冬と秋。

人影

君に染まる。

『あ、あ~~……、聞こえるかな? 見えてる?』


 僕は、その言葉に頷く。すると、手振れの後、画面に「君」の顔が映る。


 その女の子は、不思議な見た目をしている。今日は一月一日だというのに、薄手のワンピースを身に付けている。小さく靡く髪は雪のように真っ白で、太陽の光を時々反射するから、見る角度によっては透明に見える。目の色は鮮やかな赤色だ。


 そんな、幻想的な君の、はにかんだ音がした。


『おはよう。また、会えたね』


 僕はその声に、つけていたヘッドホンを両手で抑える。こうすると、音がより鮮明に聞こえる。


 『また』。なんて素敵な響きなんだろう。遠い美化された記憶をくすぐるような、柔らかな響き。それは僕に思い出があることを、それとなく教えてくれる。


「あ、そう言えば。あけましておめでとう。今年もよろしくね。今日は、初詣に行こうと思ってさ。一緒におみくじ引こうよ。大丈夫、真央まおの分も買うから。それじゃあ、行くよ」


 君はそう言って歩き出した。君が足を踏み出すたびに、画面が揺れる。景色が流れていく。画面越しに見るその景色は、なぜだか普段僕が見ている世界よりも美しく見える。薄明に照らされる世界は、いつもよりも薄暗く見えるのに、なぜだか綺麗だ。きっと幸せとか、綺麗とか、そんな言葉が色になったらこんな色になるんだと思う。








鳥居の前で律儀にお辞儀をして、くぐって神社に入る。雑踏にまみれて、さく、さく、と、歯が緩むような、かわいらしい足音が僕の耳をくわえた。


 さっきまで鳥居に向いていた画面が、くるりと百八〇度回転して、君の顔が映る。自分で自分を撮る形になった君との距離は、少し近すぎて、緊張してしまう。


「人、多いね」


 それだけを言って、照れるように笑った後、また画面が振り返る。本当に、人で埋め尽くされている。君の声は他の雑音にまみれて聞こえづらくなっているし、あちらこちらから、砂利を蹴る音が聞こえる。接客をする巫女さんの、甲高い声も遠くで聞こえた。


 そんな音を俯瞰した後、また君は歩き出す。元旦の時間は、普段と比べてゆっくりと流れている気がする。何か特別で、優しい力で、地球の自転が遅くなっているとしたら、とても素敵なことだなと、僕は思う。


そんなことを考えていると、君は賽銭箱から伸びる列に並んだ。それはまっすぐではなく、毛糸みたいに、ところどころはみ出て歪んでいる。


「おみくじを引くより先に、神様に媚売っとこうよ。大吉が当たる確率が上がるかも」


 君は独自の理論を展開していく。


 君は画面に自分の顔を映して、得意げに話す。


 なんだか、夢の中にいるみたいだった。君の、雨が降った翌日の空気みたいに、透明で繊細な声が絶え間なく聞こえるのが、どうしようもなく幸せだった。


「そもそもとして、神様なんかはいなくて、お賽銭っていうのは、自分の願いを再確認させるための機会なんだよ」


 そう言って、君は展開していた理論を締めた。


 確かにな、と思う。いや、きっとそうなんだろう。


「ねぇ。真央は何をお願いしたい?」


 僕はそれを聞いて、ほんの少しだけ顔をしかめた。


 そのついでに、僕は目を閉じて考える。瞼の裏側に、画面の光が透けているのが見える。


 思いつくのは、君のことばかりだった。


 僕は、君に会ったことがない。


 もちろん、名前も知らない。


 でも、僕はそれ以外の君のことを、とてもよく知っている自信がある。


 例えば、話題に困ると困ったように笑うこと。


 身長が小さいこと。


 心の中に、何よりも美しい哲学を持っているということ。


 そんなことしか知らないけど、僕は胸を張って君のことを知っていると言える自信がある。


 僕は目を開く。そこには、ブラウン管がある。ビデオテープから伸びる、三色のコードがつながれている。そんなテレビの中に、君がいる。君はこちらを覗き込むみたいに、優しい顔で僕の返事を待っているみたいだった。


