アイを唄う人魚と鏡の魔法 Ⅱ

 ホールの正面扉の向こうからくぐもった声と一緒に遠慮がちに扉を叩く音が聞こえたのです。私たちはハッとして立ち上がりました。扉に向かって走り出すと狐につつまれたような感覚はたちまち消えていきます。


「はーい! 今、開けますよー」


 扉にはめ込まれたガラス窓の向こう側は白い糸を引くような雨が音もなく降っていました。外で待つお客様の顔は俯いているうえに逆光なのでよく見えません。懐から銀の鍵を取り出して鍵穴に差し込むと小気味よい感触とともに二枚扉は滑るように内側に動き出します。


「申し訳ございません、お待たせいたしました……っ!?」

「………………」


 お客様の姿を見た私は驚いて二の句を継げませんでした。

 そのお客様はとてもお若い方でした。童顔で小学生のようにも見えるのですが、白い半袖のシャツとプリーツスカートから中学生であることがわかります。でも、真新しいはずの制服は雨ですっかりずぶ濡れになっており、張り付いた白い生地が透けて白桃のような肌やスポーツブラが露わになっていました。


「ど、どうぞ、中へ!」


 ようやくこれはマズイと気づき、エントランスの中に入っていただきました。指先でほんの少し触れた細い肩が硝子細工のようで、今にも壊れそうなのがひどく印象に残りました。


「…………どうも」


 ショートカットの黒髪が床に向かって揺れると髪先から雨粒がぽたりと垂れます。無愛想とも無感情ともどこか違う静かな表情。

 魔女の劇場に来場されるお客様たちは個性的な方が多いですが、こんな形で来場された方は私の記憶にはありません。


「あ、あの…………」

「ちょっと待っててくださいね。今、バスタオルを持ってきますから」


 私なんかが指示するまでもなく白亜の姿は奥に消えていました。こういったところはさすがベテランスタッフの動きといったところです。


「ここまで来るのは大変だったでしょう?」


 ほんの数秒が惜しくて私はポケットからハンカチを取り出すとお客様の小さな頭にそっと触れました。立ち尽くした少女の足元にはあっという間に水たまりができています。


「…………」


 お客様は静かに私を見つめてされるがままにされていました。やがて、ハッと我に返るとものすごい勢いで頭を下げました。


「うっ!?」


 飛び散った水滴が私の眼球に会心の一撃クリティカルヒツトしました。視界を失ってよろけかけると足元には水たまり……あとはわかりますね?


「あわわわあわわわ……っ!?」

「あははー、大丈夫ですよー」


 大変慌てていらっしゃいましたが、足元の私が大笑いするとお客様もつられるように微笑みました。野花のようなその笑顔は年相応の可愛らしいものでした。


「ごめんなさい。その……お姉さんの姿に……見惚れてしまって」

「あー、この髪のことですね」


 水滴のついた髪先を指を摘まむと灰白色がちらりと見えました。毛根の近いところは灰色がかっていますが、伸びるにつれて色素が抜けて白くなっていきます。元々はこういう色ではなかったのですが、今ではこんな髪の色になってしまいました。

 おばあちゃんのようで驚くお客様も多いですが、私は何気に気に入っています! だって、銀髪の白亜とこんな髪の私、「」の館長代理兼支配人代理としてピッタリじゃないですか! 猫といえば、ロシアンブルーのブルーポイントが私の髪の色にちょっと近いかもしれませんね。


「いえ、髪の色もそうですけど、すごくきれいな人だなって―――」


 途中から声が消え入るように小さくなってしまい、尻もちをついた私にはよく聞き取れませんでした。身体が冷えてしまったのか顔も真っ赤です。


「…………何やってんの、あなたたち?」


 いつの間にか近くに立っていた白亜が呆れたようにそう言うと私たちはもう一度笑ったのでした。



「チケットを無くした?」

「…………はい、こちらに届いていないでしょうか?」


 今にも消えてしまいそうな声。目の前の少女はわずかに俯くと小さな拳をぎゅっと握りしめました。きっとここに来るまで不安でいっぱいだったのでしょう。

 白亜を見ると目顔で「ありえない」と言っていました。そして、私も残念ながらそれに同意せざるを得ませんでした。


「―――ごめんなさい。そういったものは届いていないです」


 “普通”の劇場であればチケットを紛失することは“普通”にあり得ることです。たとえそれが目の前が真っ暗になるぐらいショックなことであっても。

 でも、ここは「魔女の劇場」。

 そして、今夜、満月の夜に開演する演目シヨーも“普通”ではないのです。

 演目としての「魔女の劇場」はチケットを売りません。新月の夜に特別な術式が施された翡翠のチケットを観客席に一枚ずつ置いていくと、魔女の魔法を本当に必要とする人の名前と住所が浮かび上がるのです。まるで月の精霊が筆を走らせたかのように。

