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yokamite

Q.

 燦々と降り注ぐ太陽により熱されたコンクリートから立ち昇る陽炎に、どうしようもなく視界が歪む。


「……。」


 もはや、たったの一言も発する体力すらない。それは彼が物言わぬ亡者のように街を徘徊しているからでも、身寄りもなく天涯孤独となってしまった彼の周囲に話し相手が居ないからでもない。被服と呼ぶべきかも分からない、見窄みすぼらしい穴だらけの布切れに身を包み、底の擦り切れた薄い革により足を庇う。本来は厳しい冬の寒さを乗り越えるために着回していた裏起毛の柔らかい生地は、止めどなく流れる汗を吸って不快な感触を肌に押し返し、鉄板の如きコンクリートの熱気は直に足裏を伝わってくるが、もう既に皮膚の感覚はまともに機能していなかった。


 そう、彼は彼此三日三晩、水すらも口にしていないのだ。否、通常であれば人間は、この季節に水分を補給することもなく三日も生き延びることはできない。今もなお彼の足を動かし、汗を流させ、ミイラのように乾きながらも水を求めて炎天下を彷徨うことを可能ならしめているのは、昨日降った恵みの雨に歓喜し、口を開けたまま寝転がってことが大きい。だが、その代償として彼は今朝から下痢や嘔吐を繰り返し、満身創痍の状態で体力の限界を迎えようとしている。水分を摂ったところで、彼は暫く食べ物も手に入れていない。栄養失調の身体では雨水に含まれた雑菌を跳ね退けるだけの免疫力もなく、死の淵に立たされているのだ。


 そのような窮状にもかかわらず、彼を取り巻く日本社会の態度は極めて冷ややかだ。身形は不潔で、病的なまでに瘦せ細り、息を弾ませながら当てもなく足を前へと運び続ける壊れかけの機械のように不気味な彼へと、手を差し伸べる者は誰一人として存在しない。長い無精髭を蓄え、実年齢よりも遥かに老け込んだ彼に好奇の眼差しを向け、すれ違いざまにわざとらしく距離を取って忌避する者たち。または、歩きながら小さな薄型の長方形に視線を落とし、彼の存在すら認識していない人波。その様はまるで、彼こそが偉大なる預言者・モーセかと錯覚させるようだ。


「(もう、これまでか……。)」


 世知辛い世の中に絶望し、耐え難い孤独感に打ちのめされ、慢性的な脱水症状により乾き切った口では辞世の句を詠むことすら許されない。脳裏には在りし日の懐かしい記憶が走馬灯のように駆け巡り、いよいよ最期が近づいているのだと覚悟した彼はその場で立ち尽くし、膝を折ろうと力を抜いた──その時だった。


「(なんだ、あれは……。)」


 ここを死に場所と定め、何気なく辺りを見回した彼の視線の先に映ったのは、太陽が頭上で暑さに喘ぐ人間たちを嗤うかのように輝いているにもかかわらず、その光が少しも届いていない暗憺たる日陰の路地裏。そして何より、そのような陰気臭い場所には似つかわしくない、謎の長蛇の列があった。


 生への執着はとっくに失われたはずの彼の足は、どういう訳か自然と動いていた。何故か。そう問われれば、彼自身にも納得のいく返答はできまい。しかしながら、その列に加わっていた大勢の人間、彼らは全員が彼と同じくわびしい風貌をしており、何処か異質な雰囲気を纏っていたことから、彼は直感的に「もしやこの列の先では、慈善活動者による食料配給が行われているのではないだろうか」と考えたのだ。


「はぁ、はぁ……。」


 肩を落とし、無意識に猫背になってしまうほど息も絶え絶えに、何とか路地裏まで歩を進め、列の最後尾に並んでみる。絶望に染まったはずの彼の心身だが、地獄に垂らされた一本の蜘蛛の糸が如く、一縷の希望に縋るべく最後の力を振り絞った。しかし、過度な期待はしない方が良い。彼の人生において、こうした期待は幾度となく裏切られてきたのだ。せめてこれが最期になるなら、今際の際くらいは無意味に苦しみたくはなかろう。


「もし、そこの方。ひとつ尋ねてもよろしいか……。」


「ああ、なにか。」


 列の最後尾からは先の様子が確認できず気が急いた彼は、唾液が分泌されず、からからに乾いた口をぱくぱくと動かし、何とか意思疎通が図れるだけのたどたどしい言葉を紡ぐ。先程までゾンビのように歩いていた通りに面した路地裏へと僅かに差し込む光。それによってできた暗闇との境界線を跨いだ先に居る、顔の見えない小汚い男へと声を掛けると、男は淡泊な口振りで、こちらを振り返ることなく答えた。


