さんを結ぶ糸は全て色が異なっていた。

 赤、緑、青、黒、橙、黄、朱、めくるめく色の洪水が彼女の周囲を祝福するように取り巻いている。きっと、彼女にとってその糸は全て宝石のように大事なものなのだろう…………。

 自然と視線は自分の手元に移る。

 私の指にも糸は…………あった。

 けれど、私の糸は壊れかけの蜘蛛の巣のようにだらしなく垂れさがっていた。目を凝らさないと見失ってしまうほど細くて、宙に溶けてしまいそうな白。

 小さくため息をつく。

 そう、だよね。

 どこかであの人の優しさに縋っていた自分が恥ずかしくなる。たった数時間しか一緒にいなかったのに、しかも、あの人たちの大事なものを滅茶苦茶にしたというのに。なんて厚かましいのだろう。

 切れかけた糸に手を伸ばす。綿あめ機の残りかすのようなそれはふわふわしていて何もしなくても今すぐにも切れてしまそう。


「―――でも」


 これが私の魔女としてのけじめ。

 この糸が切れてしまえば、本田透火と白埜彼方の因果の糸は切れる。もう未来永劫、魔女たちと出会うことはあるまい。

 そして、『鏡』の魔女として、合わせ鏡の“奥”に消えてしまおう。


「…………ごめんなさいありがとう、彼方さん。タルトと紅茶、美味しかったです」


 目を閉じて糸に力を籠める。

 これで、もう―――。


「透火さん」

 

 聞こえるはずのない声がして、瞼を開く。

 目の前には彼方さんが立っていた。

 ヴァイオリンは顎を乗せたまま顔を少し紅潮させ、汗が滝のように肌から肌へと流れている。そして、音楽はいつの間にか消え失せていた。

 困惑した私に彼方さんはにっこりと笑いかけると、


「ほい」


 手に持った弓を何気なくスナップさせると私の糸をそのまま弓に3巻き程巻き付けてしまった。そして、弓を弦に再び乗せると社交ダンスを踊るかのようにくるりくるりとターンをしながら演奏を再開するではないか!


「うふふ、これで透火さんは私と“お友達”です」


 どこか楽しげに聴こえる《Vocalise》の旋律に合わせて、ピンと張った糸は輝き始める。

 その色は真っ赤に染まる夕焼け空のような“緋色”。いつか私があの公園で碧海お姉ちゃんと出会い、暗くなる遊び続けたあの空の色。

 生温かくてどこか優しい感じのする夏の雨が私の頬を流れていく。


 “私の魔法はですね、見知らぬ誰かとお友達になる魔法なんですよ”


 …………ああ、この人はウソなんて何も言っていなかったのだ。

 …………まったく、本当にまったくもう、この人は…………!


 

 楽しかった魔法の時間はもうまもなく終わり。

 最後が肝心ともう一度弓を握る手を集中すると、結ばれた緋色の糸から透火さんの記憶が流れてきます。

 それは幼いヒトではない少女の、夢のような記憶でした。



 透火さんはこの世界に生まれたその瞬間から“こちら側”と“向こう側”を結ぶ『鏡』としての性質を内包していました。そして、『鏡』が透明であればあるほど世界を鮮明に映し出すように、彼女の自我や知識がなければないほど『鏡』として純粋だったのです。 

 それは人間としてあまりにも異質でした。

 何も持っていないはずの稚児が全てを持ち合わせていたのですから。

 合わせ鏡の向こう側が無限に続くように彼女は既に何もかも知っていたのです。ゆえに感情も意思も愛情すらも透火さんは必要ありませんでした。

 泣くことも笑うこともなく淡々と生命活動を続けるだけの機械。

 困ることがないことに困ってしまった大人たちは彼女に病名をつけることで現実とのすり合わせを行いました。そして、大人たちが違和感を持っていることに違和感を覚えた幼子は大人たちの幼稚な指示コマンドを受諾することでヒトとしての形を保っていたのです。

 そんなときでした。

 透火さんが“碧海しんじゅ”さんと出会ったのは―――。


『こんにちは、はじめまして、とうか』


 夕暮れの児童公園の片隅。水平線が火に燃えるように輝くように見えるシーソーの反対側にその少女は笑って座っていました。


「おねえちゃんはだれ?」

『うん、とうかの友達だよ』


 その頃、透火さんはとても困っていました。大人たちの指示コマンドには対応できるのですが、発達過程が同じ程度の園児たちとうまく交流ができなかったのです。透火さんは大人たち用と子供用に処理回路を並列化して対応していましたが、園児たちにはそれがどうにも不気味に見えてしまうのです。