 そして、僕は言う。


「君に、会いたいな」


 自撮りの距離よりも、もう少しだけ長い距離で、君の隣を歩いてみたい。


 きっと僕は君に恋をしているわけではないのだろう。


 ただ僕は、僕の言葉で、君の鼓膜を優しく振動して、それで君の表情が変わっていくのを、隣で見てみたい。


 君は僕の言葉に何も返さなかった。それはそうだ。だって、僕の言葉は、画面の中にいる君に届くことはないから。


「私も、お願いしたいこと、あるよ」


 なに? と、僕は口にする。


「秘密だよ」


 君はそう言って、いたずらに笑った。


 僕は言ったのに、なんだかずるいなと思った。




「それじゃ、またね。真央」


 大吉のおみくじをきつく結んで、そのビデオテープが終わる。人工的な蛍光色の青が画面を埋め尽くす。


 そこで、僕は今真っ暗な部屋にいることを思い出す。狭い部屋だ。壁が見えないくらい、棚が立ち並んでいて、その中には数多のビデオテープが詰められている。僕の座る正面にはブラウン管のテレビがあって、近くには捨てられているみたいに、ビデオカセットが放られている。


 僕はビデオカセットのボタンを押して、ビデオテープを巻き戻す。中で機械が回転する音が聞こえる。その音は、僕にささやかな安心感を与える。


 こういう、時代にそぐわない、古臭い道具をいじるのが好きだ。思い出の品の埃を払うみたいに、淡い心傷が舞う。その感触が好きだった。


 ここは、とある廃墟の中にある個室だ。


 放課後の帰りに寄って、ビデオテープを見ていたから、もう空は黒くなっているだろう。その色が染み込むように、この部屋も真っ暗だった。光源と言えば、このブラウン管の画面しかない。その明りはまるで月明かりみたいに、薄暗く部屋を照らすばかりだ。そのせいで、影が際立って見える。目に悪い光だから、目の奥が痛い。


 僕はビデオテープをカセットから取り出して、棚に戻す。手の中に収まるビデオテープは、体温みたいに、温かい。


 一月一日。


 それは今日だ。




 この部屋の棚には毎日、ビデオテープが更新される。


 そのビデオテープには、「君」が映っていて、そこに声の届かない日常が存在する。




 僕がこの部屋に来るようになったのは、ほんの些細なことだった。理由を説明しようとしても、きっかけというきっかけがない。


 だからどうしても、君との出会いを説明しようとすると、僕自身の話をせざるを得ない。


 こんな、友達にさらけ出すコンプレックスみたいな、不幸自慢はしたくないけれど。


 この物語はどうしようもなく、君に染まる物語だから。


 だから、どうか僕の話も聞いて欲しい。








 僕という人間を一言で完結させてしまうなら、『感情を言葉にするのが苦手な、協調性のない高校生』となるだろう。二三文字だ。


 僕がそうなってしまったのは、何も環境のせいじゃない。ただ、ありふれた環境に絶望していた。


 僕がその兆候を見せたのは小学生のころだった。


 小学生のころ、とはいっても、正直にいってしまえばそんな昔のことは、僕の脳にはもう保存されていない。脳みそは、とても優秀な忘却機能を兼ね備えているらしい。


 とにかく、詳しい内容はあまり覚えていない。しまい込むのを忘れた記憶は、どこかに捨てられてしまって形も残っていない。




 僕は結局のところ、人よりも臆病だっただけだ。


 頼み事も、よっぽどのことがない限り——よっぽどとはいっても、他の頼み事と被っていないときだけど——断ることはしなかった。


 親の失望した目を見るのが怖かった。


 先生の怒鳴り声をあげる寸前の眉の動きが怖かった。


 そんな、些事の積み重ねだ。ただ、それだけだ。それだけで、僕は学校が嫌いになったし、感情を口にすることが、自分の中での禁忌になった。




 小学三年生のころの話はよく覚えている。


 小学三年生になった僕は、回り道をすることを覚えた。そうしたら、人に出会う時間がほんの少しだけ短くなる。それはたぶん数分の差だけれど、短くなっているという事実が、僕の心を支えていた。