「この列の先には、一体、何が……。」


「あんた、そんなことも知らずにここに来たのか。」


 男は首を少しだけこちら側に傾け、ふっと鼻で笑うと同時に肩を浮かせる。


「なんてな。実は俺も知らないんだ。」


「は……?」


「これだけの長い列に、狭苦しい路地裏だろ。わざわざ蟹歩きしながら回り込んで、先頭を確認しにいく気力も体力もなくてな。」


 男の言う通り、路地裏の横幅は人二人分もない。列の行方が分からない以上は、迂回路もない。その先を確かめるためには、この列に沿って狭い路地裏を、身を横に掻い潜っていくしかない。男が難色を示すのも、彼にとっては十分に理解できた。


「そう気を落とすなよ。俺に良い考えがある。まあ見とけ。」


 そう言うと男は、自らのひとつ前に並んでいた何者かの肩を叩いたかと思えば、間髪入れずに質問する。


「なああんた、この列は何なのか、教えちゃくれないか。」


「……。」


 ぼそぼそと小さな声で返す何者かと、男の会話する声が一頻り続いた後、男はまた少し首を後ろに傾けて彼に言った。


「どうやら後ろの方に並んでるやつは全員この列が何なのか分かってないみたいだな。」


「そうですか……。」


「大丈夫だよ。言ったろ、良い考えがあるって。伝言ゲームさ。」


「はぁ……。」


「この列の正体を知っている奴にぶち当たるまで、前の奴に声を掛け続けるんだよ。んで、正解が分かったら後ろの奴に伝えていく。そしたらこの列が進むまでよりかは早く、先で何が待っているのか知ることができるって寸法よ。」


 なるほど、それならば遠からず、大蛇のようにどこまでも続く謎の列の正体が分かるだろう。彼は名案を閃いて得意気な男に感謝を述べた。


「答え合わせまで暇だろ。話し相手になってくれるか。」


 正直なところ、彼にとってはもはや声を出すことすら苦痛を伴う行為だった。たったの一滴でも良いから水が飲みたい。カビの生えたパンでも良いから口に入れたい。ただ、そうした数々の欲求の裏で、散々孤独を味わってきた彼の心にぽっかりと空いてしまった穴が、久しぶりの話し相手を欲していたのだ。


「あんたはそもそも、どうしてここに。」


 男は彼の返答を待たず、勝手に会話を切り出した。そして彼は、自らが辿ってきた悲惨な運命について思いを吐露し、男はそれに黙って耳を傾けた。彼はまた少し身体の水分が失われたが、その分だけ心が潤っていく感覚を味わった。


「なるほどな。あんたも相当な苦労人って訳だ。」


「そういう貴方は──」


 彼は自分が味わってきた地獄のような体験を聞いてもなお、驚くでもなく、同情するでもなく、淡々と受け流してしまう男こそ、どのような人生を歩んできたのか興味があった。しかし、彼の問い掛けは思わぬ形で遮られてしまう。


「おっ、なんだ。一気に列が……。」


 その時、どうしてか、長きにわたって一歩も進まなかった列が堰を切ったように動き出し、あれよあれよという間に暗闇の先へと吸い込まれていく。すると、列の正体を知ることができたのか、男が列の先に居た何者かから伝言を受け取り、こくこくと頷きながら聞き入っていた。また一頻り会話が終わると、男は初めてこちらを振り返って言った。


「なあ、あんたはまだやり直せるぜ。人間、生きてさえいりゃなんだってできるんだからな。でも、死んだら終わりだ。救われることもあるかもしれねえが、そうじゃねえ可能性も十分あり得る。生きてりゃどっちに転ぶか分からねえままだが、死んだらそれが確定しちまう。あー、言ってること分かるか。」


 男には両目がなかった。それどころか、顔面には無数の切傷が残っていて、唇は歪に裂けていた。その男が果たしてどのような人生を歩んできたのか、少なくとも彼には想像も及ばない。


「結局、この列は何だったんですか……。」


「世の中、知らねえ方が良いこともあるさ。少なくとも、あんたの求めているものはここにはない。その境界線は、あんたにとって最後の砦だ。」


 自分の人生について、知ったような口振りで説教を垂れる男に対し、少しだけ語気を強める彼の足元を指差して、男は忠告した。路地裏に差し込む光と、その先に続く闇との境界線──既に死を覚悟していた彼は、男の親切を無視して、目の前でそれを越えてみせた。


「それが、あんたの答えか。」


「……。」


「それも良い。結局のところ、真実ってのは手前の目で見て確かめるもんだ。」


 そう言い残すと、男は一足先に暗闇へと消えていった。彼は急いでその後を追ったが、既に男の姿はなく、彼はひたすら困惑するばかりであった。

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