「ともだち?」

『そう。とうかは友達がうまく作れないんでしょ? だから、アタシが生まれたの。これからとうかは私とたくさん遊んで、たくさん話してニンゲンになるの』

「このせかいでいう、しんそうがくしゅう、というものね」

『そ、ディープラーニング。馬鹿になるための練習よ、と』


 少女がにこりと笑うとシーソーが上がりました。

 まん丸の真っ赤な夕陽がシーソーが動く度にボールのように弾みます。


「…………きれい」

『そうだよ、世界はこんなにもきれいなんだ』


 赤く染まる少女のはにかむ顔を見て、透火さんは初めて自分の意思で笑ったのでした。


『そうそう、それでいい。上出来じゃないか』

「ねえ、あなたのなまえは?」

『うん? とうかが決めなよ。私は“向こう側”からとうかに呼ばれて出てきた存在なんだからさ』

「じゃあ、“碧海しんじゅ”がいい」

『知っているけどどうして?』

「名字はうみからきたから“碧海”」

『ふんふん、まあこの辺の海はそこまできれいじゃないけどね。名前は?』

『うみのなかのしんじゅのように、きれいでかわいいから』

『…………』

「…………なんでシーソーでやめちゃうの?」


 その顔を私は忘れない。

 俯いて歯を食いしばる顔を夕陽が染めている。

 最初は急にお腹が痛くなったのかなあと思った。

 再びふわり上がるシーソー。

 広い広い空の下で、真っ赤になって、はにかむ友達の顔を私は見た。

 そして、私は理解した。

 ああ、これが喜びという感情なのだと。

 この日、空と海の境界で一人のニンゲンが生まれた。

 世界よ、この誕生に祝福あれ。



 結局、碧海しんじゅさんが透火さんが生み出したのはIFかそれ以上の何かだったのか、それとも別の次元から来た“誰か”だったのかは私にはわかりません。

 確実なのは独りの少女にとって夢のような穏やかな日々が過ぎていったこと。

 透火さんの中にニンゲンの感情が満たされる度に、『鏡』の純度が失われていきました。

 そして、それらが満たされたとき、少女の中の『鏡』は自己を映すだけの鏡になり、碧海しんじゅという“誰か”はこの世界の誰からも見えなくなりました。

 それから季節が10回巡りました。

 少女はすっかりニンゲンになり果てていました。

 誰よりも美しかった歌声を持っていたことを忘れ去り、2人で楽しく喋った舌も失われてしまいました。代わりに得られたのは重くて一歩踏み出す度に血が噴き出しそうな足。

 あの日、美しかった世界は消え失せ、醜くて不条理な世界だけが少女の曇った瞳の前に広がっていました。


 《本田透火、てマジで馬鹿だよね》

 《アイツ、て何で普通の学校に入れてるの? 保育園の頃からおかしかったじゃん》

 《先生も甘すぎ。だから、アイツ世間を舐めているんだよ》

 《うちらが何したってーの。うちらは代わりに―――》

 《ホント。このままだと困るのは―――でしょ。あたしたちは善意で―――》


 わからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからない。

 何を間違えた?

 私は全てを知っていたのに。

 私は■■の代償にしてニンゲンになったはず、なのに。

 わからない。

 わからない、よ。

 誰か私に教えて、


 ねえ、“お姉ちゃん”


「―――はじめてまして、透火さん」


 小さな身体を震わして泣きじゃくる透火さんの体温が伝わってきます。

 それはじんわりと熱くて、誰の目にも見えない命の火。


「あなたはただの人間です。永遠でもない一瞬の命を生きる、人間なんです」


 幼かった少女はあの日、永遠を選ばなかった。

 そして、永遠の友人は少女にそれを選んで欲しくなかった。

 仮初の人間としての人生を生きてほしかった。

 その理由は私たちにはわかりません。

 その答えは透火さんが自らの旅路を終えたときに初めてわかるのでしょう。

 そして、永遠となった彼女は友人に再会する。

 カーテンコールの“向こう側”で役者たちは何を話すのでしょう?

 それは彼女たちだけの秘密。

 幕の“こちら側”の私たち観客はせいぜい楽しい想像をさせてもらいましょう!


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