 どうしたらもっと時間を稼げるだろう。


 毎日そんなことを考えて過ごした。少なくとも、その思考で頭の中が埋まっている日常は充実していたように思う。今まで、ぼぅっと何も考えずに、ただ怯えるだけの頭の中が、どうでもいいことで埋まる。その感触は、朝顔の種に肥えた土を被せる感触に似ていた。あの、なんとも言えない、手に触れる土の冷たい温度とか、濃厚な土の香りは、幼い僕の幸せの象徴だった。


 寄り道のルートは日に日に増えていく。なるべく人とも出会いたくないから、人通りの少ないところを選んで、そしてより長く、歩きやすい道を選り好みする。


 そうしていくと、僕のテリトリーはかなり大きくなっていた。家に帰るまで、もう三〇分もかけることができる。その達成感が、とても心地よかった。


 でも、現実は何一つとして変わらなかった。幼い僕の小さな反抗なんて、せいぜい三〇分間で、それで何もかもが変わることはない。


 僕は変わらず現実に絶望していた。


 死にたいわけじゃなかった。


 ただ、ありふれた環境に絶望していた。


 僕は人よりも、弱かった。








 中学に入って、君と出会った。


 出会ったという表現よりも、見つけたと言った方が適切かもしれない。


 中学生になっても僕は、なぜだか初対面の人に絡まれるのは変わらなかった。


 それが鬱陶しかった。


 僕はみんなが期待するような人間じゃない。面白い人間じゃない。見た目で察して欲しい。


 それでも、みんな僕に話しかける。大体は、そこからその人たち同士の会話になって、いつの間にかいなくなってるけど。僕を中枢機関として扱わないで欲しい。




 中学に入っても、回り道をする習慣は抜けていなかった。当たり前だけど、中学校と小学校は別々の場所にあるから、当然帰り道も変わる。だから、それに合わせてまた新しい寄り道を探すのだ。


 久しぶりに寄り道を開拓するのは、とても楽しかった。朝顔はもうないから、それに依存しつつあった。僕は時間だけを持て余した、青春浪費マシーンだったのだ。




 そんな寄り道に染まる日常で、廃墟を見つけた。最初はその隣を、不気味がりながら通り過ぎるだけだった。その中に入るきっかけになったのは、やっぱり些細なことで、僕はその日クラス全体に担任が浴びせる怒号の巻き添えを食らっただけだった。


 気分が悪かった。自分の存在理由を全部否定されたみたいだった。


 元から手元になかったものを失って、勝手に落ち込む機会が増えた。


 ないはずの自信があって、それを幾度となく失った。そのたびに落ち込んで、途方もなくベッドに溺れた。


 その日もそんなありふれた日の中の一つに過ぎなかった。


 ただ、廃墟が隣にあった。


 真っ暗だった。


 その中に入れば、きっと一人になれるんだと思った。


 だから、僕はその廃墟の中に入ることにした。


 ツルが家を飲み込んでいた。その家を、塀が囲っているから、まるで牢屋みたいだ。時間帯も相まって、本能的にその場所に恐怖を抱く。


 でも、僕は塀をよじ登って中に入った。塀を失くした家はどこかひっそりとしている。白かったであろう外壁は、どこからか漏れた、黒ずんだ何かに汚染されている。


 ドアは開かなかった。鍵がかかっていた。


 そこで諦めてもよかった。


 だけど僕はどうにかして中に入りたかった。塀を登ったからか、もう後戻りはできないと思った。


 ぐるりと家の周りを一周すると、窓ガラスが割れていた。僕はそこから丁寧に、尖った窓ガラスを取り除いて、身体をねじ込んだ。


 その家の中は、薄暗かった。空の色に、黒い絵の具を突っ込んだみたいな色をしていた。様々な色が、薄い黒色を含んでいた。


 それに、埃臭い。歩くたびにミシミシと床が悲鳴を上げる。目の隅で、何かが動いているような、気味の悪い感覚を抱く。そのたびに、不安が心の中に蓄積されていく。


 そんな風に、寄り道気分で家の中を探索していると、やがて僕はその部屋を見つける。


 棚で壁が覆われた部屋だった。僕からみて正面の棚の前に、ブラウン管と、ビデオカセットが置かれていた。壁を囲う棚の中には、ビデオテープが入っていた。今と比べると、ずいぶん少なかったけれど。