 ときには遠い海外に住んでいらっしゃる方の名前が出てくることもあります。けれど、どんなに遠い場所であろうとも翡翠のチケットに導かれて必ずご来場されるのです。

 だから、「魔女の劇場」には昨今問題になっている転売はありませんし、紛失することもあり得ません。あり得ないのですが―――。


「…………そうですよね。さっき無くしたばかりなのに届くなんてありえないですよね」

「さっき?」

「はい…………信じてもらえないかもしれないけど、チケットが空を飛んでそのまま空に吸い込まれていったんです」

「ええっっ!?」


 ここは「魔女の劇場」。

 どんなにあり得ないこともここではあり得ないということはないのです。

 お客様、本田透火とうかさんの元に「白猫座」の新緑色の封筒が届いたのはやはり二週間前だったそうです。中を開けてみると手紙とともに見たことのない宝石のように輝く一枚のチケットが同封されていました。不思議な紋様のデザインの上には透火とうかさんの名前と今日の日付、そして、公演名 《"The Little Mermaid"》とともに書かれた主演の名前―――。


「私、その名前を見て飛び上がりました。そして、すぐにわかったんです。それが私の“お姉ちゃん”だって。“お姉ちゃん”が私を招待してくれたんだって」


 今夜の主演を務める“魔女”は透火さんの幼馴染のお姉ちゃんなのだそうです。

 魔女の名前は「碧海あみしんじゅ」。

 「白猫座」で公演するのは初めてですが、歌がとても素晴らしい魔女だと伺っています。魔女としての才能タレントもその歌にまつわるものであるとか。

 ちなみに「碧海しんじゅ」という名前は魔女としての名前、私たちの言葉でいうところの“真名”になります。女優としての芸名とはまた別のものです。

 真名については術式やら霊脈やら話が少し専門的なものになるので省きますが、何が言いたいかというと魔女の名前は口外すべきではないものであり、ネットで検索してもまず出てこないものなのです。

 なので透火さんがその名を知っているということは真実に限りなく近いということ。


「―――『碧海あみしんじゅ』というのは幼い私と想像遊びをしたときにお姉ちゃんが使っていた名前なんです…………あのときは楽しかったなあ。お姉ちゃんは歌も演技もとてもうまくて、私だけの主演女優でした。お姉ちゃんと一緒に本を読むだけで世界は全く違うものに変わったんです……」


 透火さんはそう言うとバスタオルの端をぎゅと握りしめました。そして、視線は人のいないエントランスを離れていつか遠い日の思い出を見つめるのです。そのときの透火さんの横顔はとても楽しそうであり、泣きたくなるぐらい切なくなるものでした。

 思わず目を逸らすと白亜と目が合いました。白亜の手元には今夜のお客様たちの氏名が書かれたバインダーがありました。白亜はこくりと頷きます。やはり透火さんが今夜のお客様の一人であることは間違いないようです。


「お姉ちゃんは私が小学生になってしばらくするとどこかに行ってしまいました。なぜか悲しくはなかった。当たり前のように受け入れました。お姉ちゃんは都会に行って女優になったんだって…………本当になんでだろ? 私、手紙とチケットを見るまでお姉ちゃんのことをすっかり忘れていたんです。あんなに一緒にいて楽しかったのに……」

「そういえば手紙も同封されていたんですよね? 手紙ではお姉さんは何て?」


 私がそう言うと透火さんは制服のポケットから雨に濡れた封筒を取り出しました。手紙は一見するとメモにしか見えない小さなもので、女性と思われる筆跡でたった一行だけこう書かれていたのです。


If you show up, I'll see you.(来てくれたら、私はあなたに会えるでしよう)


「まるでトウモロコシ畑に野球場を作るような話ね」


 やれやれと首を振りながら白亜が古い映画に例えてそんなことを言いました。

 本当にワケがわかりません。これではチケットの密室トリックです。私や白亜が封を施した封筒に誰かが後から手紙を追加することはできません。まあ郵便局や透火さんの家のポストで封筒を一旦回収するか、私か白亜のどちらかが真犯人なら不可能ではないでしょうけど。

 このように劇場側の人間である私たちにとっては俄かに信じがたい話なのですが、透火さんにとってはそうではなかったみたいです。


「お姉ちゃんにまた会えると思うとすごく嬉しくて、公演の日が待ち遠しくて何度も何度もチケットを封筒から出しては確認してました。そして、今朝も中学校に向かう道でチケットを空に透かして眺めていたんです」


