電子的な悲しみ
むきむきあかちゃん
電子的な悲しみ
『あんたの住んでるマンションの三階に住んでるおじさん死んだんだって』
そう友人からメッセージが来たのは、午前七時———私が朝ごはんを食べていた時のことだったと思う。
たしかそのとき私は、携帯のニュースサイトで、奇跡的に生き返った子猫のニュースを見ていた。
『どこで知ったの』
私はそう返信して、ニュースサイトをもう一度開いた。
私は画面をスクロールして、不運にも山でクマに腹を喰われて死んだ人のニュースをタップしようとした———が、する前にすぐ友人から返信が来た。
『ニュースになってたから』
その一言の下には、ひとつのニュース記事が添付されていた。
『六月一五日午前一時、L通りでジム・ジョンソン氏が何者かに轢かれて倒れているのが発見された。救急車で搬送されたが死亡が確認された』
『L通りって、いつもあんたが通ってるところじゃない?』
彼女の言う通りだった。
L通りは、私の通勤する時の道だった。
『そうだね』私は返信した。
『私じゃなくてよかった』
そう書いて、私はエンターキーを押した。
『本当だよ、あんたじゃなくてよかった』
彼女の返信の二行目には、意味深なロボットの絵文字と破れたハートがあった。
何か返信しようとキーボードを開く前に、すぐ追加の返信が来た。
『うちの近くでもこのまえ轢き逃げがあったんだけど、逮捕されたのはAIの人だったんだって』
彼女の言う『AIの人』とは、人型AIロボットのことだった。
彼らがいつからいたかは覚えていない。でも、私が小学生のときにはもういたはずだ。
——どこかには。
『AIロボットって見分けられないんだよね?』私は尋ねた。
『そう!』彼女は答えた。
『見た目も動きも人間そっくりで、保険証を見たり解剖したりしないと分からないんだって』
『らしいね』
『人に造られた以外は違いはないと言われているけど、最近は思考回路に倫理上の問題があるんじゃないかっていう人もいる』
また次の行には、ロボットと破れたハートがあった。
私も何か返信しなくてはいけなかった。
『あんたはAIじゃないよね?笑』
二〇秒くらい考えて、そう送った———ロボットと破れたハートと一緒に。
返信はすぐ来た。
『こんなにハートフルなメッセージを送ってるのにそんなこと言うの?♡♡♡』
時計を見ると、もう家を出る時刻だった。
私はあれこれ考えるまでもなく、いつもと同じ道を通って仕事に行くことにした。
家を出て、いちばん手前の角を右に曲がり、ふたつめの角を左に曲がればすぐL通りに差し掛かる。
いつも朝は閑静なその通りは、普段より少し騒がしかった。
時計台のすぐそばに、人だかりが出来ており、時計台の根元には沢山の花束が置かれていた。
「ジムさん、良い人を失ったわね」ひとりの女性が言った。
「残された奥さんが可哀想ね」
みなが同意するように頷いた。
「リリィさん、元気を出して。ジムさんはきっと天国にいくよ」
そう言ってひとりが、うずくまっている女性の肩に触れた。
その女性は、肩を震わせながら小さく頷いた。
喪服を着た、小柄な人だった。
私はその場には行かず、通り過ぎた。
もう始業時間間近だった。
それから午後五時まで仕事をして、私は帰った。
行きも帰りも同じ道だったので、L通りを通った。
時計台の側には、まだ喪服の女性がしゃがんでいた。
ジムの妻のリリィだった。
彼女の他に、時計台の側には誰もいなかった。
私は時計台の側に近寄って、彼女の肩に手を置いた。
「ご愁傷様です」
彼女はそこで初めて顔をあげた。
肌は透き通るように白く、眼は青かった。すこし茶色がかった金髪をしていた。
「あの、私、同じマンションの者です。ジムさん、良い人でしたね。惜しい人を失いました」
