庶民の食卓 ~刺身~
Danzig
第1話
庶民の食卓
刺身
日本料理によく登場する料理に「刺身」がある。
日本には、魚を生で食するという文化があり、生の魚の身を、食べやすいように切って並べた料理。
それが刺身である。
日本人であれば、生魚が食べられないという人でなければ、一度は口にした事があると思う。
少なくとも、見た事くらいはあるだろう。
刺身の歴史はかなり古く、鎌倉時代からある料理で、そもそもは、海辺の漁師の即席(そくせき)料理であったらしい。
日本は周囲が海に囲まれている国なので、おそらくだが、そこかしこにあった料理なのだろう。
流通が発達するにつれ、次第に海から離れた街でも食べられるようになっていったのだと思われる。
刺身は、素材が新鮮であったり、丁寧に処理された清潔なものでなければならないので、
どちらかと言えば、贅沢な部類の料理と言える。
懐石料理などでは、献立の中心となる料理なのだという話を聞いたことがある。
もっとも、
食材が新鮮であれば、何でも生で食べようとする日本の食文化には、少々如何(いかが)なものかと思うところはあるが
いずれにせよ、刺身という料理は、私個人としては、美味しい食べ物だと思う。
刺身の素材は、魚に限らず、イカやエビ、貝、ウニ、ナマコなど、海に生息するものなら何でも刺身にするのではないかと思われる程に種類が多い。
しかも、地域ごとに、また、季節によっても素材の種類が変わるし、
生のままだけではなく、少々炙(あぶ)ったもの、茹でたもの、熟成させたものなど、まさに多種多様である。
それが刺身という料理の魅力でもあるのだろう。
しかし、そんな多種多様な料理にも、定番といえる食材がいくつかある。
その一つが、「わさび」である。
なんだ「わさび」かと思うなかれ。
わさびは、醤油が出来る以前から、刺身と一緒に食されていたくらい、刺身には定番の食材である。
恐らくは、生魚の臭み消しや、食中毒の防止が目的だったのだろうと思われるが、今となっては、わさびそのものを楽しむといったきらいもある。
勿論、私もわさびは好きだし、わさびの風味や味を楽しむといった事に異論はない。
ただ、その風潮には、いささか疑問があるのである。
私の育った昭和の中期から後期ごろまで、一般家庭で「わさび」といえば、「粉わさび」を練ったものであった。
茶碗や湯飲みに、粉わさびとぬるま湯を入れて練り、逆さ向きに伏せておくという光景を、覚えているという年配者は多いだろう。
それは、なにも一般家庭だけに限った事ではない。
セレブの行くような高級店の事は分からないが、
庶民のいくような店、特に地方都市の料理屋や寿司屋では、家庭と同様に粉わさびを使っていたと記憶している。
この粉わさびは、昭和の後半になって、チューブ入りの「練りわさび」が登場し、その役割を次第に終えていく事となるが、
新たに登場したチューブ入りの「練りわさび」も、刺身に対する使い方は、粉わさびとさほど変わらなかった。
その使い方とは、わさびを醤油に溶かして、刺身を付けて食すのである。
粉わさびであろうが、練りわさびであろうが、醤油にわさびを溶かして刺身を食べるというスタイルが、長らく続いたのだが、
ある時、某グルメ漫画で、「わさびは醤油に溶かすのではなく、刺身に直接付けて食べるものだ」という説が唱えられてから、少々様子が変わって来てしまった。
そのグルメ漫画の発売当初は、グルメ気取りの人達に此見(これみよ)がしに、語って聞かされる事となった。
そもそも、件(くだん)のグルメ漫画は、高級食材である「本わさび」を使用した時の話であって、庶民の食する「練りわさび」の話ではない。
だが、そんな事などお構いなしに「わさびというのはねぇ・・・」と語ってくるのだ。
昨今では、わさびを醤油に溶かすのは「マナー違反」だとか「無作法」だという輩(やから)までいるという話を耳にする。
いやはや、窮屈(きゅうくつ)この上ない話である。
庶民の食べ物なのだから、多くの場合は、食べる人の好みでいいと思うのだが、余程(よほど)人の振舞(ふるま)いが気になるのであろうか、はたまた、知識をひけらかしたいのであろうか、まったく困った方々である。
かくいう私は、醤油にわさびを溶かした方が、刺身は断然美味しいと思っており、これを変える気は、今のところ全くないのである。
わさびを醤油に溶かすと、醤油が断然(だんぜん)美味しくなるのだ。
近年、居酒屋などで出される醤油が、どんどん不味くなってきているように感じるので、尚更、わさびを溶かすべきだと思っている。
わさびは割と多めの量が添えられている事が多いように思うので、刺身にわさびを付けて食べたい人は、醤油にわさびを溶かした後で、あまったわさびを刺身に付けて食べれはいいのではないかと思う。
この「わさびを醤油に溶かすと醤油が美味しくなる」と言う話は、四国の名店と言われた料亭の主人も言っていたと記憶している。
勿論、誰が言ったから正解だという話ではないのだが、自分と同じ考えの人がいるという事は嬉しい話である。
そして、もう一つ、刺身には定番だと言える食材がある。
それが「つま」である。
「つま」とは、もともと主要な料理の端(はし)に添えられた、野菜などを指していたようだが、今では刺身に添えるものだけが「つま」と言われていると聞いたことがある。
この「つま」には、食材の種類や切り方、添え方などでいろいろな呼び方があるようなのだが、
一般庶民は総じて「つま」と呼べばいいと思っている。
この「つま」だが、食べずに残す人もいるようだが、私の知る限りでは、多くの人が食している。
その食べ方なのだが、これも、多くの人が申し合わせたように、つまを醤油に付けて食べるか、つまに醤油をかけて食べている。
かくいう私も、長い間、つまにわさび醤油をかけて食べるという事しか、して来なかった。
しかし、ある日の事である。
つまの食べ方というのを教えてもらったのだ。
あれは、テレビだったか、ラジオだったかは覚えてはいないが、料理人という人が出てきて、つまについて、あれこれと解説をしていたのだ。
その中に、つまの食べ方についての解説もあり、私はとても興味深く聞いていた事を覚えている。
それによると
つまは、盛り付けを美しく見せる為に使われるが、本来は、毒消しとか、口の中を洗うという役割もある。
だから、刺身を口に入れる前に、つまを何もつけずにそのまま食べると、口の中に残っている他の料理の味が消えて、刺身の味が引き立つのだという。
この話を聞いて、私は試しに、つまに何もつけずに食べてから、刺身を食べてみたのだ。
すると、その料理人の解説通り、刺身の味が引き立つのが分かる。
それだけではない、刺身を食べた後で、何も付けないつまを食べると、次の料理も美味しく感じるのだ。
懐石料理などの畏(かしこ)まったコース料理の場合であれば、刺身を他の料理と同時に食べる事は無いのかもしれないが、一般庶民が刺身を食べる場合、その多くは、複数の料理と同時にテーブルの上に並んでいるのである。
だから、刺身と他の料理を交互に食べるという事も、当然、あり得(う)る訳であり、そんな庶民の食卓でこそ「刺身のつま」が活躍する場面が多くなるという事なのだ。
その体験をしてから私は、刺身を食べている時には、つまには何もつけないで食べている。
だがしかし、
刺身を食べ終わった後であれば、私は残ったつまにわさび醤油をかけて食べているのである。
いやはや、
こればかりは、なにぶん「食の好み」なのだから、仕方がない。
庶民の食卓 ~刺身~ Danzig @Danzig999
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