オリィ vs. ウィル
「ダメだ」
応接室の大きなテーブルを挟んで座っている、むやみやたらと顔のいい大きな体のホーソンヒルの主人ウィルさんが、大きなため息を吐きながら腕を組んで、きっぱりと首を横に振った。
えっ、ダメ?
何故に???
オリヴィアはお互いにベストなはずの提案を一刀両断にキッパリと却下されて、ぱちくりと瞬く。
ラフの背中の上では子供のように目を輝かせていたけれど。
閣下曰く「顔がよすぎて女性に対する警戒心が非常に強い」というのも納得がゆく苦い苦い苦悩の表情を、最初に玄関前で対峙していた時には浮かべていたではないか。
だから、提示された雇用条件の一つ、屋敷2階のお風呂とお手洗いを完備している主寝室の利用の固辞は、青年偽装のオリヴィアと同じ建物で生活することがストレスになりそうなオーナーにとっては、渡りに船になると思ったのに。
・・・それに、屋敷を出た西側に建つヴィクトル先生の平屋で寝起きすることの、どこに問題があるのだろう?
「先生の平屋に付属している納屋はラフの寝床にしていいのですよね? であれば、まったく問題はありません。ラフは私を守ってくれますし、私もラフを守れます。私は、ぜひぜひあの平屋で生活したいのです」
諦め切れないオリヴィアは、長袖のチュニックの下の鳥肌をこっそりさすっていた手で、ぎゅっと己の手首を握りしめた。
人間であるはずの主人よりも常識を理解する馬魔ウッドラフはというと。有事でもないのに応接室に押し入るわけにもいかず、オリヴィアが背にしている窓から首を突っ込み、柔らかい前唇でオリヴィアの頭頂部の髪をもしゃもしゃしている。
あの平屋の東側のドアを開けると、正面に主屋の通用口があって、そこを入ってすぐの部屋が、ヴィクトル先生の書斎になっている。
案内されたお風呂とお手洗いのついた大きな部屋は、本来オーナー夫妻が使うはずの主寝室で、そんな部屋に青年偽装の自分が入るのはどうかと思う。それに、2階の東の奥にある。すなわち、1階西奥にある書斎から一番遠い部屋なのだ。
別の建物であっても、扉を開けて5歩もなく書斎に到達する平屋。かたや20歩以上を要する遠い部屋。どちらで夜を過ごしたいかなんて、考えるまでもない。5歩の平屋に決まっているではないか。
オリヴィアは意を決し、テーブルの向こうで、断固として目を閉じて眉間に深い皺を刻んでいる黒髪の大男を説き伏せにかかった。
「播種育苗に最適な、温度管理のできる壁の厚い建物、おまけに備え付けの煙突付き薪ストーブが2基もあるんです。本当に、素晴らしいです! 馬の寝藁を重ねてふんわりと盛ってシーツをかけると、とても良い香りの心地よいベッドになります。最高です。森の深部や山岳地帯でサバイバルするよりも、ずっとずっと快適です。間違いなく天国です。ヴィクトル先生のあの平屋なら、寝起きするのに何ら問題はありません」
「・・・サバイバルはサバイバルだ。困難な薬草採取に臨むのは非日常だ。ここで普通に暮らすのに、危険しかない森の深部や山岳を比較対象にするやつがあるか」
はぁーーーーっと、ため息を吐き出したウィルさん。
両膝に肘をついて項垂れると、分厚くて大きな手で自分の黒髪を掻きむしり始める始末。
・・・なぜ?
