第三章

第三十一話 黒の匣


 修学旅行最終日。ぼくらにとっては居残り補習の四日目。


「いやー、昨日は激戦だったわ」


 低血圧で知られる夕奈が、始業前から目をぱっちりと開いている。それだけでも珍しい光景なのに、ここ数日の間教室の鍵を開けてくれていた亜月の姿がまだ見えていなかったり、奉司と玲生が隣同士で座っていたり、少し調子が狂ったような朝だった。


「厳しかったよね、ぶっちゃけ。亜月は及び腰だわ千明はシリアルキラーだわで後半からしっちゃかめっちゃか。何よりヒメがあんなずる賢いやつだと思わんかった」

「えー、ひどーい。ひめりは千明ンに言われた通りにしただけだよ?」

「それを言うならうちだって玲生の作戦に乗っただけなんですが?」


 第二セッションは終盤まで難解だった。潜伏場所の選択後に玲生の消失ロストが確定したあと、生存中の五人が再びひとつの教室に集まり、混迷のままに推理フェーズへと移行したのだ。


「生き残りの過半数が敵陣営なら人狼ゲームは即終了だし、そこから巻き返せるとはうちも思ってなかった。でも玲生はその後のことまで考えてたんだよ、ね」


 夕奈が話を振ると玲生はこくこくと頷く。初日と比べると心なしか口元が明るいように見える。笑えるようになったのだとしたら、とてもいいことだと思う。


「木刀のこともよく気づいたよね。あれを譲り受けて、うちに持たせてくれたから最後まで生き残れた」

『意味のあるアイテムだと思ったので』『あとはたまたまです』

「それでああいう結果になるんだから、やっぱTRPGって面白いわ」


 興奮冷めやらぬ様子の夕奈。さっきからほとんど一人で喋っている。オタバレうんぬんと言っていたわりには擬態する気がないというか、ひょっとしたら気づいていないのかもしれない。


 第二セッションの戦況は最後まで混迷していたけれど、夕奈が言ったように過半数を敵陣営が占めてしまえば大勢は決する。無実の人間に多数決の暴力で罪をなすりつけてしまえば真犯人が誰であろうと関係なく邪魔者を排除できる。


 それでも夕奈は亜月とともに因習蔓延る村から生還した。その紆余曲折が彼女にとっての激戦だったということだ。


 そこへ至るまでには既にぼくの目的は達せられていたわけで、正直その後のことはあまり記憶にない。ぼくが満足していたのは、申し訳ないことに夕奈とはまったく別の方向性だった。


「あーあ、オタク全開だね夕奈ちん」


 不意に隣からひめりの声がした。思わず眉間に皺が寄る。


「いきなり耳元から話しかけるのやめてくれないかな」

「こうしないと夕奈ちんにも聞こえちゃうじゃん」

「ひそひそ話してても怪しまれるよ」

「ひめりは別にいいよ? 怪しまれても」


 何を、とは訊くまでもない。分かりきっているとかではなく、無意味という理由で。


「よかったね、目的が達成できて」


 すぐ傍で妖しく笑むひめり。


「あなたの働きで奉くんと玲くんの間にあった溝が埋まった。二人はきっとあなたに感謝してるよ」

「……そんな大袈裟なことじゃない」

「わたしに謙遜しても意味ないと思うけれど。ま、昨日より顔つきは良くなったんじゃない?」

「うるさいな」

「……へー?」


 ぼくの拒絶に、ひめりは目を丸くする。


「随分と緊張してるみたい。そんなに今朝の結果発表が気になる? それとも夕奈ちんみたいに今日のセッションが待ち遠しい?」


 どちらでもないことはお見通しだろうに、それでも問いかけてくるから底意地が悪い。


「むしろぼくのほうから訊きたい」

「んー、なになに? ひめりおねーさんに言ってみ?」

「君は誰の味方なんだ」


 行方先生に傾倒しているようで時に無関心な様子を見せ、ぼくを煙に巻いたと思えば容赦なく急所を突いてくる。何もかもを見透かしているのに、誰にも自分の心は明かさない。


 では彼女がクロか? それは絶対に違う、とぼくの朧げな記憶が告げていた。


「誰の味方、ねえ。正義の味方、なんて答えたら怒る?」

「君の秘密をここでばらす」

「あーこわ」


 鹿野ひめりの秘密。幾つもの名を併せ持つ、もうひとりの諜報員。


「味方なんていう視点次第でころころ変わる概念をはっきりさせたがるなんて、千くん・・・らしくないね」

「その類いの皮肉は聞き慣れてるよ」

「でしょうね」


 万物は観測されるまで確定しない、とどこかの学者は言った。


 条件を整えられた箱の中で猫の生死が両立するように、人の感情のメカニズムは脳というブラックボックスが完全に解明されるまでは数多の可能性を内包する。


 転じて、人は真実をただ不明瞭にするだけで、分岐した可能性の海に溺れる。


「わたしが敵か味方かっていうのも同じこと。どちらにしたって、あなたのやることは変わらないんじゃなくて?」

「ぼくが知りたいのは君の心なんだけどな」

「……ふふっ、歯の浮くようなこと言っちゃって」


 その笑い声は少しだけ、彼女の素に近い気がした。


「――ってな感じで、多数決で勝てないと察した玲生はうちにオカルトの物的証拠を預けて使命の達成を目指す作戦を伝授してくれたワケ」


 ちょうど夕奈の語るダイジェストも終わりが近づいていた。彼らの意識がこちらに向く前に、ひめりは自分の席へと戻っていく。


 彼女の言葉のどこまでが本当なのか。どこからが嘘なのか。考えれば考えるほど増えていく選択肢をひとつひとつ検証するほどぼくは悠長じゃない。彼女も言っていたように、視点次第で変わり得るものの真偽を問うのは骨が折れるだけで実がない。


 でもそれは本題じゃない。嘘つきなのはぼくだって同じだ。彼女と共に他のプレイヤーを騙してみて、分かったことがひとつある。


 どんなに酷い形で騙され、欺かれ、奪い取られたとしても。


 それでも人は、人を信じたいと思うのだと。

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