リミナルスペース放火殺人事件 中編




 おそるおそるAが水中で目を開くと、ゴーグル越しに水底で青く丸い照明が小さく灯っているのが見える。水深は恐らく三メートルから四メートル程度。

 照明はあちこちに散らばっていたが、そのうちの一塊りが柱に沿って並んでいたのでAも柱に沿って泳いでいくことにした。


 水底の方が明るいので長い間潜ったままだったが、懸命に泳いでいるうちにだんだん水面も明るくなってきた。上から光の束が差し込んで見晴らしがよくなる。試しに水中から首を突き出してみて、Aの目は驚きで丸くなった。


「どこだ、ここ?」


 いつの間にかAがいるプールには眩しい太陽の光が差し込んでいた。

 プールから上がる用の階段を見つけたので水中から出ると、右方向の窓には晴れ渡る青空と微かにたなびく白い雲が広がっている。

 デパートにいたときはどこもかしこも暗くて、てっきり真夜中だと思っていたのに。

 デパートの一階から出てきたのに、窓の向こう側には雲が流れている。


「全然分かんねえ……。いったい今何時でここは何階なんだ? それともこの空は作り物か?」

 左方向や奥の部屋は窓が無いらしく日が届かず薄暗いままだったが、やっと明るい場所に出て来られてAは少しだけ落ち着いた気分になった。


 それにしても標高何メートルなのか分からないぐらい景色が高すぎる。

 雲が窓ガラスの下側、Aの足元を悠々と流れていく。

 太陽と青空と雲だけの景色が果てしなく続いている。ここがどこかを推測できる材料は全くなかった。


 しかし何故か人がいた形跡だけは残っていた。プールの周辺にはゆったりとできそうなビーチチェアが数脚置いてあり、丸テーブルにはチープなプラスチックの百円ライターまで置いてあった。



「ライターか、水の中潜って冷えたから丁度いい。燃やすものは……」


 Aが辺りを見回すと窓と反対側の暗がりで、壁にポスターが何枚か張られているのを見つけた。

 泳ぐときの注意事項が数ヶ国語に渡って書かれた張り紙の上に、監視を示すような目二つが並んだポスターが被さるように張ってあったりする。見せようという気持ちが一切感じられない乱雑な張り方だった。

 全部剥がして床に並べて火をつけたが、ぺらぺらの古い湿ったポスターはそれほど燃え上がらずやや燻ぶりもした。

 それでも無いよりはマシの精神でしゃがみ込んで膝を丸めて暖を取っていると、また誰かの断末魔が流れて来た。


「うわっ、何だこれ、首が……。ぐぎゃああああ!!」

 偉そうだった男の声だ。


『えー、二人目の脱落者が出ました。電動ウインチは重い物を運ぶのにはとても便利ですが、素人が軽々しく扱ったら危ないのはどこでも共通ですね。liminal spacesで放置されている道具は便利なものもありますが、危険なものもあります。取り扱いにはくれぐれも注意しましょう』


 ポスターに描かれた目に見つめられたような気がして、Aは震えあがった。

 ポスターの目はAを見つめたまま炎の中に黒く呑まれていく。

 ゆっくり暖まろうという気持ちは冷え、早々に火を消してAは立ち上がった。




 次の空間は店の片隅によくあるキッズスペースを大きくしたような部屋だった。

 少ししぼんでくたびれてはいるが、空気を入れて膨らませる城はまだまだ子供が遊べそうで、トランポリンも布がピンと張られている。

 しかしこの頃にはAはここがどこでどういう場所かを推測するのかは既に放棄していた。考えるだけ無駄だった。



 何にも触らずに足早に通り過ぎると、外廊下の横手に建物が見えた。

 いつの間にか団地やマンションのような集合住宅に移り変わっている。

 青空は夕空に変わり、カーテンも何もない殺風景な窓が黄昏時の赤い陽を強調する。

 ところが向かい側の同じ階の窓に人影が見えたのでAは仰天した。


「おおい、そこの人! 聞こえるか! 聞こえてたら俺みたいに手を振ってくれ!」


 手を振って叫ぶ。回り込んで向かい側に行くべきか、でもその間にいなくなっていたらどうしよう。とにかく自分以外の生きた人間が見たい。もっとよく見たくてAは外廊下のフェンスに手をかけた。


『助けっ……キャアアアアアアア!』

 そのとき、痩せて神経質そうだった女の叫び声が流れてきた。


『はい、三人目の脱落者です。足元にはよく気をつけてくださいね。人がいて安心する気持ちは分かりますが、その人の足元もよく見てくださいね』


 はっとしたAが見下ろすとフェンスはぼろぼろの木製で、しがみついた途端に抜け落ちそうな代物だった。

 しばらく足元を見つめてから恐る恐る顔を上げると、あんなにじっと動かずにいた人影が跡形もなく消えていた。

 冷たい風が吹き抜ける。



 それでも希望はあった。

 デパートから外に出た時は暗くて何も見えなかったが、マンションには確実に外の世界があった。

 無人のマンションの一階に降りて中庭を抜けると、夕方の住宅街に出た。


 どこにでもある普通の、マンションが建ち並んでところどころに建売住宅もある日本の住宅街。

 遠くの一軒家の前に子供用の自転車が停まっていた。


 ようやく外の世界に出られた!

 脱出成功だ!



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