オリヴィアは困惑する。
前アシュテル伯爵だった祖母ホーリーが亡くなってからの2年間。オリヴィアは、叔父ダニエルと再婚した実母ジェシーに本領邸の私室から追い出され、薬草園の片隅の納屋に押し込まれていた。それは、床のない板張りの壁の、隙間風が通り道を探すのに迷うことのないような、比喩表現ではない正に掘立小屋だった。
けれども、オリヴィアは、ウッドラフと一緒に何ら問題なく寝起きできていたのだ。起きてすぐに薬草を観察し世話を焼ける環境は、オリヴィアにとっては、ご褒美でしかなかった。
お風呂は主屋で、夜の執務の前に使えたし。家族の寄り付かない祖母の執務室での書類作業の最中は、執事が手助けしてくれたり、メイドがせっせと差し入れを運んでくれたり。
イアン爺と連れ立って、王宮から発注された薬草の採取に出るのも自由で、止められることはなかった。
何ら不自由なく過ごしていた。
・・・と、オリヴィアは思っている。
風通しや採光を考慮して取り付けられている高窓。厚く漆喰の塗られた壁。板張りの床に、頑丈で立派なストーブ。
この最高の播種環境にいざなわれて、種からちょこっと根っこを出し、土の中で踏ん張って、うんこらしょっと殻を脱ぎ捨てた幼芽が本葉を出して、苗が育っていく。まさにその場所で寝起きできるなんて。
オリヴィアにとっては、最高以外の何ものでもない。幼い苗たちの、お水をちょうだいという囁きにもならない微かな気配に触れながら目覚めるの。ちょっと考えただけでも、幸せすぎるのに。
だから。
何がどうして平屋がダメなのか。
オリヴィアにはさっぱりわからなかった。
華奢で小柄な青年偽装のオリヴィアが心の底から不思議そうに首を傾げたせいで、ウィルフレッドも本気で頭を抱えてしまったようだ。
「はぁ、この頓着のなさは、さすがはS級というべきなのか? ・・・でもなぁ、夕食が終わって、通いの女性のお手伝いさんたちがゲートを出ると、ウチは正真正銘の男所帯になるんだ。食堂で酒を飲む連中もいるし、1階の大浴場も常に誰かが使っている。自分専用の風呂のある部屋の方が、何かと都合がいいだろう?」
「・・・しかし、あそこはオーナー夫妻の主寝室ですよね?」
「俺があの部屋を使うことはない。1階の今の部屋の方が何かと便利だから、2階に居室を移す予定もない。せっかく君に都合のいい部屋があるんだし、遠慮なく使えばいいさ」
「・・・それでは、お風呂とお手洗いだけは2階の家族用のバスルームを使わせてください。もちろん、掃除は私がします。・・・で、寝起きは外の平屋で」
「ダメだ」
むやみやたらと顔のいいホーソンヒルの主人ウィルさんが、大きなため息を吐きながら腕を組んで、きっぱりと首を横に振って。
————話は、振り出しに戻ってしまった。
オリヴィアは、思わず「うーん」と唸って、天井を仰いでしまう。
お風呂もお手洗いも完備している主寝室が、偽装青年な自分にとって一番都合がいいのは理解している。そこを使えと申し出てくれるウィルさんは、とても親切だし、合理的だと思う。
ただ、あの部屋はやっぱり主人夫妻の主寝室なのだ。ウィルさんが将来お嫁さんをもらった時に使うべき部屋なのである。
それに、ただただ、自分はあの平屋で寝起きをしたいのだ。
書斎まで5歩の距離と、天国のような環境を、どうしても諦め切れない。
閣下の権威を借りて無理に雇って頂いた自覚はある。
できるだけ早く利益を上げてホーソンヒルに還元したい。薬草だけではない。信頼できる薬師を見つけて、連携し閣下の慈しむ領民の方々の健康に寄与したい。
書斎までの距離と、天国のような環境は利益還元への近道になるはずのものでもある。何が悪いのかさっぱりわからない状況で、諦めるわけにはいかないのだ。
「はっはー、なるほどじゃのぅ」
どうすればウィルさんを説得できるのか。
悶々と考え込んでいたオリヴィアの背中に、どすんと、人の重みと温もりと、小さな頃から慣れ親しんだ大好きなイアン爺の声が降ってきたのはその時だった。
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