 まるで目の前であったかのようにそのときの情景が浮かび上がります。

 台風の接近を前にしてはち切れんばかりの空気と奇妙な静寂。少女は厚く垂れ込む雲の間から差し込む一筋の光芒に手にしたチケットを重ねる。紙の向こう側でハレーションが起きたそのとき、ふわりと舞い上がる一陣の風。少女の手から離れたチケットはまるで意思を持ったかのように空に吸い込まれていく―――。


「―――それで今まで傘も差さずにこの大雨の中をずっと探していたのか」


 雨音が響くロビーの中に白亜の大きなため息が漏れました。

 彼女の不注意といえばそれまでです。それどころか多少の事実が含まれているとはいえ、話には脈絡はなく、少女の妄想と言われても仕方がありません。白亜が言った「フィールドオブドリームス」みたいに話がぶっ飛んでいます。


「…………なんであんなバカなことをしちゃったんだろう」


 透火さんの頬に一粒の涙が流れ、きらりと輝きました。

 ―――それでも、


「大丈夫ですよ、透火さん」

「………えっ?」

「劇場というものはですね、チケットを無くしても開演時にその席が空席で他に所有者がいないことを確認できれば入場できるものなんですよ。まあ最初の方がちょびっと観れなくなっちゃうのは許してくださいね」


 その言葉を聞いた途端、曇っていた少女の顔がぱーっと明るくなっていきます。

 それでも私は、彼女の語る話のなかできらきらと浮かび上がる“想い”という名の粒子がこの世界の虚構だったとは思えなかったのです。


「それじゃあ………」

「はい! とにかく今は待ちましょう! もしかしたら開演までにチケットが届けられるかもしれませんしね♪」


 精神的によほど追いつめられていたのでしょう。ネットの知恵袋を調べれば簡単にわかるようなことなのに、透火さんはまるで愛の告白を受けたかのようでした。


「はい! はい、待ちます! いつまでだって待っています!」

「あはは。透火さん、それじゃ公演が終わってしまいますよー」


 私たちは手に手を取ってその場でクルクル回りだす勢いでしたが、この場にはもう一人いることをすっかり失念していました。


「支配人代理、私は反対よ」


 しかも、とても空気を読めない人が。


「どうしてですか!? 劇場の対応としては至極真っ当なものだと思うんですけど、ですけど!」

「それはあくまで“普通”の劇場の話でしょ? でも、ここは『魔女の劇場』なのだから」


 ……まったく! 口を開けば、“普通”とか“普通じゃない”じゃないとか。もうまったくもう、この副館長サマは!? どうしてお客様の気持ちがわからないんでしょうか!?


「他の誰かがそのチケットを手にした時点でその子に『魔女の劇場』に入場する資格は失われているの。たとえ劇場の名簿に名前が記載されていたとしても私たちに入場を止める権利はないわ」

「むーっ! “その子”はやめてください。お客様です!」

「違うわ。魔法のチケットを手にした人が私たちのお客様よ。チケットを持っていないこの子はお客様じゃない」


 しゃーっ! しばらく二人して睨み合っていると透火さんが慌てて間へ入りました。


「け、喧嘩しないでください! そもそもが私が悪いんですから」

「でも、透火さん」

「本当にいいんです。今日はお姉ちゃんが本当に女優になったことがわかっただけでも十分ですから。次の公演に来られるようにがんばってお金を貯めます!」


 にっこりとほほ笑むその顔は虚勢や阿るようなものではなく、本心の笑顔でした。そんな笑顔を見せられてはますます引くことはできません。私の魔女としての沽券に関わります。


「絶対にダメ!」


 白亜はこの世の終わりのようなため息をつくと顔を手で覆いました。決して短くはない付き合いです。私がこうなってしまったらいくら反論しようと無駄なのは知っているのです。


「諦めては絶対にダメですよ、透火さん! 次はないのです‼」

「えっ……どういう……?」

「あなたが無くしたチケットは『魔女の劇場』の招待状なんです。魔法が、あなたのお姉さんが透火さんだけに用意した魔法が、舞台の上で必ず待っているのですよ!」

「『魔女の劇場』? 『魔女』? えっ? ええっ!?」


 混乱する透火さんに私は「魔女の劇場」と「魔法」のことを説明しました。そして、「白猫座」と私たちのことも。この劇場を訪れる多くのお客様たちのように最初こそ当惑されていましたが、知恵の輪がスッと外れたかのように納得されたのでした。