私はそう言って、彼女の背中をさすった。
彼女はしばらく唇を震わせながら沈黙していたが、漏れだすように嗚咽しだした。
「ありがとう」
そう言って彼女は顔を両手で覆った。
「ごめんなさい」
「辛いですよね」私は言って、もう一度背中をさすった。
「何も言わなくて大丈夫ですよ」
私の声は、まるでニュースのアナウンサーのようだった。
長いこと、十五分くらい、そうやっていた。
彼女は嗚咽が少しおさまると、鼻をすすりながら顔をあげた。
「本当にありがとう」
「大丈夫ですよ」
私は頷いた。
「私はリリィジョンソンよ。」
そう言ってリリィは、ゆっくりと立ち上がった。
「今日はもう帰るわ」
「一緒に帰りましょう」
「そうさせていただくわ」
リリィは力なく微笑み、歩き出した。
私も彼女の隣についた。
彼女の足取りは、先ほどまでの嗚咽が嘘のように軽く見えた。
「帰ったら、ひとりで全部できますか。何か手伝いましょうか」
私は彼女に尋ねた。
「ええ、大丈夫。心配しないで」
「そうですか」
「ねえ、轢いたのって誰なのかしら」
私は彼女の顔を見ようとした。
彼女の顔は見えなかった。彼女は顔を背けていた。
「昼、AIロボットの仕業だと言われたの」
「AIロボット?」
「AIロボットの起こす殺人事件が多発していて、ジムもその被害者のひとりだと」
彼女は相変わらず向こうを向いていた。
「あなたもそう思う?AIには倫理が欠落していて、いともたやすく人を殺せると思う?」
「まさか」
私は彼女に見えないと分かっていながら、何度も首を横に振っていた。
「人型AIロボットだって、人と同じ倫理観や感情を持っていると思います。もしAIが人を殺したとしても、それはAIだからではないはずです」
私がそう言い切ると、彼女はこちらを向いた。
彼女の顔には、幾筋もの涙の跡があった。眼は赤く充血し、今にも涙が溢れそうなほど潤んでいた。
「AIが人を殺すのも、人が人を殺すのと同じです。傷つけられたからだったり、カッとしたからだったり、偶然だったり」
私は自分が何を言っているのか半ばわからなかった。
私の言葉を聞いて、リリィは、静かに顔を伏せた。
「そう」
リリィは黒い革のブーツを履いていた。
「そうでしょうね」
暗い夜道に、リリィの黒いブーツのコツコツという音と、小さなすすり泣きだけが響いていた。
それから長い間、リリィの姿を何処かで見ることはなかった。
三日もして電柱にあった花束は全て無くなっていた。
私も皆もすぐ日常に戻った。
ジムが死んで最初の日曜日は雨だった。私は一日中家にいた。
ニュースでは誰一人としてジムの死の話はしなくなった。
そういうものなのだと思いながら、その日はソファの上でニュースを繰り続けた。
八月になった。
私は夏休み、私にしてはかなりの時間を本屋で過ごした。
本のカバーを見て、中身を少しだけ繰ってみるだけの時間だった。それだけで時間は無限に過ぎていった。
だのに、その夏に本屋で買った本はたったの一冊だった。
その一冊は新刊だった。
ひっそりと台車の上に積まれていたその、たった八ミリ程度しか厚みのない新刊は、うす茶色い表紙の文庫本だった。
題名はたしか、『電子的な生活』と言った。
その題名になんとなく惹かれて、特に中身も確認せずに買った。
私は次の日の朝すぐにその本を読み始めた。
内容としては、AIしか存在しない世界で、AIの登場人物達が、愛し合ったり、仲間を失ったりという、ごく普通の生活を送るというものだった。
主人公の女性、ビアンカは、ジョニィという男に恋をし、付き合うようになり、ぶつかり合ったりしながらも愛情を深め、結婚し、幸せな生活を送る。
しかし、ジョニィはある朝交通事故に遭い亡くなってしまう。