 そのビデオテープには、日付がつけられていた。


 そのビデオテープの中で、一番古いものは、僕が小学三年生の時のものだった。


 そして、僕は今日の日付が書かれているビデオテープをカセットに差し込む。


 実のところ、ビデオカセットの使い方なんてわからなかった。でも、なんとなく差し込んだら、うまくいったみたいだった。


『おはよう。また、会えたね』


 その一言で、ビデオテープは始まる。


 『君』だ。と思った。


 歌詞に出てくるような、ポエムで出てくるような。漠然としていて、けど眩しく輝いていて、美しくて、かけがえのなくて。そんな、『君』という存在を形にするなら、この画面に映る女の子になるんだろうなと思った。


 白く輝く髪は、薄明を反射する。薄い黄色の、儚げな色が、君の肌に染み込む。空気が澄み渡っている。眠い目をこするように、太陽が昇る。建物が道路に長い影を作る。空の闇が残滓を残しながら、遠くに霞んでいく。


 それは、一切の振動を許さない、神聖な世界だった。君以外、その世界にはふさわしくなかった。


 画面に広がる世界は、そう言う世界だった。


 君は、時々自分の顔を映しながら、あてもなく歩いていく。そんな君の姿は、今よりも幼かった。多分、中学生くらいだ。僕と、ほぼ同い年。


 後ろに映る景色には見覚えがあった。僕がかつて開拓していた、小学校の回り道だ。


 君はそれを、小学校のアルバムを見るみたいに、じっと見つめながら歩く。


 その姿は感傷的で、繊細で。


 この世界の綺麗なもの全部詰め込んだら、君になるんだと思った。


『それじゃ、またね。真央』


 気が付けばそんな声が聞こえて、ビデオテープが終わった。人工的な青が、画面に広がるだけだった。




 それは、僕にとっての救いになるには充分だった。青春浪費マシーンである僕は、毎日そこに通い詰めては、更新されるビデオテープを見た。誰にも共有することのない。君との思い出を毎日積み重ねていった。


 授業中も、昼休みも、放課後も。


 全部君一色に染まっていった。


 寄り道をするのはやめた。全部、君のいる廃墟に足を運んだ。




 毎日廃墟に通って、それで、もう今は高校三年生になった。


 君と、たくさんの思い出を紡いできた。


 小学校の回り道に、浸るように歩く君の存在をずっと感じてきた。


 もう、高校三年生になって。冬休みになっているけど、廃墟に通い続けた。もうかれこれ六年間、毎日君のビデオテープを見ている。


 これが、僕の人生にすべてだ。


 僕の生きる意味はもう、君なんだ。


 僕は君さえいたらもう、それでよかった。


 日常の苦痛も、君の美しさと比べれば大したことないみたいに思った。


 そして、今日。一月一日。元旦の日。


 僕は、彼女に会うことになる。








 僕はヘッドホンを外して、ぼぅっと、天井を見つめる。


 視界の端には、狂気じみた量のビデオテープが佇んでいる。その中の全部に、君が詰め込まれていると思うと、胸が締め付けられた。思い出というのは、心臓を弄ぶものだ。


 この場所が好きだった。ビデオテープを見終わるころには、もう太陽は沈んでいる。外に出るときっと、夕陽が遠くで横たわっているのだろう。


 しばらく、僕は輪郭のない意識のまま、天井を見つめていた。


 君の余韻に浸るその時間は、湿り気のある美しさがあって、それが好きだった。


 その時だった。


「……だれ?」


 その背中に呼びかけられた声で、僕の意識は形を取り戻す。


 僕は、おそるおそる振り返る。


 こんなこと、初めてだった。もしかしたら、この家の持ち主かもしれないと思った。


 でも、その顔には見覚えがあった。その顔を見た瞬間、小学校のにおいが蘇るくらいに。


「……アキ?」


「……なんで、フユ?」


 一応、言っておくけど。


 僕は真央じゃない。


 僕の名前は、フユだ。

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