「―――お姉ちゃんが『魔女』……?」

「はい。『白猫座』での公演は初めてですが、『魔女』としてもう何度も舞台に立たれています。そうですよね? 副館長殿」


 白亜の副館長としての主な役割は劇場の管理です。そして、公演の打ち合わせについても副館長に一任しています。私の目論見がバレバレなので白亜は露骨に顔をしかめましたが、副館長としての立場が沈黙を許しません。 


「彼方、あなたは……まったく。そうよ。『碧海あみしんじゅ』は魔女になって3年目ぐらいだけど、今、一番人気のある魔女。才能タレントは『境界』。その歌を聴くと現実と非現実の境界が曖昧になるそうよ。きっと海の妖女セイレーンの歌のように夢見心地になるのでしょうね」


 透火さんの喉が小さく息を呑みました。そして、まるで心が天に連れ去られるような表情で観客席に続く階段を見上げたのです。

 そうですそうです。

 夢のような魔法の歌を唄う《人魚姫》なんて誰だって観たいに決まっています。しかも、それを演じるのは最高の歌姫ディーヴァで大好きな幼馴染なのですよ! 私だったらモップ掛けでも皿洗いでも何でもして舞台をせめて一目見ようとするでしょう。というか、梃子でも動きません。

 ふふん、勝ち誇った私は敗者に最終降伏を呼びかけようとしましたが、白亜は何やら神妙な顔をして考え込んでいるのでした。


「白亜、どうしたんですか?」

「…………うん? ああ、何でもないわ。『碧海しんじゅ』のキャリアが急に不思議に思えてきてね、彼方は『碧海しんじゅ』のことをどれだけ知っている?」


 白亜は何を言っているのでしょう? 

 知っているも何もむしろ知らない方が不思議なぐらい大人気な方です。主演を務めた映画はカンヌやヴェネツィアで賞を取ることが噂されていますし、来年座長を務める舞台は東京大坂福岡の全日程が抽選倍率数百倍だったとか。同じ魔女でなければ弱小劇場の私たちとはとてもお近づきになれないようなまさしくスターな人です。


「劇場の外のことなんかどうでもいいわ。私が気になるのは『魔女』の『碧海しんじゅ』よ。そこまで人気のある『碧海しんじゅ』はいつ、どこで『魔女見習い』をしていたのかしら?」


 魔女の世界はとても狭いものです。現代の人には少し想像がしづらいですが、おとぎ話に出てくるような皺くちゃのおばあちゃん魔女が誰よりも尊敬されるようなところなのです。

 うーん。

 でも、やっぱりどこかの小さな劇場でこっそり修行を積んでいたんじゃないでしょうか? 魔女因子を強く受け継いだ子なら尚更その才能タレントをしっかりコントロールできるように大事に育てるはずです。私の友達にもそういう子はいました。


「たまたまだったんじゃないですか?」


 私がそう言うと白亜は存外あっさり納得しました。


「そうね。まあ実際、『白猫座』の前任の館長兼支配人は行方不明なワケだしね」


 あはは……これには苦笑いするしかありません。というか、こんなことを話している場合ではないのです!


「それはそうと透火さんはここで待っていていいんですね!」

「もう好きにしろ。どうせ私が何言っても彼方は曲がらないんでしょ。ああもう! こんなことをしている場合じゃない。開演準備が全然できていないじゃない!?」


 ニヤリ。これは今が絶好の好機ですよ。すたすたと関係者用の秘密扉を潜る和服エプロンの背中に私は言ってやったのです。


「じゃあ透火さんは『白猫座』の臨時アルバイトとして働いてもらいますからよろしくー」

「え、ええっ!? アルバイトですか!?」


 当然のように驚く透火さんに私はこっそり耳打ちをします。


「(このまま濡れ鼠のまま待ってもらうのは可哀想ですし、案内員の制服に着替えた方がいいですよ。それに万が一透火さんのチケットを他の方が手に入れられても関係者なら舞台袖から公演をこっそり見られますし)」

「(ああ、そういう)。あ、はい。やります。いえ、ここでアルバイトをやらせてください!」


 完全静止した副館長の背中は一瞬ピクリと震えると「支配人代理兼館長代理のお好きなように!」と言い捨てて扉の奥に消えていきました。


「やった! 完全勝利!」

「あのう、これでよかったんでしょうか……?」


 ちょっと不安そうな透火さんに私はニンマリと笑うと遅ればせながらこう言うのでした。


「ようこそ、『白猫座』へ! 当館はあなたを歓迎します!」

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