ビアンカはその日から死ぬまで喪服で通し、ジョニィ以外の男を愛すことはなく、彼のために喪に服し続け、悲しみと向き合いながら死んでいくのだった。
私は午前中のうちに本編を読み終わり、後書きのページを開いた。
『この物語を読み終わった今、人類と彼らビアンカたちとの間に、身体のつくり以外の違いをあなたは挙げられるだろうか?———この物語は決してファンタジーではない。私たちの社会に実際に生きる者たちの生き方だ。
リリィ・ジョンソンより、愛するジム・ジョンソンと地球の同胞たちに捧ぐ。』
私は最後の一行を読んだとき、家を飛び出していた。
私は早足でエレベーターに乗り、三階のボタンを押した。
ジョンソンの家は、エレベーターに一番遠い部屋のはずだった。
エレベーターのドアが三階で開いた。
ジョンソンの部屋の方向から、たくさんの男の声が聞こえた。
私は駆け足で、ジョンソンの部屋のドアの前に行った。
そこには警察の制服姿の男が、十人ほど集まってインターフォンを押していた。
「おい、リリィ、リリィ・ジョンソン。出てきなさい———くそ、いないようだ」
「リリィに何か用があるのですか」私は尋ねた。
「そうだよ。君は誰かね」男のひとりが言った。
「私はリリィの友人です。最近見ないので心配で見にきただけです」
私はそう答えた。
「リリィが何かしたのですか」
「そうだ。最近の殺人事件に関連性のあったAIは、皆同じ製造会社で製造されていたんだ。その型番は頭がAPOCAで統一されている」
そう言って男はリリィの保険証のコピーを私に見せた。
「これを見なさい。リリィ・ジョンソンの製造型番はAPOCA-330。アポカのAIには倫理上の問題があったんだ。ジムを轢き殺したのもリリィならつじつまが合う。君はリリィの居場所を知らないか」
私はリリィの保険証コピーを凝視した。
確かに彼女の顔写真の下には、APOCA-330と記載されていた。
型番の上で薄らと微笑むリリィの眼は、光を受けてきらきらと輝いていた。
私はリリィのいる場所に心当たりがあった。
私は男たちにむかって頷いた。
「リリィはたぶん、本屋にいると思います」
本屋はL通りの反対側の道にあった。
「なるほど、では本屋を当たろう」
そう言って警察たちは、エレベーターで一階へと降りていった。
私は彼らがマンションの外へ出たのを見届けると、階段で一階まで降りた。
マンションを出て、いちばん手前の角を右に曲がり、ふたつめの角を左に曲がった。
そこには、あのときとよく見覚えのある人だかりがあった。
人々はあのときと同じように時計台のそばに集まっていた。
あのときと違うのは、人々が足元を俯いているのではなく上を見上げているということ。
そして手にしているのが、花束ではなく携帯電話であったということ。
「ジョンソンのとこの奥さん、AIだったんだって」
「しかもアポカ製のでしょ?」
「まさかあんなに悲しんでいたのに、リリィが犯人だったとはね」
「いや、俺は最初からリリィがやったと踏んでたね」
「今にあいつ、飛ぶよ」
私は時計台の上を見上げた。
数メートル上の時計台の狭い縁に、黒い喪服のリリィがしがみついていた。
右手にはジムの顔写真を、左手には十字架を握っていた。
彼女の頬は、涙の跡のためにてらてらと光っていた。
口を半開いたまま、こちらをじっと見つめていた。
「やるなら早くしてくれないかな」
「やっぱりAIって良くなかったんだね」
喪服の裾が、風に吹かれてパタパタとひらめいた。
リリィは顔をあげ、空を仰いだ。
その瞳は、どこも見ていないように見えた。
電子的な悲しみ むきむきあかちゃん @mukimukiakachan
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